強調点がぼやけてしまっているので、この前の部分では特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、次には、やはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならないことを述べていく。
「大乗」はサンスクリット語で「マハーヤーナ」という。「マハー」は「大きい」、「ヤーナ」は「乗り物」という意味で、音を漢字に移して「摩訶衍(まかえん)」となっている。日本語では「えん」と読むが、かつては「ヤーナ」に近い中国語の発音だったのだろう。
一般的な仏教知識では、大乗はそれ以前の派を「小乗(ヒナヤーナ)」と呼んで全面的に批判・否定しているかのように語られることが多く、正直なところ筆者も般若経典をしっかり読み込むまでは、何となくそういうふうに思ってきた。
しかし、以下は、大乗がそれ以前の部派仏教(小乗)をただ否定するのではなく、いわば「含んで超える」ことを明らかにした個所(『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」)で、すなわちはっきり大乗にはそれ以前の派の修行の基本である「八聖道(八正道)」が含まれると語られている。
また次にスブーティよ、菩薩大士の大乗とは、いわゆる八正道である。何を八とするかというと、正しい見解、正しい考え方、正しい言葉づかい、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい気づき、正しい禅定である。これを菩薩大士の大乗と名づける。実体として把握することができないからである。
復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは、所謂八聖道分なり。何等をか八となす。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。是を菩薩摩訶薩の摩訶衍と名く。不可得を以ての故に。
念のためにコメントしておくと、ここでの「正(しょう)」・正しいという字は、論理的に正しいとか倫理的に正しい、ごく常識的な善悪について正しいといったふうにごく平凡な意味に取られることが多いようだが、そうではなく「縁起の理法に適っている」という意味に読み取る必要がある、と筆者は考えている。
つまり、仏教の正見・「正しいものの見方」とは、何よりも「縁起の理法に適っている見方」という意味である。だから、ものを見る時には、縁起の理法に適った、すなわちつながりを見る見方をするということだが、単にそれだけではなく、よりトータルにすべてを必ず関係性・つながりで見ていこう、ということである。
そして、人間は言葉で生きる動物だから、そのつながりをしっかりと自覚した言葉の使い方をしようというのが「正語」である。
日常的に言うと、例えば誰かの顔を見た瞬間に、その人とのつながりをちゃんと自覚し、世間的には他人であろうとなんであろうと、人間である以上は、生き物である以上は、宇宙である以上はぜんぶつながっているのだとちゃんと考えられると、当然「こんばんは」「お元気ですか」といった、相手とのつながりを確認する言葉が出てくるはずである。だから日常的にそういうつながりを確認したり作っていったりする言葉を使うように心がけるのである。
それに対し、「バカヤロー」とか「死んでしまえ」などというのは、まさに正語の逆さまである。今、いじめが問題になっているが、それは存在の本質が縁起の理法であることを現代の社会が標準的にまったく忘れているからで、それどころか社会が分別知で営まれていて、個々人がバラバラで存在し、しかも競争しながら「勝ったものは勝ち、負けたものは負け。それは当然だ」という考え方・分離思考でいる中で、人に声をかけると、もっとも極端には「死ね」といった言葉になってくる。まさに正語の反対である。
そういう言葉ではなく、シンプルに関わりを確認し、関わりを深め、関わりを作っていく言葉を使うよう日常心がけるのである。
それから特定の行為としても、関係・つながりを深める行為をするのが「正業」である。
そして、特定の行為だけではなく人生・生活すべてをそうするのが「正命」である。
縁起の内容を二つに分けると「縁生」「縁滅」になる。すべてのものは縁によって生じ、縁によって滅する。つまり縁があって生まれてくるけれども、その縁の結び目が解けると現象としては消えていく。縁起の中身は縁生と縁滅であり、それは時間の中で見ると「無常」ということになる。
であるから、縁起の世界は必ず無常の世界であり、個体としての私たちに与えられた時間は有限である。すると無駄にしていい時間はほんとうには一秒もないということになる。だから縁起の理法を覚り、縁起の理法にふさわしく見、考え、語り、行為をし、人生そのものを縁起の理法に沿わせていくことに、わき目も振らずまっしぐらに一所懸命でなければならない。それが「正精進」ということである。
分離思考・分別知によって、私の幸せが人生でいちばん大事だと思い、私の幸せ・私の夢のために一所懸命になる人はたくさんいるが、それは精進ではあっても正精進とは言わない。精進にも「正精進」といわば「邪精進」があるわけで、現代人の努力の大半は、縁起の理法に照らして厳密に言えば邪精進ということになるのではないか、と筆者は感じている。
さて、私たちはこうしたことを学ぶけれども、残念ながらアラブの諺に「神々は記憶する。されど人間は忘れる」とあるように、人間とは忘れてしまう生き物で、しかも大事なことほど忘れがちな生き物である。
なぜ忘れるかというと、私たちの心は主として分別知で動いているので、分別知ではないことを教わって憶えたつもりでも、ふだんは主に作動している分別知の言葉が巡ってしまい、無分別知から生まれてきた言葉・智慧が覆われ忘れられてしまうのである。
だから、それを忘れないようにしようというのが「正念」である。縁起の理法にいつも気づいているように、と。
これはたまたま当てた漢字がとてもよく当てはまっているということだが、「念」は「今の心」と書く。昔勉強をしてわかったつもりでも、今念頭にないと役に立たない。だから「すべてがつながって一体だ」ということを学んで「なるほど、そうか、それはそうだな」と納得したとか、そのときに感激したというのはベースになるが、そのことに今気づいているのが「正念」である。
しかし人間の心は、無意識のところからまさに無明・分別知で作動している。パソコンに譬えると、要するに無明がOSなのである。だから、どんなにいいソフトを入れてもどこかで誤作動を起こす。もちろんパソコンほど単純ではないが、譬えてわかりやすく言えば、そういうことである。
だからOSを取り替えなければならない。無明のOSをアンインストールして正しい智慧のOSをインストールし直すための作業が禅定であり、縁起の理法を全心身化・無意識化するための「正定」である。
先に引用した個所で、この八正道を大乗も踏襲するとあった。しかし、実は大乗の基本的な実践の項目である六波羅蜜には大乗が付け加えた決定的に異なる項目がある。
よく知られていることだが、改めて六波羅蜜の項目をあげておくと、「布施・施すこと」「持戒・戒律を守ること」「忍辱・辱めを忍ぶこと」「精進・努力すること」「禅定・瞑想をすること」「智慧」の六つである。八正道に対してどこが決定的に違うかというと、八正道には布施がない。一方、六波羅蜜は最初に「布施」があるのである。
つまり、私は他の人とほんとうはつながっているのだが、いちおうは区別があって他人に見える。そういう人に、実はつながっていることを、行動をもって確認し、つながりを作っていくのが布施の本質であり、いわば慈悲のエクササイズである、と筆者は理解している。
もちろん八正道は縁起の理法を自分のものにするための方法論であるが、大乗ではそれがもっと積極的に「布施」という形で含まれている。八正道の正業や正命が布施に該当すると言えなくもないが、非常にはっきりと、しかも実践方法の最初に据えられているというのが、大乗とそれ以前の仏教、大乗からすると「小乗」との大きな違いだと思われる。
そして最終的に目指すところは、六波羅蜜では智慧で、その手前に禅定があるが、八正道では最後に正定つまり禅定が来ている。つまり、禅定を通じて智慧に到ることを目指すのが大乗の六波羅蜜である。
そして、大乗の智慧はただ智慧にとどまらずそこから必然的に慈悲が生まれるのである。
部派仏教の文献と大乗仏教の最初である般若経典を比較しながら推測するのだが、これはおそらく瞑想の仕方が変わってきた、あるいは深まってきたことを示しているのではないか、と筆者は推測している。