これからはネットの時代で、ネットがあればマスコミはいらないという意見もある。
確かにネットには、いろんなニュースが載っている。
だが、マスコミ以外のネットポータルサイトの大きなニュース情報源は、通信社(通信会社ではない)から購入したものがほとんどのはずである。
個人のネット情報をいくら大量に集めても、政治、経済、社会、文化、スポーツ、芸能、を体系的にカバーできる情報媒体にはなりえない。
そこには通信社、及びマスコミの、業務としての情報収集能力(各社の担当記者)と編集能力(膨大なニュース価値を判断し取捨選択する)があり、個人情報の寄せ集めのネットには、とてもできない業である。
事実、ネット上のSNS等の記事の中から、通信社やマスコミからのニュースソースがどれだけの数があり、個人が発信したニュースがどれだけあるか抽出し、比較すると分かるはずである。
まして、マスコミの最新ニュースに関連する解説記事や評論記事と、同じレベルのネット記事は極めて少ないと思われる。(ネット上に出しているマスコミ・通信社及び関連会社やその関係者のサイトを除く)
このように考えると、ネット上のニュース関連記事のほとんどが、マスコミから発せられた情報の2番煎じや3番煎じのことが多いのではないかと推察している。(これらの点は実際に調査していないので断言はできないが、物理的にも経済的にも、ニュースの取材は片手間ではできないと考えられる。)
更にネット上には、根拠のない話もまことしやかに流れ、多くの人の支持を得ている場合が多い。
例えば、似非科学情報は山とある。
マスコでは、報道する前に、何重にもチェックが入り、できる限り間違いのないものを出そうとするが、ネットでは、投稿されたものに関しては何のチェックもなく、毒薬(根拠のない間違った情報や意見)から薬(正確な事実情報・批判評論)まで玉石混交であり、多くの人が、根拠のない話を信じる場合もよくある。
イスラム国に多くの若者が参加するのもその一例だ。
また、ネットにはコミュニケーション機能があるが、マスコミにはない。
コミュニケーション即ち、対話をする場合、自然と対話を重ねるうちにグループを形成するようになり、同じ意見や考えの者が集まりやすい。
そこで、自然発生的にコミュニティーや村のようなものが形成される。
そうしたコミュニティーでは、同じ意見ばかりで、反対意見は無くなることが多く、過激になりやすい。
その結果、ネット情報ばかりに頼っている人は、井の中の蛙になりやすく、自分たちの意見が多数派とか、正しいと思いこみやすい。(FBの場合は同好の友達知人が集まるので、その傾向が強くなる可能性あり。)
更に多くのネットのコミュニティーの持つ匿名性が、無責任で過激で幼稚な意見を生む温床になりやすい。(ある意味、卑怯で臆病で無責任な意見が出やすいと思っている。)
無論、権力層に対し、弱者が対等に対話や批判をするための匿名性ということは認めるし、必要であろう。
しかし多くの場合、対権力者というより、権力者以外の自分たちの意見と違う人に対しても根拠のない誹謗中傷を行う場合が多いと聞く。(私はそのようなサイトに関係しないので分からないが。)
現実に、匿名で書く記事には「過激なことを好き勝手に書いている」と自慢する人に出会ったことがある。(私はそういう人は、信用しないことにしている。)
更に、たまに見かけるタイプであるが、人によっていうことを変えて、B氏と話す時はA氏のことを批判し、A氏と話す時はA氏のことを批判するといった、自分だけが良い目で見られれば良いという人がいるのだ。(過去何人もそういう人を知っている。)
以上のようなことを考えると、ネット情報とマスコミ情報は、使い分ける必要がありそうだ。
しかし、最近はマスコミがネットに進出しているので、ネットとマスコミの境界線が無くなっているので、そうした分け方そのものが無意味かも知れない。(マスコミ不要論の中には、マスコミのネット進出を混同している可能性がある。マスコミが、ネットに進出してもマスコミである。)
マスコミ不要論より重要な事は、上記の様々なことを考えつつ、正確な情や意見を見分ける能力を鍛えるべきだろうと思う。
参考:意見(主義主張)の見分け方考え方と価値観。
論理より、感情に訴えてくる意見(例:愛国心、国防、抑圧された者、命)には要注意だ。
例えば一人の命を救うために5人の命が失われるとしたら、一人の命を救うだろうか。(現在の人質の話ではありません。)
すべての国が、愛国心や領土を振りかざすと、戦争をするしかなくなるが、戦争で解決することは出来ない。
このように、世の中で、物事を白か黒かで割り切れることは、少ないのである。
また、単純明快な元気な意見は、その事実が本当かどうかとか、前提となっていることが正しいかどうか見直した方が良い。
政治であれ、芸術であれ、人間関係であれ、人間の絡むことは価値観がその根底にある。
その価値観は、各人、各地域、各国によって違うので、自然科学と違い、理屈だけでは解決しない。
価値観の中には、宗教や風土や習慣も入っていて、こうしたものは論理で解決しようがないので、お互い理解し尊重するしかないのだ。(価値観<宗教を含む>を冒瀆してはならない。)<ハンチントンの「文明の衝突」の分析や考え方に、そうした考えが提示されている。。>
そうした意見の違いを乗り越えて妥協し、合意点を見つけるのが政治である。
人間のすることに絶対正しいは、ないと思っている。(政治も立場で見方は変わる。絶対正しい政治はない。)
その意味で、反対意見もしっかりと聞いたうえで、自分で判断することが必要だ。
この原稿は昨日記150127に投稿した記事の一部を抜粋し大幅に加筆したものです。
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確かにネットには、いろんなニュースが載っている。
だが、マスコミ以外のネットポータルサイトの大きなニュース情報源は、通信社(通信会社ではない)から購入したものがほとんどのはずである。
個人のネット情報をいくら大量に集めても、政治、経済、社会、文化、スポーツ、芸能、を体系的にカバーできる情報媒体にはなりえない。
そこには通信社、及びマスコミの、業務としての情報収集能力(各社の担当記者)と編集能力(膨大なニュース価値を判断し取捨選択する)があり、個人情報の寄せ集めのネットには、とてもできない業である。
事実、ネット上のSNS等の記事の中から、通信社やマスコミからのニュースソースがどれだけの数があり、個人が発信したニュースがどれだけあるか抽出し、比較すると分かるはずである。
まして、マスコミの最新ニュースに関連する解説記事や評論記事と、同じレベルのネット記事は極めて少ないと思われる。(ネット上に出しているマスコミ・通信社及び関連会社やその関係者のサイトを除く)
このように考えると、ネット上のニュース関連記事のほとんどが、マスコミから発せられた情報の2番煎じや3番煎じのことが多いのではないかと推察している。(これらの点は実際に調査していないので断言はできないが、物理的にも経済的にも、ニュースの取材は片手間ではできないと考えられる。)
更にネット上には、根拠のない話もまことしやかに流れ、多くの人の支持を得ている場合が多い。
例えば、似非科学情報は山とある。
マスコでは、報道する前に、何重にもチェックが入り、できる限り間違いのないものを出そうとするが、ネットでは、投稿されたものに関しては何のチェックもなく、毒薬(根拠のない間違った情報や意見)から薬(正確な事実情報・批判評論)まで玉石混交であり、多くの人が、根拠のない話を信じる場合もよくある。
イスラム国に多くの若者が参加するのもその一例だ。
また、ネットにはコミュニケーション機能があるが、マスコミにはない。
コミュニケーション即ち、対話をする場合、自然と対話を重ねるうちにグループを形成するようになり、同じ意見や考えの者が集まりやすい。
そこで、自然発生的にコミュニティーや村のようなものが形成される。
そうしたコミュニティーでは、同じ意見ばかりで、反対意見は無くなることが多く、過激になりやすい。
その結果、ネット情報ばかりに頼っている人は、井の中の蛙になりやすく、自分たちの意見が多数派とか、正しいと思いこみやすい。(FBの場合は同好の友達知人が集まるので、その傾向が強くなる可能性あり。)
更に多くのネットのコミュニティーの持つ匿名性が、無責任で過激で幼稚な意見を生む温床になりやすい。(ある意味、卑怯で臆病で無責任な意見が出やすいと思っている。)
無論、権力層に対し、弱者が対等に対話や批判をするための匿名性ということは認めるし、必要であろう。
しかし多くの場合、対権力者というより、権力者以外の自分たちの意見と違う人に対しても根拠のない誹謗中傷を行う場合が多いと聞く。(私はそのようなサイトに関係しないので分からないが。)
現実に、匿名で書く記事には「過激なことを好き勝手に書いている」と自慢する人に出会ったことがある。(私はそういう人は、信用しないことにしている。)
更に、たまに見かけるタイプであるが、人によっていうことを変えて、B氏と話す時はA氏のことを批判し、A氏と話す時はA氏のことを批判するといった、自分だけが良い目で見られれば良いという人がいるのだ。(過去何人もそういう人を知っている。)
以上のようなことを考えると、ネット情報とマスコミ情報は、使い分ける必要がありそうだ。
しかし、最近はマスコミがネットに進出しているので、ネットとマスコミの境界線が無くなっているので、そうした分け方そのものが無意味かも知れない。(マスコミ不要論の中には、マスコミのネット進出を混同している可能性がある。マスコミが、ネットに進出してもマスコミである。)
マスコミ不要論より重要な事は、上記の様々なことを考えつつ、正確な情や意見を見分ける能力を鍛えるべきだろうと思う。
参考:意見(主義主張)の見分け方考え方と価値観。
論理より、感情に訴えてくる意見(例:愛国心、国防、抑圧された者、命)には要注意だ。
例えば一人の命を救うために5人の命が失われるとしたら、一人の命を救うだろうか。(現在の人質の話ではありません。)
すべての国が、愛国心や領土を振りかざすと、戦争をするしかなくなるが、戦争で解決することは出来ない。
このように、世の中で、物事を白か黒かで割り切れることは、少ないのである。
また、単純明快な元気な意見は、その事実が本当かどうかとか、前提となっていることが正しいかどうか見直した方が良い。
政治であれ、芸術であれ、人間関係であれ、人間の絡むことは価値観がその根底にある。
その価値観は、各人、各地域、各国によって違うので、自然科学と違い、理屈だけでは解決しない。
価値観の中には、宗教や風土や習慣も入っていて、こうしたものは論理で解決しようがないので、お互い理解し尊重するしかないのだ。(価値観<宗教を含む>を冒瀆してはならない。)<ハンチントンの「文明の衝突」の分析や考え方に、そうした考えが提示されている。。>
そうした意見の違いを乗り越えて妥協し、合意点を見つけるのが政治である。
人間のすることに絶対正しいは、ないと思っている。(政治も立場で見方は変わる。絶対正しい政治はない。)
その意味で、反対意見もしっかりと聞いたうえで、自分で判断することが必要だ。
この原稿は昨日記150127に投稿した記事の一部を抜粋し大幅に加筆したものです。
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