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『サングラハ』第198号が出ました

2024年11月29日 | 広報
目次
 ■ 巻頭言 ……………………………………………………………………………………… 2
 ■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(5) ………………………………………岡野守也 … 3
 ■ サンカーラの発見(2) …………………………………………………………羽矢辰夫 … 16
 ■ ウィルバーが描く未来の仏教
  ――Integral Buddhism and the Future of Spiritualityを読む(1) ……増田満 … 18
 ■ 【サングラハ&ヒューマン・ギルド共催ZOOM企画】のご案内 ………森哲史 … 27
 ■『サングラハ』に入会して(2) ………………………………………杉山喜久一 … 29
 ■ サングラハと私(13) …………………………………………………………三谷真介 … 33
 ■ 講座・研究所案内 …………………………………………………………………………… 43

ご購入と詳細はこちらから 
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2024年12月サングラハ講座『般若心経』講座のお知らせ

2024年11月20日 | 広報
サングラハ教育・心理研究所2024年12月スタートの講座案内をお伝えします。

これまでと同じく、講義の録画をyoutubeのURLを毎月お送りするほか、受講者がZOOMで同時に講義を聴き、意見、感想を交流しあう機会を設けています。
みなさんの受講申し込みをお待ちしています。ご一緒に学んでいきましょう。

なお、配信動画は講座当日から1カ月視聴可能です。
どうぞふるってご参加ください。

【日曜講座】『般若心経』講座(全1回)

『般若心経』は、わからないまま唱えても、心をやすらかに、さわやかにしてくれるふしぎな力がありますが、内容がわかって唱えるとその効果はいっそう深まるようです。

 短い経文に、ごくふつうの生活をしている現代の私たちにもそのまま通用し、そして心の支えになる英知が凝縮されています。

 初めての方にもおわかりいただけるよう、できるだけほぐしてわかりやすくお伝えしたいと思っています。

受講料や同時視聴日のご確認とお申込みについては、下記の研究所のページでご確認ください。

こちら↓
2024年12月サングラハ講座『般若心経』講座のお知らせ | サングラハ教育・心理研究所
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般若経典のエッセンスを語る59――すべては名によって仮のものが実体に思える

2024年10月14日 | 仏教・宗教

 以上、まず般若経典のエッセンスが非常によく表われていると思われる個所をご紹介してきた。これまで述べたことがおわかりいただけばもう終わりと言ってもいいくらいだが、般若経典自体はまだ果てしなく語っているので、筆者ももう少し引用しながら解説していこうと思う。

 次に「三仮品第七」という個所をご紹介したい。タイトルの意味は、私たちがものごとを実体的に捉えてしまう元は物事を名前で呼ぶことにあるということ、つまり名詞を使って把握し、名詞を使って把握して感受・認識し、それによって実体的な存在があると思ってしまうということである。

 これについて『昭和新纂国訳大蔵経』版の註に「……名・受・法の三、皆悉く仮説(けせつ)なるを説くなり」とある。

 先ほど木の話をしたが、「木」という名前(名)を使って木を見る。すると私たちはそれを「あそこに木がある」と感受・認識する(受)。そして感受・認識すると、「木」という実体的な存在(法)があると思う。これが「名―受―法」ということである。

 もちろん仮に、確かに木は空気ではないし、木は大地ではないし、木は雨ではないし、木は太陽ではないという「区別」はできる。区別を付けるという意味で名付けることは仮には許容されるのだが、しかし名付けたとたんに、木が木だけで存在するように見え、感受・認識され、それどころか木という実体があると思えてしまう。

 そういうふうに仮に名づけたり認識したりするのは、常識的には当たり前だし何の問題もないように思えるのだが、しかし深く洞察していくとそれは実体ではない。だから、この三つの事柄はすべて「仮に」ということなのだ、と述べられている。

 爾時仏慧命須菩提に告げたまはく、『汝当に諸の菩薩・摩訶薩に般若波羅蜜を教ふること、諸の菩薩・摩訶薩の成就すべき所の般若波羅蜜の如くすべし。』即時に諸の菩薩・摩訶薩及び声聞大弟子諸天等此念を作さく、『慧命須菩提自ら智慧力を以て、当に諸の菩薩・摩訶薩の為に般若波羅蜜を説くべきや』と。是の仏力の為に、慧命須菩提諸の菩薩・摩訶薩大弟子諸天の心の所念を知り、慧命舎利弗に語らく。

 ある時、ブッダがスブーティ長老に告げて言われた、「修行をしている菩薩たちに般若波羅蜜を教えるときには、菩薩たちが完成・成就する、そういう般若波羅蜜のように教えなさい」と。

 この時にまわりで聞いていた菩薩や声聞たちとは、ブッダの声を聞いて修行し覚るというつまり直弟子のことである。その直弟子の中でも主要な十人を大弟子という。それからこうした説法の場には必ず天人や、仏教・インドの神話的な動物や一種の鬼、あるいは龍神などといった、さまざまな存在までが聞きに来ることになっている。これらがみな疑問を持ったというのである。「ブッダがいわば『語りなさい』と言ったので、スブーティがこれから語るのだが、これは自分の智慧で語るのか。スブーティが自分の智慧で『私はこう思っている』という話をするのか」と。

 スブーティはブッダの覚りの力を被っていて、その中には他人の心がわかる「他心通」という神通力があり、その他心通でみなが思っていることを「彼らは私が『ブッダとは別に自分の意見を偉そうに述べるのか』と疑っているな」と洞察したという。

 この個所について、般若経典は大乗経典であり、声聞にあたる部派仏教の人たちが「大乗は勝手に新しい説を説いているのではないか」という疑念を持っていることに対する大乗の自己弁護という面があるのではないか、と筆者は解釈している。

 疑問・疑念に対して、「そうではない」と、代表者に語ることによって全員に語るという形で、スブーティがシャーリプトラに言う。

 『諸の仏弟子の説く所の法、教授する所皆是れ仏力なり。仏の説く所の法と法相と相違背せず、是善男子、是法を学び、是法を証するを得、仏説は燈の如し。舎利弗、一切の声聞辟支 仏実に是の力無くして、能く菩薩・摩訶薩の為に般若波羅蜜を説かんや。』

 「弟子たちが説く教えや教授することはみな、ゴータマ・ブッダの神通力のおかげを被ってのものなのだ。だから勝手な意見を言っているのではない」、つまり「私はゴータマ・ブッダの力をいただいて語っているので、私の個人的な思想を述べているのではない。ブッダが語ったのと異なる新しいことを言っているのではない」と。

 それが成り立つのはなぜかというと、ブッダが覚っても覚らなくても、語っても語らなくても、真理は元からあるのであり、それをブッダは覚り語られたのであり、まったく同じ真理を私も覚ったのだから、それは「ブッダの神通力を私がいただいた」という表現をしてもいいし、そういう表現のほうが弟子たちの抵抗が少ない。「ブッダが覚ろうが覚るまいが、私が覚ったのだ。私が覚ったことを語るのだ」と言うと、仏弟子たち、すなわち部派仏教の人たちに大きな抵抗が出るので、それを和らげるために、「これはブッダの神通力をいただいて語るところで、ブッダがお説きになる真理あるいは真理の姿とまったく矛盾しないのだ」という表現を取っているのではないか、筆者は推測している。

 「みなさん良き家の出の男性たちはこの教えを学んでこの教えを覚ることができる。その仏の説くところは、灯火(ともしび)のようなものだ」」とあるが、この場には男性の修行者たちしかいなかったのだろうか。そうではないと思われるがそれはともかく、ローソクが一本あるとする。そこにもう一本ローソクを持ってきて火をつけると灯火は二本になる。しかし、この両方の灯火は同じ灯火である。このローソクからこのローソクへと火がついて形は二つになっているけれど、同じ灯火なのである」と。

 つまり、たくさんの灯火が灯っているその元はゴータマ・ブッダという方の覚られたことだとしても、それはブッダ独占のものではない。原始仏典の中でブッダ自身が「私の歩んでいる道は昔からあり、私が作った道ではない。私が再発見したのだが、実はこれはずっと昔からある道なのだ」ということを語っている。それと同じことで、大乗はブッダからこうして灯火が灯火へ伝わる如く受け継いでいるのだ、と。

 そしてシャーリプトラに、「弟子たちが、まさに灯火から灯火へというふうな覚りを得ることができていないとしたら、菩薩・摩訶薩のために分別を超えた智慧を説くことができるだろうか」と言う。

 爾時、慧命須菩提、仏に白して言さく、『世尊、説く所の菩薩、菩薩の字、何等の法を菩薩と名くるや。世尊、我等是法を菩薩と名くるを見ず。云何が菩薩に般若波羅蜜を教へんや。』

 「般若波羅蜜を正しい仕方で教える」という話をしているのに、これは非常に逆説的(パラドキシカル)な表現である。「世尊・ブッダよ、ここで説かれているところの菩薩ということ、それから菩薩という言葉は、どういう存在を菩薩と名付けているのでしょうか。私たち――つまりほんとうに般若波羅蜜を体得している人間――は、特定・個別の存在として菩薩と名付けるようなものが存在するなどということは思いない。一体だから、分離した先輩の菩薩が、分離した後輩の菩薩に、分離した般若波羅蜜を教える、などということはない」と。ゴータマ・ブッダに「そうですね?」と確認しているわけである。

 仏須菩提に告げたまはく、『般若波羅蜜亦但だ名字のみ有り、名けて般若波羅蜜と為す。菩薩と菩薩の字も亦但だ名字のみ有り、是名字内に在らず外に在らず中間に在らず。須菩提、譬へば我の名を説くが如き、和合の故に有り、是の我の名不生不滅なり、但だ世間の名字を以ての故に説くのみ。

 「般若波羅蜜」とは、いちおう名前として何か言わないと伝わらないので名付けたものだ、と。例えば本書に「般若経典のエッセンスを語る」などと名前を付けなければ、読者に本書の存在をお知らせできないようなものである。「○○の講義をする」という言葉を使わないことにはそもそも講義の場が始まらないので、仮に「般若波羅蜜」というものがあることにしておいて、「その説法をします」と言えば、「では、行って聞いてみようか」という話になる。「そのために、仮に言葉を使って般若波羅蜜があるかのごとく言うだけだ」と。だから、般若波羅蜜という言葉があって、般若波羅蜜と言ってはいるが、ほんとうは般若波羅蜜というものは実体としてはないのだという。

 それから、菩薩という存在、菩薩という名前、これもただ名前を付けているだけだ、と。菩薩という名前のことを考えてみると、これは中にあるわけではないし、外にあるわけではないし、中間にあるわけでもない。ただ「分離はしていないけれども区別はある」ということを表現するために使っているので、実体的に私の中にあったり、そうではなく向こうにあったり、その中間にあったり、という意味で存在するものではない。だから物理的な存在ではなくて、精神的存在といえば精神的存在だけれど、それもまた仮にそう言っているだけだ、と。

 そして、「私・我(われ)」という言葉を使う。ところが私という存在は、ご先祖さまの縁、お父さん・お母さんの縁、食べ物の縁、水の縁、空気の縁、等々々が和合して、しかも形が変わりながらある一定時間似た形を保っているだけである。

 とはいっても、高齢になった人が、生まれてすぐ産湯を浸かっているアルバムの写真をしみじみ見ても、今の自分とは似ても似つかないと感じたりするものである。親から「これはおまえの生まれたときの写真だよ」と言われているから、「私はこんなふうだったのか」と思うだけで、今の私とはまるでといっていいくらい似ていないこともある。それどころか、老人になって若い頃の自分の写真を見ると、ある程度面影はとどめていても、そうとうに変わっていたりする。そういうふうに変化してきているものを同じ「私」と思うのは、言葉による記憶がまとまって集積されているからなのである。

 それは、アルツハイマー病等で言葉の集積回路が壊れてしまうと、親しい人の名前や関係を表わす名称がわからなくなり、さらに進むと悲しいことに自分が誰なのかもわからなくなったりして、人格性が失われていくという例からも、言葉の集積によって変わらない一定の人格が想定されているだけだということがわかるのではないだろうか。

 この私という存在も、いろいろな縁が合わさって・和合して、いちおう仮にはある。その元になる名前にはそもそも実体などというものはないから、生まれもせず滅びもしない。何かが実体としてあるであれば、それが生まれたとか生まれないということもあるだが、そもそもそういうものではないので、不生不滅だ、と。しかし約束事としての言葉で世間は成り立っているから、いちおう仮に「世間の名字を以ての故に説く」だけだ、と。ただ世間・社会の約束事の言葉として説くのであって、ほんとうにはそういうものが実体としてあるのではないという。

 それについてさまざまな例を挙げ、菩薩に関しても同様だという。菩薩とはボーディサットヴァ、覚りを求める人・存在であるが、もちろんさまざまなご縁で存在・人間になっていて、たまたまあるご縁で、「覚りの世界がある」「般若波羅蜜多がある」と聞いて、ほんとうは掴むものではないのだが、「ああ、それを掴みたい」と思っている。そうしたことがすべて和合によって縁起的に現われているのを仮に「菩薩」という名前で呼んでいるだけだ、と。
そのようにすべてのことは仮に名前でそう呼んで言うだけなのだ、と。

 経文ではこうしたことが長々と述べられているが、省略して先に進むことにしよう。

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般若経典のエッセンスを語る58――瞑想と智慧と菩薩は別のものではない2

2024年10月13日 | 仏教・宗教

 対話は続く。

 舎利弗須菩提に語らく、『若し三昧菩薩に異ならず、菩薩三昧に異ならず、 三昧は即ち是れ菩薩、菩薩は即ち是れ三昧ならば、菩薩云何が一切諸法、是れ三昧と知るや。』
 須菩提言はく、『若し菩薩是三昧に入らば、是時是念を作さず、我れ是法を以て、是三昧に入れりと。是因縁を以ての故に、舎利弗、是菩薩諸の三昧に於て知らず念ぜざるなり』と

 シャーリプトラがスブーティに語った、「そういうふうに菩薩と三昧が一体だというのなら、菩薩はすべての存在がまた三昧なのだと知ることができるだろうか」。スブーティが答えて言う、「もし菩薩が三昧に入ったなら、その時には次のような思いはない。『私はこの教えによってこの三昧に入った』と。こういうわけで、シャーリプトラよ、この菩薩はもろもろの三昧において知ることも思うこともないのである」と。
 最後の「知らず念ぜざるなり」とは 「認識したりイメージしたり思ったりはしない」ということである。思考もイメージもまったく消えている状態が三昧であり、それが菩薩ということなのであり、それが般若波羅蜜ということなのだ、と。

 つまりほんとうに瞑想状態になっていたら、「これこれの事柄や教えや真理によって三昧に入ったのだ」といったことは考えない。智慧つまり般若波羅蜜と三昧と菩薩はまったく一体のものなのであり、まったく一体という時には、実はもはや思考が完全に働いていない。私とは別に、外に存在すると思っている一切諸法もまた三昧状態すなわち一体であるから、そこではまったく「知らず念ぜざるなり」「都て分別の念無きなり」という状態なのだ、と。

 私たちはどうしても分別をしている状態でいろいろなことを思うので、「三昧」とか「般若波羅蜜」「菩薩」と名詞で語られると、それぞれが別のものだと思ってしまうし、まして「一切諸法・すべての存在」と言われると、私とはまったく別に多様な万物があると思ってしまうのだが、そうではなく、それらがすべて一体だといわば体感することがサマーディなのである。だからサマーディはまさに菩薩そのものであり般若波羅蜜そのものなのだ、と。

 次は、シャーリプトラが聞き、スブーティがまた答える。

 舎利弗言はく、『何を以ての故に、知らず念ぜざるや。須菩提言はく、『諸の三昧所有無きが故に、是菩薩、知らず念ぜざるなり。』

 いちおう相対的に区別すると「諸の三昧」つまりいろいろなタイプの瞑想法があるのだが、どの瞑想も「所有無き」ということが根本・基本である。この「所有(しょう)」は所有(しょゆう)という言葉の語源である。所有とは、「実体的に持つことができるもの」「実体的存在」のことで、つまり実体という意味である。「有(う)」だけでも実体という意味であるが、特に把握し獲得するというニュアンスが所有にはある。そういうことができるような意味での存在はない、あらゆる事柄について実体的な把握ができない、というのがほんとうの姿なのだと覚ろう・覚る・覚っているのがサマーディであり瞑想であるから、当然、個別の実体的なものを認識したりイメージしたりはしない。もうまったくそういうことがなくなるのがサマーディである、と。

 私たちはなかなかそうした純粋なサマーディに入れないし、もちろん日常のいろいろなイメージや言葉が巡っている状態は全然サマーディではない。

 そこで、入り口のところでいろいろな工夫をし、深めていくわけである。最初の入り口として「ひとー、つー」と呼吸を数えるとか、呼吸と数を数えるのにある程度集中できるようになったら、次は「無」という言葉と呼吸にひたすら「むー…、むー…」と集中する。

 しかし、それができるようになっても、そこにまだ「無」が残っている。そこで、その「無」もやめてひたすら心の眼で呼吸を見つめるのであるが、そこでもまだかすかに「見ている私」と「見られている呼吸」という微妙な二分法残っている。さらに、もう言葉がないのをあえて言葉にすれば「ただ坐っているだけ」というか。しかし、ただ「坐っている」と言うと「立っている」や「寝ている」とやはり分別されているので、あとで日常意識に戻ってその瞑想のことを語るとしたら、いわば「ただあるだけ」「ただ存在しているだけ」というふうになるだろう。

 といってもそれは実体ではないので、ふつうの意味で認識をするとかイメージ的に捉えるということでない。しかしもちろんのこと、うっとりとしているわけでもなければぼんやりとしているわけでもなく、ましてや意識を失ってしまっているのではない。

 さとりは「悟り」とも表記するが、むしろ「覚・目覚める」と表記するほうが適切だと筆者は考えている。寝てしまっていたら目覚めにならない。はっきりと目覚めているけれども、そういう言葉が働かずイメージが働かない状態で、あえて言えばすべての存在と自己との一体性を実感している。

 しかしそれもすべて言葉で言っていることで、だから「一切の存在と自分があって、一体化する」といった表現になりがちだが、ほんとうはもともと一体であることに気づくだけなのである。

 ここまで、「ほんとうの瞑想とはこういうことですね」と二人でブッダに代わってやり取りをしているわけである。すると、そのやり取りを仏さま・ブッダが聴いていて、褒めて言ってくださった。

 爾時、仏讃じて言はく、『善い哉善い哉、須菩提、我が説けるが如く、汝無諍三昧を行ずること第一なり。此義と相応せり。菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を学すべし。禅那波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、羼提波羅蜜、尸羅波羅蜜、檀那波羅蜜、四念処乃至十八不共法も亦是の如く学すべし。』

 学ぶときにはこの三昧と同じように、決して知的なあるいはイメージ・情感的な把握の仕方をしないで、実体はないのだと目覚めるというふうに修行しなさい。般若波羅蜜を学ぶときに、「般若波羅蜜があって、それを私が獲得する」という思いになったら、それはもう学び方が間違っているのだ、と。

 毘梨耶は訳すと精進で、「私が精進する」と思ったら、それはほんとうの精進ではない。
 羼提波羅蜜は忍辱で、「私があいつのやったことを我慢する」、つまり「私」と「あいつ」というふうに分別して思っている間は、ほんとうの忍辱にならない。
 尸羅とは戒律で、「私がこの戒律を実行する」と思って実行する戒律の仕方は、ほんとうの学び方ではない。
 檀那波羅蜜は布施である。サンスクリットではダーナといい、それが漢訳されると檀那になる。転じて布施をしてくれる人のことも指すようになり、そこから転じて女性の世話をしたり店の人を世話する人を「檀那」と呼ぶようになったようだ。今の若い女性にパートナーのことを「うちのダンナ」と言う方がいるようだが、それも「檀那」からきていると思われる。そういうふうに、日本語ではいろいろな仏教用語が俗化している。それはともかく、「私が誰かに何かをしてあげる」というふうに分別して思っている間は、ほんとうの布施ではないということである。

 つまり、六波羅蜜それぞれすべてを、自己と他の完全な一体感の中で実行するのがほんとうの学び方で、そういう学び方をするともはや心の中に対立がなくなり、もちろん他との対立もまったくなくなる。それを「無諍三昧」といい、すべてものと一体になってしまうと、心理的にも現象としての人間関係にも、葛藤・争いがまったくなくなってしまうという。

 スブーティを、ブッダは「おまえは一切のもの、自分自身とさえも争わないというサマーディを実践することにおいて、わが弟子の中でも最高だ」と誉め、「おまえの言うとおりだ」と言う。
 ここでは長くなるので「四念処乃至十八不共法」の解説は省略することにする。
 
 ともかく、菩薩が修行をするとき、ふつうの人のように「私が勉強して~を獲得する」「~を自分のものにする」といった学び方をするのでは、そもそも学び方が間違っている。学ぶ人と学ばれることの分離感があるかぎり、それはもう仏教の学びではないのだという。

 しかし、仏教についてもふつうの教養の学び方をしてしまうと、「私が知らないことがあって、それを私が勉強して、私は知識を獲得し、私は前より偉くなった」というふうになってしまう。

 しかし、仏教の学びは本来そうではなく、妄想から離れて自分の本質に目覚めていくのであり、獲得するのではなく、目覚めていくだけなのである。もともとそうなのだから、今までと違って偉くなるというのではない。しかし、あえて偉いと言えばもともと偉い。宇宙と一体であるから、宇宙的に尊いと言ってもいい。けれども他者とすべて平等であるから、実はもう偉いも偉くもない。もともとそういうことなのだと気づいていくだけなのであって、獲得をするという学び方では、そもそも学び方が違うのだ、と。

 舎利弗仏に白して言さく『世尊、菩薩・摩訶薩是の如く学するを般若波羅蜜を学すと為すや。』仏舎利弗に告げたまはく、『菩薩・摩訶薩是の如く学するを般若波羅蜜を学すと為す、……』

 スブーティがそう言われたので、シャーリプトラが確認のために「つまりこういうふうな学び方がほんとうに般若波羅蜜・智慧を学ぶことなのですね」とブッダに聞いて確かめる。
 
 もうまったく一体平等、差別なしだから、「私が何かを獲得する」「私が何かを誰かにしてあげる」「私が誰かのしたことを我慢する」といった差別・分離に基づいてするのではない学び方こそ、ほんとうの般若波羅蜜を学ぶことなのだということが語られていて、般若経典の要点というかエッセンスが、こういうところに現われている。

 この一切と平等だという三昧あるいは智慧が、最初に述べた慈悲となって働きはじめる。しかし、菩薩にはレベルとしては初心から最上級まであって、観音菩薩も菩薩であり、私たちも本気で修行を始めたらいちおう菩薩なので、レベルの差は驚くほど大きいのだが、それはともかく、初心の菩薩はここを目指して、自らの本質に、そして宇宙の本質に気付いていくのだ、と。獲得するのではない。三昧とは、気づけば気づくほど、般若波羅蜜と菩薩と一切諸法と一切衆生と、すべて一体なのだということに、深く深く気づいていくことである、と。

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般若経典のエッセンスを語る57――瞑想と智慧と菩薩は別のものではない1

2024年10月12日 | 仏教・宗教

 前回、菩薩・摩訶薩・菩薩大士の大乗とは、要するにサマーディ・三昧だと いうこと、その三昧について三三昧ということをお話しした。私たちの坐禅も三昧の入り口としてやっているわけだが、「三昧に入る」ということを考えるとき、私たちは「私が三昧に入っている」「私が三昧から出た」といった捉え方をする。それに対して、本格的な菩薩が三昧に入るとはどういうことかが語られているのが、次の個所である。

 慧命須菩提仏心に随ひて言はく、『当に知るべし諸の菩薩・摩訶薩、是三昧    を行ずる者は、已に過去の諸仏の授記するところたり。今現在十方の諸仏も亦是菩薩に記を授く。是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』

 三昧とは最後のところにあるように基本的には「分別の念無きなり」ということ、「あれ」「それ」「これ」といった分離的な思考がまったく休止している状態が三昧に入っているということである。
実は三昧にもいろいろなタイプがあって、他のところでは百八三昧、つまり大乗仏教の三昧の種類は細く挙げていくと百八あると言われている。これはおそらく百八の煩悩をそれぞれ消す百八つの三昧という意味もあるのだろうし、一つ一つの名前を見ていくと、「確かに瞑想にはこういう側面があるな。こういう側面もあるな」と気がつくのだが、今回はエッセンスの講義なので百八つそれぞれの解説はしない。しかしどの三昧であれ、まず言われていることは「分別の念無きなり」ということである。

 スブーティという、空の理解ではお釈迦さまの十大弟子の中で最高とされた人が、しかも仏の心に従って代わって言う、という設定になっている。

 もろもろの菩薩・摩訶薩はこうした三昧・瞑想を実践する。そういう者は、すでに過去の諸仏に「やがて必ず覚りを開く」という証明・保証をしてもらっているのだ、と。

 般若経の他のところでは、私たちがこういう経典に出会うこと、あるいは坐禅ができるようになることは、たまたまではなく前世でそれができるようになるためのカルマをちゃんと積んできからだと言われている。しかも、本格的な三昧をする菩薩・摩訶薩であれば、すでに過去世において「あなたはやがて覚る」という保証を得ている。また過去がそうであるから、まして今現在、菩薩が三昧を実践しているということは、ありとあらゆる諸仏が「やがてあなたは必ず覚りを開く」という保証・証明をしてくれていることなのだ、と。

 しかしそう言いながら、実は菩薩がほんとうに三昧を実践しているときは、「いろいろな種類の瞑想法がある」とか、あるいは瞑想法ということそのものを考えない。つまり分別的な思考で瞑想ということを考えないのだという。
また、「これから瞑想に入るのだ」とか「今瞑想に入ったところだ」「もう私は本格的に瞑想状態になったぞ」といったことを思っている間は、ほんとうの瞑想・三昧ではない。なぜならば、「今から瞑想に入る」「本格的に入ってきた」「すごく深くなったぞ」というのは、すでに日常的な意識と瞑想状態の意識とを分けて分別して捉えているからである。

 ほんとうの菩薩の三昧には、そういう分別はまったくない。坐禅中に「自分が坐禅をしている」、さらには「坐禅をしている」とか「自分」という意識がまったくなくなり、あえて言葉で言えば、ただ「そこにある」だけになる。その「ある」にも、「私」とか、この私で言えば「岡野守也」とか、そういう名前はなく、言葉が働いていないのだからほんとうは言葉で表現できないのだが、あえて言えば「サムシングがあるだけ」、そういう状態になるのがほんとうの三昧であり、そういう三昧を実践する菩薩・摩訶薩は必ず覚りを開く、あるいは、そういう三昧に入っているということは実はもう覚りを開いている、と言ってもいいわけである。

 すると、シャーリプトラがスブーティ・須菩提に質問をする。

 舎利弗須菩提に問はく、『菩薩・摩訶薩此の諸の三昧に住し、已に過去の仏    に従ひて記を受けたりや。』須菩提報へて言はく『不、舎利弗、何を以ての故に。

 智慧第一と解空第一の二人が問答をするのだから、これはすごく深い問答である。
 「住する」は「そこにしっかりとどまる」「それをしっかりと維持する」といった意味である。シャーリプトラが、「菩薩・摩訶薩がこのさまざまな瞑想法をしっかりと維持しているのは、すでに過去の仏に『おまえは必ず覚れる』という証明を受けたということなのか?」という質問をする。

 これはわかっていなくて聞く質問ではなく、この後のより深い言葉を誘発するための言葉であり、聞く形式によってより深い答えを引き出すのである。スブーティとシャーリプトラはお互いにもうわかり合っていて、その二人が問答しているのを、周りの人が聞いて学ぶのであり、そのためにスブーティが答える。「いや、シャーリプトラよ。そういうことではないのだ」と。なぜかと言うと。

 般若波羅蜜は諸の三昧に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は即ち是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』

 すでに紹介した個所と同じことを繰り返しているだけに読めるかもしれないが、しっかり見ていくときわめて丁寧に事柄を明らかにしていることがわかる。日本的に言えば、インドの人の思考法は確かに非常にくどいというか丁寧すぎると言えなくもないが。

 「この般若波羅蜜というのは瞑想と異ならない」。瞑想とはつまり分別知を完全に休止させてしまうことだから、分別を超えた智慧は即三昧ということである。「三昧に入るということは般若波羅蜜を得るということである」。言葉は違っているが、実は同じ事柄なのだ、と。そしてこの言葉を超えた智慧を得る、あるいは言葉を超えてしまう瞑想をするのが菩薩なのだから、実はそれはもうまったく一体のことなのだ。だから「般若波羅蜜と瞑想と菩薩は、ある意味ですべて同じことだ」というのである。

 私たちはどうしても、菩薩は菩薩として個別の人間性を持っていて、ある人が菩薩だということは、それはその人が般若波羅蜜を得ていて、かつサマーディをやっていることだと思いがちであるし、それから、特定の菩薩という人格とは別にどこかに般若波羅蜜があり、別に三昧があると思いがちである。しかしそうではなく、「般若波羅蜜は即ち是れ三昧」であり、「三昧は即ち是れ般若波羅蜜」であり、「菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧」なのだ、という。

 私たちは抽象的に言葉で捉えることで、「般若波羅蜜」や「三昧」という個別のものが「菩薩」とは別にあって、「菩薩がそれを修行する」あるいは「それを獲得する」というふうに考えてしまいがちだが、そうではなく、「もうそれそのものが菩薩なのだ」と。しかし、仮に言葉ではいちおうそれぞれを区別して言うほかないのである。

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『サングラハ』第197号が出ました

2024年10月06日 | 広報
目次

 ■ 巻頭言 …… 2
 ■ 近況と所感 ……岡野守也 … 3
 ■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(4) ……岡野守也 … 6
 ■ サンカーラの発見(1) ……羽矢辰夫 … 16
 ■ グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
  ――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(12) ……増田満 … 18
 ■ 私のサングラハでの学び(7) ……毛利慧 … 22
 ■『サングラハ』に入会して(1) ……杉山喜久一 … 24
 ■ 森のさんぽとコスモロジー ……横山昌太郎 … 28
 ■ サングラハと私(12) ……三谷真介 … 32
 ■ 講座・研究所案内 …… 43

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2024年9月サングラハ講座のお知らせ

2024年08月24日 | 広報
【土曜講座】「『維摩経』を学ぶ」第一期(6回)


『維摩経』は、初期大乗仏教の代表的な経典の一つです。


経典の主人公は、現代的にいうと創作上の人物で維摩詰(ヴィマラキールティ)といい、ゴータマ・ブッダと同じ時代の居士つまり在家の仏教徒です。


在家の大商人でありながら、ブッダの弟子たちよりもはるかに深い覚りの境地にあったとされています。


彼が病気で寝ているというので、ブッダに命じられて弟子たちが見舞いに行き、維摩詰と問答をするという筋立てを通して、大乗仏教の基本的主張である「智慧と慈悲」がどのようなものかが印象深く語られています。


聖徳太子も注釈書を書かれたと伝えられる『維摩経』をご一緒に学んでいきましょう。


なお、この講座は今期6回のあとも長期に続きます。


※同時視聴日より1か月程度YouTubeにて視聴可能となっています。
※youtubeにアップした動画はメールにてURLをお知らせします。


受講料や同時視聴日のご確認とお申込みについては、下記の研究所のページでご確認ください。


こちら↓
2024年9月サングラハ講座のお知らせ | サングラハ教育・心理研究所

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2024年8月サングラハ講座のお知らせ

2024年07月13日 | 広報
【日曜講座】「唯識と論理療法を融合的に学ぶ」(4回)

〈論理療法〉は、余分な悩みの元になっている不適切なものの見方を、より適切(論理的・理性的)なものの見方に取り換えることで、驚くほど悩みを軽くするセラピーで、発達段階としては、いい生き方のできる賢明な自我の確立・再確立から自己実現の促進に焦点が当たっています。

〈唯識〉は、いい自我が確立できてもまだ残る人間の心の深く困難な問題(無明‐煩悩)を超える理論と方法を示してくれる大乗仏教の深層心理学で、自己超越に焦点が当たっています。

この二つを融合的に学ぶことで、自我以前から自我の確立、そして自己実現、さらに自己超越という生涯にわたる人間成長、深い意味での生涯学習のしっかりとした道筋が見てくるはずです。

これまでと同じく、岡野守也主幹の講義の録画をyoutubeのURLを毎月お送りするほか、受講者がZOOMで同時に講義を聴き、意見、感想を交流しあう機会を設けています。

みなさんの受講申し込みをお待ちしています。ご一緒に学んでいきましょう。
2016年に東京行われた講義の録画で学んでいきます。

受講料
  • 一般1万4千円
  • 会員1万2千円
  • 年金生活・非正規雇用・専業主婦1万円
  • 学生5千円
開催日時(同時視聴)

8月11日、9月15日、10月13日、11月10日を予定しています。時刻は午後1時30分からです。

※同時視聴日より1か月程度YouTubeにて視聴可能となっています。
※youtubeにアップした動画はメールにてURLをお知らせします。

お申込みと受講料のお支払いについて

お申込みと受講料のお支払いのご案内については、下記の研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

こちら↓
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般若経典のエッセンスを語る56――初心の菩薩とよき師

2024年06月20日 | 仏教・宗教

 さて、もう少し先に行って区切りにしたいと思う。

 菩薩・摩訶薩是の如く般若波羅蜜を行ずる時、但だ諸法実相を知る。諸法実相とは無垢無浄なり。是の如く須菩提、菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、当に是知を作すべし、名字は仮の施設なりと。

 つまりさきほど学んだように、「私が」「修行する」とか「私が」「智慧を求める」というのではなく、そうしたことをぜんぶ忘れてしまうという修行の仕方をする。そのときに世界のすべての存在のほんとうの姿がわかってくる。すると、もう完全に一体なので、きれいとかきれいではないなどということを完全に超えてしまう、と。

 特定の価値観に基づいての、きれいとかきれいではないとか、善とか悪とかということを超えてしまうと、世界の姿つまり「諸法」が実にすばらしいものとして見えてくるというのが「諸法実相」という意味である。だから「諸法は空相」なのであるが、世界はすべてが空だとわかると、かえってすべての存在のすばらしさが見えてくる。それを「諸法実相」と表現する。

 だから菩薩・摩訶薩は、すべては空だとわかることによって、かえってすべてがすばらしいということがわかるようになる。そのすべてがすばらしいとわかったことに基づいて、この世をますますすばらしくしようというのが、「仏国土を浄める」ということになって来るわけである。

 繰り返すと、もうこの世はこのままでもすべてすばらしい、諸法実相なのだとわかる。しかし諸法実相というのは固定的なものではないのである。今の姿がありのままでオーケーだという場合、私たちは「ありのまま」ということを固定的に考えるがちだが、ありのままそのものが無常で変化していくものであるから、諸法実相は固定的なものではなくて無常なもの・変化するものである。

 そしてそれをますますすばらしいものにしていく、変化をいい変化にする、しかも宇宙の法則・縁起の理法にかなったかたちに世界の現象をすばらしく変化させていくというのが、菩薩の慈悲の行為・願ということである。

 菩薩・摩訶薩の「摩訶薩・大きな人」とは、どこまで大きいかというと、宇宙と一体化していて宇宙大に大きいから「摩訶薩・大士」という。

 菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行じ、諸法に於て見る所無し。是時、驚かず、畏れず、怖かず、心亦没せず悔いず。

 菩薩・大士が、無分別知つまりバラバラの存在を見ないという修行をすると、バラバラの存在などというものはないのだと覚る。そして、世界をそういうふうに見たからといって、驚いたり、恐れおののいたりしない。

 「ええ? 世界や私は実体ではないのか。実体などどこにもないのか。何かすがる絶対的なものが欲しかったのに、何もないのか」と思ってしまい、恐れたり、おののいたり、心が沈んでうつ状態になったり、「なぜこんな世界に生まれてきたのだ。生まれないほうがよかった」と悔いたり、といったことを菩薩はしないという。

 ところが初心の人は、こういうことを聞いたら、よくわからなくて畏れ、驚き、おののき、心が没したりする。

 そういうことではないのだとちゃんと教えてくれるよき師、ほんものの菩薩・摩訶薩を先生としなければ、空という思想は虚無主義に聞こえかねない。それから如というほうを強調しすぎると、スケールが大きすぎてついていけないと思ったりする。
だからよき師について、「この空というのは虚無でもなんでも全然なくて、それどころか全存在がありのままで、あるいはなるがままに肯定されているということなのだよ」とちゃんと教わる。

 それから「そんなに大きい話、こんなちっぽけな私にはついていけない」というのに対して、「あなたがついていけるかどうかじゃない。あなたの存在そのものが宇宙と一体なので、ついていくもいかないもないのだよ。ついていかなくてもいい。もう生きていれば宇宙と一体なのだから。あなたに必要なのは、宇宙と一体化することではなくて、宇宙と一体化しているのだということに気がつくだけだから」と。そういうことを、いい人について教わる。

 気がつくということは、スケールが大きいか小さいかには関係ない。目を閉じていたら見えないというのは、スケールには関係がない。目を開けたら見えるのである。
例えば大空は広い。しかし、心のスケールが広くても狭くても、目を開ければ誰でもその広い空が見えてしまう。

 それと同じで、「私と宇宙が一体だ」というのは事実だから、「私は、そこまで覚れるほど人間が大きくない」といったことを思う必要はない。もともとあなたの存在そのものが宇宙と一体なのであるから、「もう好きでもいやでも一体なのだ」ということをちゃんと教えてくれる先生につくと、これはスケールの大きすぎる話でもなければ、あまりにも個別性を超えていて虚しくなってしまう話でもないということが教われる。

 今、なかなかそういうよき師には出会いにくいかもしれないが、『摩訶般若波羅蜜経』のある個所に、「まさにこれ(『摩訶般若波羅蜜経』)が存在することが、仏が存在することだ」という言葉がある。『摩訶般若波羅蜜経』は即それがブッダなのだ、私たちが読めば、もう生けるブッダに語っていただいたのと同じことを読み取れるのだ、と。

 そのはずなのだが、残念ながら書き下しであっても漢訳は、慣れていない現代日本人は解説してもらう必要がある。
 幸い、全貌ではないが般若経典の重要なところは完全な現代語訳がある。しかし、現代語訳を読み解説を受けても、そこをちゃんとわかっている人に解説してもらわないと、やはり「何かすごく高尚で深そうだけれど、私にはわからない」ということで終わってしまうので、とてももったいないと筆者は思ってきた。

 私としてはとりあえず・かなりわかったつもりなので、私が般若経典のエッセンスだと思うところを、「私には大きすぎる話でとても」とか「え、私と思っているものは実体じゃないの?」といってへこんだりしないかたちでみなさんにお伝えしたいと思い、「般若経典のエッセンスを読む」という講座を開設し、それを元に原稿化しているというわけである。

 約半分が終わり、次回からは、般若経典は-大乗において最も中心的で有名な「空」とはどういうことなのか、テキストそのものにはどう書いてあるか、それをどう説明・解説できるかということを学んでいく。

 『摩訶般若波羅蜜経』の中には、「空とはこういうことだ」とかなり長く書いてある箇所があるのだが、読んだだけではわからないと思われるので、解説をしながら「空とはこういうことだ」と理解を共有していきたい。

 ただ、理解することは入り口に過ぎない。理解したことから覚るというところまで行くには、理解し納得して、本気で禅定をし、六波羅蜜を行なう必要がある。そうすると、やがてたとえわずかでも覚りが起こる、というプロセスになっていく。そういうことを、以下また続けて学んでいきたいと思う。

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般若経典のエッセンスを語る55――すべてはつながり・合わさってできている

2024年06月01日 | 仏教・宗教

 さて、次を見ていこう。くどいくらい繰り返し「言葉や単語を使ってものを見るから実体と思えるのだが、よく見るとそうではない」ということが語られている。

 須菩提、譬へば我の名を説くが如き、和合の故に有り、是の我の名不生不滅なり、但だ世間の名字を以ての故に説くのみ。

 個別的存在としての「私」という単語がある。「私」という単語があると、その単語で私を実体視するようになる。
 この私の心身は現象としてはある。しかし、赤ん坊は、そういう心身の現象を「私」とは思っていないように見える。
 そういう赤ん坊に対して、母親が繰り返し「~ちゃん、~ちゃん」と固有名詞で呼びかける。呼びかけ・声かけを続けていると、やがて赤ん坊は「~ちゃん」と言われたら反応し始める。つまり「~ちゃんがいる」と思い始めるのである。
 そして次は、代名詞である「私」とか「あなた」とかという言葉を学習していき、するとやがて「~ちゃん」の他に「アタチ」などの言葉を使うようになる。

 例えば親との縁で生まれてきて、食べ物との縁や水との縁などいろいろなものとの縁のおかげつまり「和合の故に」、私という現象・私が生きているという現象があるのだが、それを「私」という名前で呼ぶと、実体としての私がいるような気がしてくるのである。

 ところが、この「我(が)」という名前そのものは実体的に存在しておらず、ただ仮にこの世間では他のもの(者、物)と区別をするために「私」や「あなた」と呼ぶのだ、と。
 それが区別にとどまっている間はいいのだが、「私」「あなた」と繰り返しているとそれに伴って「私とあなたは分離している」という錯覚が生まれてしまう。
 つまり、言葉というものは、それがければものごとの区別がつかないので必要なのだが、同時に分離意識をももたらすものである。

 とはいっても、世界の中には名詞と動詞が分節していないという不思議な言語が少数あるという。あえてそれを日本語で表現すると、名詞と動詞で「私が/話す」ではなくて、例えば「話している私」「私が話している」ということが一つの言葉・一つのまとまりで表現されるそうである。

 特にアイヌ語がかなりそうらしい。そして、アイヌの人たちは他者や自然との一体感・つながり感の非常に強い民族である。それは彼らの言葉自体が、大和言葉のように「誰が」「何をして」と分節しない傾向があるからだと言えるのではないだろうか。

 しかし大和言葉もかなり曖昧で、例えば「行く?」とか言ったら、主語がなくてもわかる。「行く?」「行く」と言ったら、主語なしに「あなたは行きますか?」「私は行きます」という意味で通じてしまう。英語では必ず主語述語が必要であるが、日本語は時々主語がなくても話が通じてしまう。そういう意味では分離感が西洋語よりは曖昧な言葉であるが、もっと分離感のない言葉が世界の中に少しあるようである。

 先に言ったようにアイヌ語がそうらしく、アイヌの方たちに会う機会があって確かめたら、やはりそうだとのことで、アイヌ語で話しているときと日本語で話しているときとでは、かなり自然や自分についての感覚が違うとのことだった。 

 それは、ともかく、私たち人間はいちおうものごとに区別をつけて社会生活を営むため、つまり世間の実用的な目的のために言葉を使って区別をしたのだと思われる。ところが、こうして区別したことが無意識の中にすべてしっかりと溜まってしまい、そういういわば分離意識のシステムであるすべてを見るというふうになってしまっている。

 それに対して、いろいろな言葉を挙げていきながら、「これは仮に世間的な約束事で、言葉でそう呼んでいるけれども、あくまでも和合・つながりによってすべての事柄が起こっているのであって、それは実体ではない」ということを縷々何頁にもわたって述べているのが、この「三仮品第七」という個所である。

 それから、次は締めのような言葉である。

 譬へば夢、響、影、幻、燄、仏の化する所の如き皆是れ和合の故に有り、但だ名字を以て説くのみ

 例えば夢が実体でないことは明らかである。非常によくわかるのは響きである。響きは関係の中で響き・音となっている。また影は光と何かとの関係できる。幻もそういう実体がないけれども現われている。炎は熱と燃料の関係で現われているわけである。それから仏が現象として現われるのが「化する」ということである。
 これらはいずれも、いろいろなものが組み合わさりつながって、つまり和合して形を現しているだけで、それ自体で存在しているのではない。

 例えば木を考えてみよう。木というものは、先祖からの遺伝子の信号―情報や、それから土中の窒素・リン酸・カリや、大気中のCO2や、太陽のエネルギーや、海から上がり雲になって降る水分や……といったきわめてたくさんのものとのつながりが、いわばここで一つの結び目を作っている。

 もう少しシンプルには、いくつもの線を交錯させた図を考えてみよう。縦の線、横の線、斜めの線が交わると、そこに「結び目」というものがあるように見えてくる。
 しかし、これは結び目が「ある」というより、いくつかの線が一点で交わり・和合しているから、そこに「結び目」があるように見えているのである。そう見えているのはまったくの間違いではないのだが、「結び目そのもの」があるのではなくて、いろいろな縁がそこに「結び目を見せている」ということである。
 私たちは例えば木というものを実体だと思うけれども、それは水やエネルギー、炭素、遺伝子情報といったいろいろなものの結び目として木という現象が起こっているということであり、もちろんそれは私もそうだ、と。

 他のものの話はともかく、「あなたも実体ではない」と言われると、「え、私も実体じではないのか?」と、急に寂しくなったり怖くなったりすることが初心の菩薩にあるということがはっきりと書いてあって、なかなか懇切丁寧だなと思う。

 しかしそのときにちゃんとした指導者についていると、「それはあなたがいないとか、あなたは虚無だとかいうのではなくて、あなたは現象だということだよ。現象だけれども、現象としてはありありと現われていて、その現象は実は空・一如の、現代風に言うと宇宙と一体で宇宙の一部の一時的な現象として現われている。だからあなたは実体ではないし永遠ではないけれど、その元になっている空の世界・宇宙の世界はある種永遠の世界だから、あなたの本質は永遠である」と教えてもらえる。現象としての私は無常であり、その無常な私を無常ではないと思おうとしたらそれは無理が来るけれども、無常を無常と認めても、私のいちばん根本のところはむしろ無常ではないのだ、と。

 そこがわかるには、いちおう個別的存在である私は無常なのだ、現象なのだ、ということも一度わかる必要があるのだ。私が実体でありたいという気持ちを強く持っていて、それに対して「実体ではない」と言われると、がっかりしたり、寂しくなったり、辛くなったり、虚無的になったりするのであるが、ちゃんといい先生について学ぶと、わかり、やがて覚ることができて、そのほうがかえってこだわり・執着がなくなるのだという。

 そうするとかえって、とても気持ちよくすがすがしく生きて死ぬようになる。人生の結論は必ず死ぬのであるから、幸せに暮らしたけれど、最期その幸せな暮らしをぜんぶ捨てて死ななければいけないのでとても辛い気持ちで死ぬよりは、爽やかに生きて爽やかに死ぬほうが、まちがいなく質の高い人生になるはずである。

 そのためにとにかく私たちは一度まず、爽やかに生きるだけではなくて爽やかにも死ねる根拠としての縁起の理法ということ、空ということを覚る必要があるというのである。

 すなわち空は虚無とは実はまったく別のことである。残念ながら日本では仏教の内部でも外部でも、空ということが「無」「無常」という言葉と合わさりながら、何かとても悲しくて、下手をすると虚無的な思想だというふうに誤解されがちだったけれども、そこのところはちゃんと経典に書いてあるので私が強調したいと思っているのは、空とは空でおしまいではなくて、実は如・一如ということなのだ、現代風に言うと「私と宇宙が一体だ」ということである。

 この私の本質は、生まれる前も宇宙だし、生まれて形が現われている今も宇宙だし、死んでからも宇宙だから、「宇宙がほんとうの私だ」と思えてしまえば、この私が生きて死ぬということは。大騒ぎしなくてもいいことであり、非常に軽やかで爽やかなものとして捉えられる。今は生きているのだからちゃんと生きればいいのである。そして、死ぬときが来れば死ねばいい。そういうふうになれる、そのほうがむしろほんとうだし、いいのだ、ということを教えてくれるのが仏教である。

 最近、筆者は「だから、きわめてクオリティの高い人生の送り方を根本から教えてくれるという意味で、仏教はとてもポジティヴな思想なのです」と強調するようにしている。

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般若経典のエッセンスを語る54――智慧と瞑想と菩薩

2024年05月25日 | 仏教・宗教

 さて、したがって大乗仏教・菩薩・摩訶薩になるには禅定が必須である。そのことをはっきりと語っているのが、相行品第十の次の言葉である。

 是菩薩、是の諸の三昧を見ず、亦是三昧を念ぜず、亦我れ当に是三昧に入るべく、我れ今、是三昧に入り、我已に是三昧に入れりと念ぜず、是菩薩・摩訶薩、都て分別の念無きなり。』

 つまり「私は瞑想をしている」というふうに思わない。瞑想をしているときはもう「瞑想をしている」とか「私」ということを忘れるのがほんとうの三昧なので、「私が/坐禅をしている」と思っている間はほんとうの坐禅ではない。

 また坐禅をするときに、「さあ、今から坐禅するぞ」とか「お、坐禅・禅定が深まってきた」「集中してきたな」と思っている間は、まだ全然ほんとうの三昧ではない。「もう私は完全に禅定状態に入った」と思ったりはせず、「私が」とか、瞑想状態と日常意識状態とを分別するとか、そういうことが一切なくなっているのが本当の三昧・瞑想だと言われている。

 舎利弗須菩提に問はく、『菩薩・摩訶薩此の諸の三昧に住し、已に過去の仏に従ひて記を受けたりや。』

  それにかかわって、智慧第一のシャーリプトラが、解空第一・空をいちばんよくわかっているというスブーティに問う。つまり弟子同士で質疑応答をしているのである。
菩薩・摩訶薩・菩薩大士は、こういう瞑想を徹底的にやることによって、過去の仏さまに「そういうふうに瞑想をしていれば、おまえは将来必ず覚りを開ける」という保証をされているか、と。「住し」は「ずっとやる」ということである。保証のことを「記」といいう。つまり「おまえは必ず将来覚りを開けるぞ」という、その約束というか予告のことを「記」という。

  報へて言はく、『不、舎利弗、何を以ての故に。般若波羅蜜は諸の三昧に異ならず、諸の三昧は、般若波羅蜜に異ならず、菩薩は般若波羅蜜及び三昧に異ならず、般若波羅蜜及び三昧は、菩薩に異ならず、般若波羅蜜は即ち是れ三昧、三昧は即ち是れ般若波羅蜜、菩薩は即ち是れ般若波羅蜜及び三昧、般若波羅蜜及び三昧は、即ち是れ菩薩なればなり。』

 するとスブーティが「そんなことない。保証などいただいていない」と答えている。
常識的には当然、瞑想をして覚りを開のだから、「瞑想をしたら覚れると昔の仏が言われたはずだ」とシャーリプトラが言うと、「そんなことはない」とスブーティが答える。
般若という智慧は瞑想と一体のものだし、そうした一体のものとしてまさに瞑想が般若波羅蜜をもたらすのだし、菩薩とはそもそも般若波羅蜜や瞑想・禅定と必ず一体化している。だから要するに菩薩とは般若波羅蜜・智慧そのものであり禅定そのものなのだ、と。

  須菩提言はく、『若し菩薩是三昧に入らば、是時是念を作さず、我れ是法を以て、是三昧に入れりと。是因縁を以ての故に、舎利弗、是菩薩諸の三昧に於て知らず念ぜざるなり』と。

 スブーティは、「菩薩はこういう瞑想状態に入ったときには、こういうことを思ったりはしない」と言う。どう思わないかというと、「私が/般若波羅蜜多という真理によって/この禅定状態になったのだ」といったことは思わないと言う。

 菩薩というものは、瞑想状態において、主客分離的に認識するとか、そのことに気づくとか、そういうことはない。そのことを伝統的には「無念無想」の状態と言ってきた。そういう無念無想の瞑想状態に入ると、空・一如という体験が起こる。そうしていったん一如という体験が起こり、そういう意識状態から日常意識に戻ってきたときに、他との切っても切れない縁起の関係が自覚され、すると行為は気持ちとしては慈悲ということになる。そういう構造になっている。

  以上で「般若経典のエッセンスが智慧と慈悲にある」という場合の、その智慧と慈悲はどういう関係にあるかということを、いちおう理論的に掴んでいただけたと思う。

  すなわち、言葉で分けると智慧・空・如・慈悲となるが、そもそも智慧によって空・如・一如ということ、特に一如ということを覚り、そこから分離ではなくて区別はちゃんとついているという日常的な意識に戻ってきたら――後にこれを無分別智と区別して「無分別後得智」と呼ぶようになっている――それが慈悲という形になる。したがって完全な空・一如ということを瞑想・禅定・三昧を通じて覚らないかぎり、慈悲は出てこないのである。

 だから私たちが「優しい心、親切な心、それが仏教の慈悲である。日本には仏教のそういう優しい心の伝統があるのだから、みんな優しくし合いましょう」と思っているような通俗仏教は、けっして悪くはないが、大乗仏教の本質からすると、それはやはりヒューマニズムやボランティア精神と同じで、レベルが違うと言わざるをえない。それはそれで日本人の精神性として大切ではあるが、より深めるには、禅定をし、如・空ということを覚る。そうすると、努力をしてやるのではなくて、自然に慈悲が出てくるということになるのだ。

 しかし、とはいっても私も含め私たちは、突然そこにジャンプすることはできないので、まず頭で学んで理解し、それから少し瞑想もする。

  例えばこうしたことを学ぶと、ふと犬を見た時、「あ、あの犬とも結局つながっているのだな」とか、木を見た時、「ああ、あの木と私は酸素と二酸化炭素の交換関係を通じて、もう分かち難くつながっているんだな。つまり木は私の命を支えてくれている。木は私の友達だ」と思えたりするのである。

 そういうことがたまにふと、やがてしばしば思えるようになって、例えば木は私の友達だと思うようになると次第に、「そういえば三日ばかり雨が降ってないな。ちょっと水をあげようか」という気持ちが出てきたりするのである。

 木とか犬はこちらのすることに素直に応えてくれるので付き合いやすいのだが、人間は素直に応えず、何かをしてあげても「ありがとう」も言わないとか、それどころか「余計なことするな」と言ったり、善意を誤解して悪意に取るといったことをするので、なかなかすんなりと付き合えなかったりするものだ。一切衆生の中でも人間相手がもっとも難しいかもしれないと思うことがある(神話的存在としての阿修羅や餓鬼、畜生、地獄の衆生はもっと難しいはずではあるが)。

  他の動物や植物に優しくするのは割にできるが、しかしやはり人間がいちばん近しい関係なのだから、その人間に対し「私の趣味からいうと嫌いだし、私の都合からいうと不都合なあなただけれど、でもほんとうは一体なのだ。つながってるのだ」と、布施までは出来なかったらせめて忍辱で、しかし忍辱にとどまらず布施までいく。そういうことで、布施が最初にあるのではないかと思う。優しい実際の行為はとてもできないから、少なくとも「あまり強く憎むのはやめよう」程度の忍辱をしたりしながら、最終的には、縁起・空ということを体験的に自分のものにしていくのが六波羅蜜のすべてであるわけである。

 というわけで、とにかく菩薩・摩訶薩になろうと思うのだったら即瞑想をしなければならないし、そして瞑想は即般若波羅蜜・分別をしない無分別の智慧を得ることなのだ、ということである。

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般若経典のエッセンスを語る53――無分別智と慈悲

2024年05月17日 | 仏教・宗教

 しかし分別をやめるといっても、陶酔や恍惚、泥酔や気絶という状態というふつうの意味での分別の無い状態になることでは、目覚めることはできない。しっかりと目覚めた状態でありながら、言葉を使わない、分別をしないという瞑想をせよ、と。それが「云何が般若波羅蜜を行ずべきか」という問いへの答えである。

 そういう瞑想を行なっているときには、「これが般若波羅蜜だ」などという言葉も意識ももうない。「私が般若波羅蜜の実践をしている」と思っているときには、それは思考・名詞が巡っているわけだから、それらを巡らせないということである。

 そういう言葉・思考が巡るのを止める分別知は、サンスクリット語で「ヴィジュニャーナ」という。それに対して、それを超えた無分別を「プラジュニャー」といい、それがパーリ語化したのが「パンニャー」という言葉である。そしてなぜか漢訳では、プラジュニャーではなくパンニャーのほうを音で写して「般若」と訳したのである。つまり般若とは「分別を超えた智慧」という意味であり、この「般若」「無分別智」こそ大乗仏教の智慧なのである。

 先ほどから述べてきたように、体験が空まで深められ、さらに一如というところまで深められたら、「私と私以外のものは実は分離していない。つながっている。一如だ、一体だ」ということになる。そしてその一体性の自覚から、改めて人を「あの人は私と区別はあるけれども分離していない。一体なのだ」と思う。また例えば、いちおう私と猫とはちゃんと区別はできるけれども、「あの猫も私と一体なのだ」と思う。そうした一体性が実感されたとき、生きとし生けるものすべてに対する慈悲が生まれてくる。すなわち、空・一如の実感=無分別智(より詳しくは後述するように無分別智と無分別後得智)から慈悲が生まれてくるということである。

 それに対して、もともと「私と他の人は分離している」という思いを前提に、「今、私は元気でお金を持っていて体力があって等々で、向こうに体が弱った貧しいかわいそうな人がいて、私はいい人だから……」という思いで行われるのがいわゆるボランティア・慈善だと思われる。

 私の見るところ、ボランティアをしている方にはみな、心の底に程度の差あれ「私はいい人」という思いがあるようだ。それがあまり意識的だと偽善的に感じられるが、それにしても「私は悪い人だ」と思いながらボランティアをしている方はいないだろう。あまりに「私いい人」という気持ちでボランティアをするととても嫌味な人になってしまうが、あまり嫌味の感じられない人でも、よく探っていくと、心の底にはやはり「私いい人」という思いがあるように見える。それはやはり「私いい人、私豊かな人。私はいい人だから貧しい人に恵んであげましょう」という分離意識に基づくボランティアである。

 布施あるいは慈悲は、行なうことは似ているし、時にはまったく同じようだが、ボランティアと本質的には似て非なるものである、と筆者は考える。「私とあなたは実は一体だ。一体であるにもかかわらず現象としては私のほうが豊かであなたは貧しい。それは本質的におかしい」と、自然に私の豊かさを他の人と分かち合わざるを得なくて行なうのが慈悲の行為である。

 とはいえ、私たち分別知に囚われている凡夫にはなかなかできないので、練習をするのが布施である。つまり、布施は智慧から慈悲へというトレーニングだと言っていいだろう。

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世の中にはなぜ嫌なことが起こるのか?:唯識のことば4 再掲と現時点の修正とコメント

2024年05月11日 | 仏教・宗教
 *筆者は体調を崩しており、なかなか記事の更新が出来ず、残念に思っています。

 そんな中、以下の文章は、ずいぶん前に掲載したもので、過去記事の中に埋もれてしまっていたのですが、最近読んでくださった読者があったのをきっかけに、私も読み直してみて、多くの未読の読者に今こそ読んでいただきたいと思い、再掲させていただくことにしました。

 「世の中って、どうしてこう嫌なことばかりあるんだろう」という、疑問と嘆きの混じったことばを聞くことがよくあります。

 *例えば戦争、例えば犯罪、例えば貧困や差別、例えば環境の異変……

 私も、かつてしばしばそういう思いを持ちましたから、その気持ちはとてもよくわかりますし、記事を書いた時点でも今でも、毎日のようにひどいニュースが流れるのを見聞きしているとき、意識がぼんやりしていると、ふとそう思ってしまうこともあります。

 しかし唯識を学んで以来、意識がちゃんとしているときには、けっしてそういう疑問は浮かんできません。「これは、〔残念ながら〕当たり前のことが起こっているだけだ」と。

 人間がマナ識――自我(たち)を実体視し中心視している無意識の領域――を抱えた存在である以上、煩悩――自分も悩み人も悩ませること――が起こるのは当たり前なのです。


 〈意〉には、二種類ある。……二つめは、汚染された〈意〉で、常に四つの〔根本的な〕煩悩を伴っている(相応)。それは、一、身見(我見)、二、我慢、三、我愛、四、無明(我癡)である。この識は、他の煩悩の識の発生源(依止)である。……/一切の時に我執は生起しており、善、悪、無記、すべての心の中に遍在している。
                     (『摂大乗論現代語訳』四四~五頁)


 すでに学んできた方には復習になりますが、大切なことは何度でも繰り返してしっかり心に染みさせる(多聞熏習・たもんくんじゅう)必要があるので、学びなおしてみましょう。

 他と分離しそれだけでいつまでも存在するようなものは何もない(無我・非実体)というのは、仏教がいおうというまいと、普遍的な事実です。

 ところが、私たち人類のほとんどは自分は自分だけでいつまでもいられる実体であるかのように深く思い込んでいるようです(無明、我癡・がち)、それどころか、他と区別はできても分離できない身体が実体としての自分であるかのように思い(身見・しんけん、我見・がけん)、それを頼り・誇り・拠りどころ・硬直したアイデンティティにし(我慢・がまん)、それをすべての中心にしてとことん愛着・執着(我愛・があい)しています(個人的、集団的エゴイズム)。

 そこからいやおうなしに、怒り、恨み、ごまかし、悩み・悩ませること、嫉み、物惜しみ、だますこと、へつらい、傷つけること、おごり、内的無反省、対他的無反省、のぼせ、落ち込み、真心のなさ、怠り、いいかげんさ、物忘れ、気が散っている状態、正しいことへの無知という二十の煩悩が発生してくるのです。

 人間がマナ識(深層のエゴイズム)に動かされているかぎり、自他にとって嫌なことは必ず発生する。そこに何の不思議もありません。

 学生時代、善意で始まったはずの、例えばフランス革命がテロルにおわり、ロシア革命がスターリニズムに終わり、志で始まったはずの明治維新が昭和の軍国主義に到ってしまう……のはなぜか、深く考え込んでしまったことがありました。

 しかし、唯識の語ることをしっかり理解できてからは、そういう疑問はさっぱりと解消されました。「これは当然のこと、ありえないことではなく、ごくふつうにありうること、仕方ないこと、必然的に起こることなんだ」と。

 もちろん、理解できたことで問題が解決したわけでも、あきらめたわけでも、嘆きがなくなったわけでもありません。

 しかし、解決の糸口-方向性だけはしっかりとつかめたと感じています。

 私から始まりすべての人に広がる「アーラヤ識‐マナ識の浄化」です。

 唯識は、「それはできる。しかし三大カルパという膨大な時間がかかる」と言っています。

 しかし、たとえ信じられないほど長い時間がかかるとしても、滅びたくないのなら、やるしかないでしょう。

 *そして、今では、諸セラピーの統合によれば、アーラヤ識‐マナ識の浄化=人間性・仏性の開発には絶望的なほど長い時間はかからないと考えるに至っています。もちろん促成栽培は無理だとしても。

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2024年5月~8月サングラハ講座のお知らせ

2024年04月04日 | 広報
【日曜講座】「唯識心理学を学ぶ」(3回・5月スタート)


「唯識」は煩悩と覚りを明快に示す大乗仏教の深層心理学であり、「唯識心理学」は、現代にも通用する唯識のエッセンスをベースにしてさらに現代の心理学や科学との統合を目指す、サングラハ教育・心理研究所のオリジナルなプログラムです。2014から15年に高松で行われた講義の録画で学んでいきます。


▼講師:研究所主幹▼テキスト:データ送信▼時間:13時半?16時半(目安)▼受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=後期7千5百円、学生3千7百円


5月26日、6月23日、7月28日(3回・1か月程度YouTubeにて視聴可)


お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。
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【土曜講座】「よくわかる空海入門」第四期(4回・5月スタート)


第3期まで「よくわかる空海入門」を受講されたみなさんには長らくお待たせしました。
「お大師さん」として知られ親しまれてきた真言宗の開祖、弘法大師空海は、日本史上稀有な大思想家であり、日本精神史四つの高峰の一つです。空海が何を語り、それが現代にどういう意味を持つのかに焦点を当てながら、わかりやすくお伝えします。本講座はこの第4期で完結します。


▼講師:研究所主幹・岡野守也▼テキスト:データ送信▼時間:14時?16時(目安)▼受講料:一般=1万4千円、会員=1万2千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=1万円、学生5千円


5月18日、6月8日、7月20日、8月24日(4回・1か月程度YouTubeにて視聴可)


お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。
こちら↓
2024年5月~8月サングラハ講座のお知らせ | サングラハ教育・心理研究所






【水曜講座】「日本人のアイデンティティはどこにあるのか」(3回・6月スタート)


世界的な自国中心主義の高まり、右傾化が現実の危機になっています。開放的・自他肯定的・融和的でありながらゆるがない「国民的アイデンティティ」をどう確立できるかは、私たち日本人にとって緊急の課題ではないでしょうか。社会レベルにおけるコスモロジー・セラピーを学びます。2019年に東京で行われた講座の録画です。


▼講師:研究所主幹▼テキスト:データ送信▼時間:19時半?21時(目安)▼受講料:受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=後期7千5百円、学生3千7百円


6月19日、7月17日、8月21日(3回・1か月程度YouTubeにて視聴可)


お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。
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