『サングラハ』第193号が出ました

2024年04月04日 | 広報
 目次

 ■ 巻頭言 …………………………………………………………………………………………………… 2
 ■『正法眼蔵』「梅華」巻 講義(1) ………………………………………岡野守也… 3
 ■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(8) …高世仁 …… 14
 ■ 仏弟子たちのことば(24) パンタカ兄弟② …………………………羽矢辰夫… 23
 ■ グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
  ――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(9) …………増田満 …… 25
 ■ 私のサングラハでの学び(4) ………………………………………………毛利慧 …… 33
 ■ サングラハと私(9) ……………………………………………………………三谷真介… 35
 ■ 講座・研究所案内 …………………………………………………………………………………… 43 


ご購入と詳細はこちらから
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2024年2月~4月【日曜講座】「コスモス・セラピー+α(後期)」、2024年3月~5月【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(後期)」のお知らせ

2024年01月25日 | 広報
 2月、3月よりそれぞれスタートする講座の予定をご案内します。

 スタートに間に合わず、途中参加などをご希望でしたら案内の最後にあるお問い合わせ窓口から個別にお問い合わせください。

【日曜講座】 コスモス・セラピー+α(後期)

サングラハ教育・心理研究所2024年2月から4月までの日曜講座のご案内です。
開始するのは、これまで長く関わってくださったみなさんにも、新しく学びを始めたいというみなさんにも役立つ「コスモスセラピー+α」となります。

サングラハでしか学べないコスモス・セラピーをアドラー心理学やフランクルのロゴセラピー、さらに唯識などとあわせて学んでいきます。
受講の仕方については、2014年の東京講座の講義録画をYoutubeで視聴いただく形でご提供します。
講座日には、受講者の同時視聴により一緒に学べるほか、1か月視聴可能なYoutube動画のURLもメールにてお送りするので、お好きな時間に視聴することもできます。

全6回の講義を前期3回(11月、12月、来年1月)、後期3回(2月、3月、4月)の2期に分け、今回は後期となります。

※講座の名称について、現在では「コスモロジー・セラピー」と呼んでいますが、当時のまま「コスモス・セラピー」にしていますので、ご了承ください。

講師:研究所主幹 岡野守也
テキスト:データ送信
開催日:2月18日、3月10日、4月14日
時間:13時半~17時
講座日から1カ月程度Youtubeにて視聴可能
※youtubeにアップした動画はメールにてURLをお知らせします。

一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円
※学生割引参加費=3千円

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

こちら↓



【水曜講座】マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(後期)

サングラハ教育・心理研究所2024年3月から5月までの水曜講座のご案内です。
 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』は、岡野主幹の学生時代以来の座右の書です。この中の一節「おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。・・・すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝へ帰って行く」は主幹がすでに建てた墓碑銘に刻まれているそうです。個人も世界もいよいよ厳しい時代に突入した感がある現在、人間が宇宙の中で宇宙の一部として存在するという根底的な自覚を基に覚悟をもって真摯に生き死にするほかないと説くアウレーリウスの哲学を学び、人生哲学を深めていきましょう。

 テキスト:マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)
 参考書 :岡野守也『ストイックという思想ーマルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』青土社』
全6回の講座を前期、後期3回ずつに分けて募集する後期になります。

後期3回 3月13日、4月10日、5月15日の19時半からにZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
前期の受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円、学生=3千円
ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

こちら↓
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『サングラハ』第192号 目次

2023年12月04日 | 広報
 『サングラハ』第192号が出ています。目次は以下のとおりです。お問い合わせは研究所のサングラハ192号のページよりお願いします。



■ 巻頭言……………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「有時」巻講義(4) ……………………岡野守也… 3
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(6) …高世仁…… 17
■ 仏弟子たちのことば(22) アングリマーラ② ………………………羽矢辰夫… 24
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(7) …………増田満…… 26
■ 私のサングラハでの学び(2) ……………………………毛利慧…… 34
■ サングラハと私(7) ………………………………………三谷真介… 36
■ 講座・研究所案内…………………………………………………… 43

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般若経典のエッセンスを語る52――言葉と分別知

2023年11月22日 | 広報

 何を以ての故に。名字は是れ因縁和合の作法なり、但だ分別憶想仮りに名を以て説く、是故に菩薩・摩訶薩、般若波羅蜜を行ずる時、一切の名字を見ず見ざるが故に著せず。』

 なぜそういう般若波羅蜜をやるのか。名前というものは、そもそも音節でできていて、それぞれの音節が、例えば「わ・た・し」とつながって言葉としての単語になるわけである。そしてその「わ・た・し」という言葉によって、「わ・た・し」という存在が他の人と分離して存在していると思う、分別・憶想をしている。そういうふうに、分別してものを考えるのは名前がついているからなのだ、と。あるいは逆に言うと、名前をつけるから分別・憶想が働くといってもいいだろう。

 以下は、すべてのつながりの話をするのにコスモス・セラピーの講義で使っているエピソードで、すでにご存知の読者も少なくないかもしれない。

 ホワイトボードに木のイラストを描き、「ここに木があると思って下さい」と言う。「木があると思って下さい」と言い―聞いているプロセスに注意を向けてみるよう。
「木があると思って下さい」と言われたら、「木」という言葉・単語が心を巡るのではないだろうか。そして「木」という言葉を使って、その形を見る。すると「そこに木がある」という思いが起こる。

 その時、この「木がある」という思いはどうなっているかというと、木が木それだけで存在しているという思いではないだろうか。「木」という言葉を使ったとたん、「木は根を張るための大地がないと存在し得ない」といった縁起のことは意識にはまったくなくなっている。「木」と聞くとすぐに「あ、それは大地があるからこそだ」と思える読者がおられたら、縁起の理法がそうとう頭に入っているということになる。

 なぜ大地が必要かというと、もちろん根を張るためだが、根を張るのは大地の中の水分を吸わないと生きていられないからである。だから水分との関係でも木が存在している。木は木だけで存在しているのではなくて、大地との関係、水との関係で存在している。水が大地に元々あったかというと、通常はそうではなく、雨が降って染みるわけである。しかし、木を見たときすぐに「雨が降るから木があるのだ」とは思わない。

 それから雨はもとは雲である。しかしふつうは「雲があるから木が立っている」というふうには思わないだろう。さらに。この雲は元は海の水が蒸発して上空で雲になったもので、気流に乗ってやってきて、冷えて雨になる。つまり、海があるから木があるのだ。木を見た瞬間に「海があるから木があるのだ」と思えたら、それは大変な学びの進歩である。

 今後、いわばものの見方の練習として、木を見たら「ああ、海があるから木があるのだ。雲があって雨があって大地があるから木があるのだ」と思い巡らすと、それは縁起の理法を少なくとも理論的によく理解したことになるし、そして木を見ている現場でそう思うようにすると、次第に実感的に「ああそうか。つながっている。縁起の理法だな」と思えるようになるだろう。

 さらに言えば、実は水が水蒸気になるためには太陽が必要で、太陽があるから雲ができて雨が降るのだが、それだけではなく、そもそも光合成をするために光が必要で、太陽がないと光合成ができない。つまり、お日さまがあるから木が存在できるということなのだ。
そして太陽エネルギーはエネルギーであって、光合成をするときには何を合成するかというと、空気中のCO2を取り込み、Cを取って、余ったO2を出すということをやっているわけである。空気は広がると空(そら)と言い、空は全体になると大空という。つまり大地・大空・海、こういうものがあるから木が存在できる。CO2というのはもともと地球にいっぱいあったのであるが、植物がO2を出していくと、CO2がだんだん減ってきて、今ではちゃんと動物がいる地球になっている。動物がCO2を出しているので、もし動物たちがいなかったら、CO2の供給が不足してしまうだろう。

 こうしてすべてのものがつながって存在している。木は木だけで存在することができない。木は木でないもののおかげで存在できる。これを私について言うと、「私は私でないものによって私であることができる」ということになる。

 ところが、私たちはどうしても、木というと木がそれだけで存在できるように思い、私というと私が私だけで存在できると思ってしまうのである。

 さて、もう少し言い足しておこう。例えば樹齢三百年の木は、三百年前はこんな大木ではなかったのである。三百年前は種、それから芽を出し、だんだん大きくなってこうなったのである。この種はどこからきたのだろう。それは親木である。その親木はさらにその親木があるから親木であるわけで……ということをずっとたどると、今から三十八から四十億年前の単細胞微生物に行き着くようである。

 ゴータマ・ブッダは現代の人ではないからこうした科学的な知識は持っていなかった。その点で二千五百年後の現代人が有利で、私たちはこういうことを知っているので、ブッダが直感的に縁起の理法というかたちで覚られたことを、こうして科学的な知見に基づいて、「やはり縁起の理法はまちがいない」と納得することができるのである。
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2023年12月から始まる講座予定:【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(前期)」、【土曜講座】「ゼロから始める仏教入門」のお知らせ

2023年11月16日 | 広報
 12月より始まる講座の予定をご案内します。
 スタートに間に合わず、途中参加などをご希望でしたら案内の最後にあるお問い合わせ窓口から個別にお問い合わせください。

【水曜講座】「マルクス・アウレーリウス『自省録』を読む(前期)」

 サングラハ教育・心理研究所2023年12月から2024年2月までの水曜講座のご案内です。 

 古代ローマの哲人皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』は、学生時代以来の座右の書です。

「おお宇宙よ、すべて汝に調和するものは私にも調和する。・・・すべてのものは汝から来り、汝において存在し、汝へ帰って行く」

 個人も世界もいよいよ厳しい時代に突入した感がある現在、人間が宇宙の中で宇宙の一部として存在するという根底的な自覚を基に覚悟をもって真摯に生き死にするほかないと説くアウレーリウスの哲学を学び、人生哲学を深めていきましょう。

 テキスト:マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳、岩波文庫)
 参考書:岡野守也『ストイックという思想ーマルクス・アウレーリウス『自省録』を読む』青土社』

 全6回の講座を前期、後期3回ずつに分けて募集します。

前期3回 12月20日、来年1月24日、2月21日の19時半からにZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
前期の受講料:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円、学生=3千円
ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

こちら↓
 



【土曜講座】「ゼロから始める仏教入門」

 サングラハ教育・心理研究所2023年12月から2024年4月までの日曜講座のご案内です。 

 当研究所は現代心理学と仏教と現代科学を統合することをめざしてきました。

 今期の土曜講座はその中の仏教が、私たち日本人にとってもつ意味を、原点てあるブッダからインド大乗ー中国仏教ー日本仏教までの長大な流れの要点をたどりつつ学んでいきます。

 現代の日本人は生きる意味を見失いニヒリズムに陥りつつあるように見えます。

 日本人の精神性の中核を形成してきた仏教を「ゼロから」学びなおすことは、日本人としての自分のアイデンティティを深いところから再確立し、自信をもって未来に向かうことにもつながるでしょう。

全5回 12月16日、来年1月27日、2月17日、3月16日、4月20日の14時からZOOM受講あり
講師:研究所主幹(YouTube録画配信)
全5回の受講料:一般=1万7千5百円、会員=1万5千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=1万2千5百円、学生=5千円

ZOOM受講日より1カ月程度You Tubeにて視聴可能

お申込みとお問い合わせは、研究所のお問い合わせフォームをご利用ください。

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講座全体のお問い合わせ・複数同時受講・途中参加について

研究所の総合お問い合わせフォームをご利用ください

こちら↓


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般若経典のエッセンスを語る51――大乗における瞑想の深まり3

2023年11月03日 | 仏教・宗教

 ここで重要なのは次の説明である。

 何を以ての故に。舎利弗、但だ名字有るが故に菩提たりと謂ふ。但だ名字有るが故に菩薩たりと謂ふ、但だ名字有るが故に空たりと謂ふ。所以は何ん、

 「どうしてかというと、シャーリプトラよ、覚りという名前や文字、すなわち言葉があるので、言葉で覚りという言葉を言っているだけなのだ。ただ言葉があって、それで菩薩というふうに言う。空というのも同じで、空という言葉があるだけなのだ。なぜそう言えるかというと」

 諸法の実性は生無く滅無く垢無く浄無きが故に

 さまざまに区別できる存在の本性は、実はすべてが縁起の理法でつながっているということである。つながりがぜんぶつながっているとしたら結局は一体である。結局は一体のものには個別的な発生や消滅というのはない。
 分離していると「これは清らかだが、あれは汚れている」という差別的な判断が生じるが、一体だともう汚れているとか清らかということがない。つまり諸法の実性は一体なので、発生も消滅も、清浄とか汚染ということもない。

 だから空を実践するということは、実はすべてのものの一体性を自覚するということでもあって、そのことを徹底的にやって、「個別のものは名前を付けているからあるように見え、それが実体であるように見えてくるだけなので、分離した実体などというものは実際にはない」ということを瞑想する。それが般若波羅蜜を行ずるということである。

 菩薩・摩訶薩是の如く行じて、亦生を見ず亦滅を見ず亦垢を見ず亦浄を見ず。

 要するに分離的な思考を一切やめていくということである。しかし、私たちの心は普段すべて分離的な思考で動いているから、「(私は)分離的思考をやめよう」と分離的思考をしてしまう。私がいて分離的思考があって、その私が分離的思考をコントロールしてやめる、と。それはもうそれ自体が分離的思考なのである。

 では、それをどうしたらいいのか。瞑想家たちはいろいろな工夫をしている。
  
 その一つは、心の中でいったんなるべくシンプルな言葉を使う。例えば「ひとー、つー」と。「ひとー、つー」と呼吸をすることを合わせてやっていると、だんだん他のことを考えなくなる。集中すると他のことが考えられなくなるわけである。

 それから例えば、もっと進むと「む(無)ー」という一言だけにする。「むー」と吐いて「むー」と吸う、「むー」と吐いて「むー」と吸う、と集中してしまうと、もう「むー」しかなくなる。

 言葉というのは「あ」「い」「う」「え」「お」というふうに分節しているから言葉になるので、一定時間「むー」と言っていると「無」という言葉の意味は頭の中でなくなって、ただの音になる。「む」と例えば「ま」がどう違うかということももう意識になくなる。だから「むー」と言うことを通じて思考を無くし、分離思考を無くする。

 もっといくとそれもやめて、ただ呼吸が出入りしているのを静かに見つめているだけになる。呼吸を見つめるというのもまだ「見つめる」ということがあるので、それさえもやめると、もうただ存在しているだけという意識のあり方になる。しかし、眠っていないし、陶酔していないし、ボーッとしているのでもなく、しっかり目覚めていなければ覚りにならない。つまり、しっかり目覚めていながら何も考えていないという状態になっていくこと、それが般若波羅蜜を行ずるということだ、とひとまず言葉で理解しておけばいいだろう。

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般若経典のエッセンスを語る50――大乗における瞑想の深まり2

2023年10月31日 | 仏教・宗教

 この瞑想が深まっていくことを、指導の言葉として語ったのが、以下の個所で、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』「捧鉢品第二」の後半部である。訳しながら解説していこう。

 舎利弗仏に白して言さく、『菩薩・摩訶薩云何が般若波羅蜜を行ずべきか。』

 シャーリプトラがブッダに「菩薩大士はどのように般若の智慧を修行したらよろしいでしょうか」と質問をした、と。これはまさに根本的な質問である。すると、答えは以下のようだったという。

 仏舎利弗に告たまはく、『菩薩・摩訶薩般若波羅蜜を行ずる時、菩薩を見ず、菩薩の字を見ず、般若波羅蜜を見ず、亦我れ般若波羅蜜を行ずるを見ず、

 般若の実践をするときには、そもそも私・菩薩ということを考えない。また、そもそも菩薩という言葉を使わない。それから「私と分離した智慧というものがどこかにあって、それを私が求めるのだ」というのは、それ自体分離思考だから、そういう「私の外に般若波羅蜜がある」という見方をやめる。さらに、「私が般若波羅蜜の修行をしている」と思うと、それはもう「私の修行という動き」と「その対象としての般若波羅蜜」という分離思考になるから、「私が般若波羅蜜を修行する」という考え方をしない。といっても、それは般若波羅蜜を修行しないということではないのだ、と。

 こういう言い方はきわめてパラドキシカルでわかりにくいのだが、そもそも「般若波羅蜜」とは言葉にならないことを仮に言葉にしているので、言葉にとらわれて「私が/智慧を/得ようとする」と思ったら、もうそれは般若・智慧ではなく分別知・分離思考である。
 だから、ここでシンプルには「そもそも分離思考をやめることが般若波羅蜜を行じるということなのだ」と言おうとしていると理解すればいいわけである。

 何を以ての故に、菩薩も菩薩の字も性空なり、空中には色も無く受想行識も無し、

 それはなぜかというと、菩薩というのは実体として存在しているわけではなく、それからもちろん菩薩という言葉も実体ではない、と。

 この「空中」というのは「私たちが禅定を深くし、空体験をしているときには」という意味に理解しておけばいい。

 この言葉は実は『般若心経』とかなり重なっていて、『般若心経』の講義の際にここの内容をほとんど説明している。

 私たちが空の瞑想をしていると、そこには私の外側にある物質的な現象・色や、それを感受すること・受、イメージすること・想、それに対して注意や意志を向けること・行、それから思考作用をすること・識のいずれもがない、と。色受想行識というのはいわゆる五蘊で、色は物質的現象、あとの四つはいわば心理的現象である。

 この受想行識が色に対している、というのがまさに分離思考の基本的なパターンである。私が/何かを/感受する、と。例えば、「私が/湯飲みを/見る」。そうすると自分の中に残っている湯飲みという記憶のイメージと照らし合わせて、「ああ、あれは湯飲みだ」と認識する。そして喉が渇いていたら「取って飲みたい」とった意思が働く。さらにそういうことに関するいろいろな考えが巡る。これが受想行識であるが、それ自体が分離的な思考なので、それを超える空の体験の中では、そういう分離はない。
 しかし区別されたかたちでの物質もあるし、心もあるから、次のようにも語られる。

 色を離れて亦空無く、受想行識を離れて亦空無し。色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識は即ち是れ空、空は即ち是れ識なり。

 空ということがどこかにあるのではなくて、色受想行識のいわば本性が空ということである。だから物質的な現象は即それは空、つまり実体ではないし、しかしながら実体でないということが物質的な現象を生み出しているし、それから心の働き・受想行識を同じく生み出している、と。
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般若経典のエッセンスを語る49――大乗における瞑想の深まり1

2023年10月30日 | 仏教・宗教
 *筆者の体調のため、なかなか連載を続けることができてきませんでしたが、ずっと待っていてくださる読者もいるようなので、推敲不十分ですがとりあえず読んでいただける程度の文でも、断続的に少しずつ掲載することにしました。
 なお、元の講義はDVDまたはyoutube で視聴していただけます。サングラハ教育・心理研究所のHPの案内をご覧ください。


 『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」に以下のような個所がある。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍(まかえん)とは、所謂三三昧(さんざんまい)なり。何等をか三となす、有覚有観(うかくうかん)三昧、無覚有観(むかくうかん)三昧、無覚無観(むかくむかん)三昧なり。云何が有覚有観三昧と名くるや。諸欲を離れ悪不善法を離れ、有覚有観、離生喜楽、初禅に入る。是を有覚有観三昧と名く。云何が無覚有観三昧と名くるや。初禅、二禅の中間、是を無覚有観三昧と名く。云何が無覚無観三昧と名くるや。二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く。須菩提、是を菩薩・摩訶薩の摩訶衍と名く、不可得を以ての故に。

 三昧とは禅定である。「菩薩・摩訶薩の摩訶衍」、つまり大乗仏教の根幹にあるのは三種類の三昧、すなわち瞑想・禅定だ、と。

 三種類の最初は「有覚有観三昧」という。これは、自他の分離的な意識が「覚」、「観」は思考で、いわば瞑想的ではあるけれどもやはり思考ということである。だから、いちおう自我意識が残っており、それから理論的に考えるということも残っている、それでもある種禅定状態にある。

 それから「無覚有観三昧」は、自他の分離を離れながら、しかし例えば縁起や無常などをある種瞑想的に洞察する。

 そしてそういうことをすべて離れてしまって、自他分離の意識も、それから瞑想的ではあっても思考をするということもやめてしまうのが「無覚無観三昧」である。

 これが、それ以前から言うと、禅定の最初の段階・「初禅」という。とにかくまず四段階ある。それから、その四段階の上にさらに何段階も瞑想の深まりがあることになっている。すなわち、大乗以前の仏教もこういう瞑想を行なっていたのである。

 ところが最後のほうに、「二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く」とある。「思うでもなく思わないでもない」という、言葉で表現しにくい深い瞑想の状態のことをあえて言葉にしたので、言葉で勉強しただけではわからない。

 私たちがやっと「ひとー、つー」と呼吸に集中できると、なかなか爽やかな気持ちが生まれてくるのだが、それは「離生喜楽、初禅に入る」ということである。そうした、俗世間の生活から離れてさわやかな喜びが心に生まれてくるという段階を、禅定の最初の段階・初禅という。

 しかし、二禅になると次第に爽やかかどうかなども関わりがないという境地になっていくことになっている。

 私は、古典的な瞑想の深まりの段階論に「初禅・二禅・三禅・四禅」、その上に「非想非非想」等々とあるのを、かつては「こんなに細かい分類をしてなんの意味があるのか」という感じに受け取っていたが、自分自身で禅定を続けていくうちに、「やはりこれにはちゃんとした禅定の深まりの根拠、体験的根拠があるのだ」と感じるようになり、そして、まだこの先があるのだろうと思うようなっている。

 ともかく、こうして瞑想がきわめて深いところまで達した時に大乗の瞑想の境地が出てきたのではないかと推測される。

 それを示しているのが、「菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは」、つまり菩薩大士の大乗とはどういうものかというと、いちばん根本は三三昧だ、と。ところがこの三は違っていて、「空・無相・無作(くう・むそう・むさ)三昧」という。これはそれ以前の仏教には見当たらない瞑想の名前である。

 「空三昧」、これは「空三昧とは諸法の自相空なるに名く」と書いてある。私たちが個々のいろいろな実体的なものがあると思っている、それが「諸法」である。ところがそのいろいろなもの・すべてのもののほんとうの姿・自相について、例えば時間経過をずっと見ていくと、それは「無常」であるということが見えてくる。それから、その時間経過の中でよく考えてみると、他との関係でできたのだ・「縁起」ということが見えてくる。

 よく上げる例だが、ここに「湯飲み」がある。この湯飲みについて、私たちは「ここに湯飲みそのものとしてある」と思ってしまうが、よく考えると、製造者が土を持ってきて型に入れて焼いて……というふうにして出来上がり、使われ、そして用がなくなり行き所がなくなったら捨てられ、ゴミとして割られて処分されたりして、もう「湯飲み」ではなくなってしまう。

 そういうふうに、関係の中で出来、関係の中で壊れていく、つまり無常であるということを考えると、それ自体で存在でき、それ自体の変わらない本性を持っていて、そしていつまでも存在できるという、実体としての本性を持っていない。その実体ではない・「非実体」ということが空なのであるが、空三昧とはその空ということをとことん洞察をしていくという瞑想である。

 空を洞察するという場合、まだ「洞察する」「考える」ということが残っているが、さらに、「これは空なのだから、私たちが見ている姿というのは、実体的な姿ではないのだ」ということ、すなわち「無相」ということについて、次のように語られている。

 諸法の相を壊(え)し、憶せず、念ぜざるに名く、

 「この見えている形、これは本質的な実体の形ではないのだ」と言って否定してしまうだけでなく、形としてそのことを憶えておいたり、それに今気づいているということをもやめてしまって、すべての形を離れていくという瞑想をする。これが「無相三昧」である。

 それから、空ということを洞察し、そしてその洞察も離れて形を見るということをすべてやめてしまうという瞑想に深まると、今度はいろいろなものに対して「あれが欲しい」とか「これが欲しい」と何かを求める・願望するということがなくなる。ものを特定の相・すがたで見るから欲しくなるわけで、相が消えてしまうとそれに対する願望がまったくなくなってしまう。それが「無作」である。「無願」と訳されることもある。

 そのように大乗では、空・無相・無作というところに瞑想が深まっていくとされている。
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『サングラハ』第191号 目次

2023年10月29日 | 広報
 『サングラハ』第191号が出ています。目次は以下のとおりです。お問い合わせは研究所のお問合せフォームへ。


 目 次
■ 巻頭言……………………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「有時」巻講義(3) …………………………………岡野守也… 3
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(5) …高世仁…… 14
■ 仏弟子たちのことば(21) …………………………………………羽矢辰夫… 22
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(6) ……増田満…… 24
■ 私のサングラハでの学び(1) ……………………………………毛利慧…… 34
■ サングラハと私(6) ………………………………………………三谷真介… 35
■ 講座・研究所案内…………………………………………………………………43
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11月からの講座案内:コスモス・セラピー+α

2023年10月14日 | 広報

 現代科学の世界観(コスモロジー)と心理学と仏教のエッセンスを統合したサングラハでしか学べない「コスモス・セラピー」(旧称、現在は「コスモロジーセラピー」)を、アドラー心理学やフランクルのロゴセラピー、さらに大乗仏教の深層心理学・唯識などとあわせてYoutubeで視聴で学んでいただけます。
 講座日に受講者がいっしょに学べるほか、YoutubeのURLをメールでお送りしますので、自分で好きな時間に視聴することもできます。
 全6回の講義を前期3回(11月、12月、来年1月)、後期3回(2月、3月、4月)の2期に分けてご提供します。
 (*なお講座の名称について、現在では「コスモロジー・セラピー」と呼んでいますが、当時のまま「コスモス・セラピー」にしていますので、ご了承ください。)

  【日曜講座】 コスモス・セラピー+α(前期)

 講師:研究所主幹 岡野守也
 テキスト:データ送信
 時間:13時半~17時
 受講料:前期3回分
 一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円、学生割引参加費=3千円

 講座日:11月26日、12月17日、2024年1月21日。講座日から1カ月程度Youtubeにて視聴可能

 講座内容:前期3回

 第1回 11月26日(日曜)=2014 年1 月19 日収録/3 時間42 分
資料:「生きる自信の心理学の要点」、「生きているだけでも大変な奇跡」

 第2回 12月17日(日曜)=2014 年2 月16 日収録/3 時間20 分
資料:「詩“最初の質問”」、「ニヒリズムの定義」、「現代科学のコスモロジー:ポイント
の整理表と小解説」

 第3回 2024年1月21日(日曜)=2014 年3 月23 日収録/3 時間00 分
資料:なし

 なお、後期は来年2月以降に予定しており、年が明けてからご案内しますが、内容は以下のとおりです。

 第4回 2014 年5 月25 日収録/3 時間34 分
 資料:「アドラー心理学:ヒューマニズムとその限界」、「宇宙歴XIII」

 第5回 2014 年6 月22 日収録/3 時間29 分
 資料:「ロゴセラピーからコスモス・セラピーへ」

 第6回 2014 年7 月27 日収録/3 時間27 分
 資料:「生きる自信の心理学の要点」

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『サングラハ』第189号、第190号 目次

2023年09月02日 | 広報
 『サングラハ』第189号、第190号が出ています。目次は以下のとおりです。お問い合わせは研究所のお問合せフォームへ。


 『サングラハ』第189号 目 次

■ 近況と所感……………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「有時」巻講義(1) ………………………………岡野守也… 3
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(3) …高世仁… 17
■ 仏弟子たちのことば(19) ………………………………………羽矢辰夫… 26
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(4) ……増田満…… 28
■ サングラハと私(4) ………………………………………………三谷真介… 36
■ 講座・研究所案内………………………………………………………………… 46
■ 私の名詩選(88) 武者小路実篤「今の自分の仕事」………………………… 48


 『サングラハ』第190号 目次
■ 巻頭言………………………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「有時」巻講義(2) ………………………………… 岡野守也… 3
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(4) …高世仁… 14
■ 仏弟子たちのことば(20) …………………………………………羽矢辰夫… 23
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(5) ………増田満…… 25
■ サングラハと私(5) …………………………………………………三谷真介… 33
■ 講座・研究所案内……………………………………………………………………43

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『サングラハ』第187号、第188号 目次

2023年04月03日 | 広報
 諸般の事情によりブログの更新ができないでいました。
 久しぶりの更新は『サングラハ』誌の最近2号の目次のご紹介です。

『サングラハ』第187号目次

■ 近況と所感……………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻講義中………………………岡野守也… 4
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(1) …高世仁… 19
■ 仏弟子たちのことば(17) ………………………………………羽矢辰夫… 27
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(2)……増田満…… 29
■ サングラハと私(2) ………………………………………………三谷真介… 36
■ 講座・研究所案内………………………………………………………………… 42
■ 私の名詩選(86) 武者小路実篤「平和」…………………………………… 44


『サングラハ』第188号目次

■ 近況と所感………………………………………………………………………… 2
■『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」巻講義下………………………岡野守也… 3
■「私がここにいるわけ」――高校生に語るコスモロジー(2) …高世仁… 17
■ 仏弟子たちのことば(18) ………………………………………羽矢辰夫… 23
■グローバルな問題を解決するために人々が持つべき内面について
――いくつかの提案を四象限コスモロジーで評価する(3) ……増田満…… 25
■ サングラハと私(3) ………………………………………………三谷真介… 32
■ 講座・研究所案内………………………………………………………………… 42
■ 私の名詩選(87) 上田敏『海潮音』より「春の朝」……………………… 44


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般若経典のエッセンスを語る48――六波羅蜜にあって八正道にはない「布施」

2022年11月04日 | 仏教・宗教
 強調点がぼやけてしまっているので、この前の部分では特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、次には、やはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならないことを述べていく。

 「大乗」はサンスクリット語で「マハーヤーナ」という。「マハー」は「大きい」、「ヤーナ」は「乗り物」という意味で、音を漢字に移して「摩訶衍(まかえん)」となっている。日本語では「えん」と読むが、かつては「ヤーナ」に近い中国語の発音だったのだろう。

 一般的な仏教知識では、大乗はそれ以前の派を「小乗(ヒナヤーナ)」と呼んで全面的に批判・否定しているかのように語られることが多く、正直なところ筆者も般若経典をしっかり読み込むまでは、何となくそういうふうに思ってきた。

 しかし、以下は、大乗がそれ以前の部派仏教(小乗)をただ否定するのではなく、いわば「含んで超える」ことを明らかにした個所(『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」)で、すなわちはっきり大乗にはそれ以前の派の修行の基本である「八聖道(八正道)」が含まれると語られている。

 また次にスブーティよ、菩薩大士の大乗とは、いわゆる八正道である。何を八とするかというと、正しい見解、正しい考え方、正しい言葉づかい、正しい行為、正しい生活、正しい努力、正しい気づき、正しい禅定である。これを菩薩大士の大乗と名づける。実体として把握することができないからである。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは、所謂八聖道分なり。何等をか八となす。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定なり。是を菩薩摩訶薩の摩訶衍と名く。不可得を以ての故に。

 念のためにコメントしておくと、ここでの「正(しょう)」・正しいという字は、論理的に正しいとか倫理的に正しい、ごく常識的な善悪について正しいといったふうにごく平凡な意味に取られることが多いようだが、そうではなく「縁起の理法に適っている」という意味に読み取る必要がある、と筆者は考えている。

 つまり、仏教の正見・「正しいものの見方」とは、何よりも「縁起の理法に適っている見方」という意味である。だから、ものを見る時には、縁起の理法に適った、すなわちつながりを見る見方をするということだが、単にそれだけではなく、よりトータルにすべてを必ず関係性・つながりで見ていこう、ということである。

 そして、人間は言葉で生きる動物だから、そのつながりをしっかりと自覚した言葉の使い方をしようというのが「正語」である。
 日常的に言うと、例えば誰かの顔を見た瞬間に、その人とのつながりをちゃんと自覚し、世間的には他人であろうとなんであろうと、人間である以上は、生き物である以上は、宇宙である以上はぜんぶつながっているのだとちゃんと考えられると、当然「こんばんは」「お元気ですか」といった、相手とのつながりを確認する言葉が出てくるはずである。だから日常的にそういうつながりを確認したり作っていったりする言葉を使うように心がけるのである。
 それに対し、「バカヤロー」とか「死んでしまえ」などというのは、まさに正語の逆さまである。今、いじめが問題になっているが、それは存在の本質が縁起の理法であることを現代の社会が標準的にまったく忘れているからで、それどころか社会が分別知で営まれていて、個々人がバラバラで存在し、しかも競争しながら「勝ったものは勝ち、負けたものは負け。それは当然だ」という考え方・分離思考でいる中で、人に声をかけると、もっとも極端には「死ね」といった言葉になってくる。まさに正語の反対である。
 そういう言葉ではなく、シンプルに関わりを確認し、関わりを深め、関わりを作っていく言葉を使うよう日常心がけるのである。

 それから特定の行為としても、関係・つながりを深める行為をするのが「正業」である。

 そして、特定の行為だけではなく人生・生活すべてをそうするのが「正命」である。

 縁起の内容を二つに分けると「縁生」「縁滅」になる。すべてのものは縁によって生じ、縁によって滅する。つまり縁があって生まれてくるけれども、その縁の結び目が解けると現象としては消えていく。縁起の中身は縁生と縁滅であり、それは時間の中で見ると「無常」ということになる。
 であるから、縁起の世界は必ず無常の世界であり、個体としての私たちに与えられた時間は有限である。すると無駄にしていい時間はほんとうには一秒もないということになる。だから縁起の理法を覚り、縁起の理法にふさわしく見、考え、語り、行為をし、人生そのものを縁起の理法に沿わせていくことに、わき目も振らずまっしぐらに一所懸命でなければならない。それが「正精進」ということである。
 分離思考・分別知によって、私の幸せが人生でいちばん大事だと思い、私の幸せ・私の夢のために一所懸命になる人はたくさんいるが、それは精進ではあっても正精進とは言わない。精進にも「正精進」といわば「邪精進」があるわけで、現代人の努力の大半は、縁起の理法に照らして厳密に言えば邪精進ということになるのではないか、と筆者は感じている。

 さて、私たちはこうしたことを学ぶけれども、残念ながらアラブの諺に「神々は記憶する。されど人間は忘れる」とあるように、人間とは忘れてしまう生き物で、しかも大事なことほど忘れがちな生き物である。
 なぜ忘れるかというと、私たちの心は主として分別知で動いているので、分別知ではないことを教わって憶えたつもりでも、ふだんは主に作動している分別知の言葉が巡ってしまい、無分別知から生まれてきた言葉・智慧が覆われ忘れられてしまうのである。
 だから、それを忘れないようにしようというのが「正念」である。縁起の理法にいつも気づいているように、と。
 これはたまたま当てた漢字がとてもよく当てはまっているということだが、「念」は「今の心」と書く。昔勉強をしてわかったつもりでも、今念頭にないと役に立たない。だから「すべてがつながって一体だ」ということを学んで「なるほど、そうか、それはそうだな」と納得したとか、そのときに感激したというのはベースになるが、そのことに今気づいているのが「正念」である。

 しかし人間の心は、無意識のところからまさに無明・分別知で作動している。パソコンに譬えると、要するに無明がOSなのである。だから、どんなにいいソフトを入れてもどこかで誤作動を起こす。もちろんパソコンほど単純ではないが、譬えてわかりやすく言えば、そういうことである。
 だからOSを取り替えなければならない。無明のOSをアンインストールして正しい智慧のOSをインストールし直すための作業が禅定であり、縁起の理法を全心身化・無意識化するための「正定」である。

 先に引用した個所で、この八正道を大乗も踏襲するとあった。しかし、実は大乗の基本的な実践の項目である六波羅蜜には大乗が付け加えた決定的に異なる項目がある。
 よく知られていることだが、改めて六波羅蜜の項目をあげておくと、「布施・施すこと」「持戒・戒律を守ること」「忍辱・辱めを忍ぶこと」「精進・努力すること」「禅定・瞑想をすること」「智慧」の六つである。八正道に対してどこが決定的に違うかというと、八正道には布施がない。一方、六波羅蜜は最初に「布施」があるのである。
 つまり、私は他の人とほんとうはつながっているのだが、いちおうは区別があって他人に見える。そういう人に、実はつながっていることを、行動をもって確認し、つながりを作っていくのが布施の本質であり、いわば慈悲のエクササイズである、と筆者は理解している。
 もちろん八正道は縁起の理法を自分のものにするための方法論であるが、大乗ではそれがもっと積極的に「布施」という形で含まれている。八正道の正業や正命が布施に該当すると言えなくもないが、非常にはっきりと、しかも実践方法の最初に据えられているというのが、大乗とそれ以前の仏教、大乗からすると「小乗」との大きな違いだと思われる。

 そして最終的に目指すところは、六波羅蜜では智慧で、その手前に禅定があるが、八正道では最後に正定つまり禅定が来ている。つまり、禅定を通じて智慧に到ることを目指すのが大乗の六波羅蜜である。
 そして、大乗の智慧はただ智慧にとどまらずそこから必然的に慈悲が生まれるのである。

 部派仏教の文献と大乗仏教の最初である般若経典を比較しながら推測するのだが、これはおそらく瞑想の仕方が変わってきた、あるいは深まってきたことを示しているのではないか、と筆者は推測している。
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般若経典のエッセンスを語る47――智慧と慈悲のバランスを

2022年11月02日 | 仏教・宗教

 最初のほうで、大乗仏教は一言で言ってしまうと「智慧と慈悲」であること、そして智慧は空・一如に裏づけられていることを述べた。

 日本では明治以降、もっとも典型的には京都大学の哲学科の主任であった西田幾多郎が、坐禅の実践をベースにした思索によって、西洋の哲学の概念と、禅の空いわば東洋を、ひとつの哲学に統合して体系づけるという仕事をした。西田の最初のまとまった著作は『善の研究』であり、それ以後の著作も含め次第に日本の知識人・教養人たちの教養書・基本図書になっていった。そのように、日本の仏教に関する文化全体の中核の一つに京都学派宗教哲学があり、その源泉に西田幾多郎という人物がいて、さらにその背後に臨済禅がある。

 そこでなされた「無」や「空」という概念の哲学的な詮索、およびそこから出てくるさまざまな文化的なムードがあったため、これまで仏教は智慧・空のほうに重点を置いて理解されがちだったのではないだろうか。

 そしてそれが通俗化すると、空や無などといったことをお説法などで聞きながら、それは例えば「無欲である」とか「自己主張がない」という意味での「無我」であるとされ、一種の心の安らぎを与えるものとして仏教が捉えられるというところがあったと思う。

 そうした文化の流れの中で、大乗仏教の基本でありながら、焦点が非常にぼやけてしまったのが「慈悲」である、と筆者は捉えている。

 そこで、般若経典の最大の『大般若経』六百巻の中で、慈悲の実践として「具体的にこういうことをしよう・したい」という菩薩の誓願にこんなにすごいものがたくさんあるということ、つまり「智慧と慈悲」という場合の慈悲の話を先にした。

 大乗仏教の慈悲は、ヒューマニズムの人類愛やそれがもう少し市民化・庶民化したボランティア精神などとは、ベースはまったく違うのである。そして、そのベースになっているのは智慧・空であるから、智慧と慈悲のどちらかだけが語られるのでは大乗仏教が正しく語られることにならない。また、どちらかに比重が傾いてしまうのも正しくない、と筆者は考えている。慈悲は必ず智慧に基礎づけられているという構造になっている、と理解している。

 これまで強調点がぼやけてしまっていると思われるので、ここまで特に慈悲に関わる誓願の話に強調を置いて述べたが、続いて、とはいってもやはり空・智慧の基礎づけがなければ慈悲は大乗の慈悲にならない、ということを述べていくことになる。

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般若経典のエッセンスを語る46――「四弘誓願」+仏国土建設という理想

2022年11月01日 | 仏教・宗教

 さて最後に、かつて本ブログでも書いたが、改めて「四弘誓願(しぐせいがん」について書いておきたい。

 『大般若経』で三十一項目にもわたって述べられた菩薩の誓願を、中国の天台宗を開いた天台大師智顗(ちぎ)は主著『摩訶止観(まかしかん)』の中で四つにまとめていて、「四弘誓願」という。「大変広い四つの誓願」という意味で、なぜ「弘・広い」のかと言うと、私だけではなくてすべての衆生に関わるものだからである。

 日本仏教では古くから天台宗だけではなく多くの宗派で、この「四弘誓願」が唱えられてきたようである。派によって言葉は少し違うようだが、以下、臨済宗で用いられているテキストをあげる。

 

 衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

 煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

 法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

 仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

 

 おおかまに訳すと以下のようになるだろう。

 

 生きとし生けるものは無数であるが、必ず救うと誓い願う

 煩悩は尽きないほどあるが、必ず絶つと誓い願う

 真理の教えは量りしれないほどあるが、必ず学び続けると誓い願う

 覚りの道はこの上ないものであるが、必ず成就すると誓い願う

 

 この「四弘誓願」をただ唱えているだけの儀式が多く見られるが、意味を知って唱えるととても感動的なので、ぜひ意味を学んで唱えるようにするといいのではないかと思う。

 ただ、これはあまりにも高い理想で、全面的に「ねばならない」ものとして受け止めてしまうときついので、「なるべくそうありたい」というふうに柔軟に受け取るといいと筆者は考えており、そのためにもう少し軽い訳を試みたのが以下の文章である。「超訳」という言葉は商標登録されているそうなので、「超意訳」とした。

 

  超意訳「四つのおおきな願い」

 

 世界中のみんなを幸せにできたらいいよね。

 つまらない悩みはぜんぶなくしたいよね。

 いいことはいつまでもずっと学びつづけたいよね。

 ほんとに最高にいい人になれるといいよね。

 

 筆者は、この四つの言葉それぞれの後にカッコでくくって「(なるべくそうなるように努力しよう)」と付け加えることにしている。

 論理療法で「絶対的にそうしなければならない」と考えるのを「マスト化」という。こうしたあまりにも高い理想をマスト化して捉えるととてもつらくなり、つらさのあまり「無理」などと言ってやめてしまうことにもなってしまう。

 論理療法では硬直したマストに対して、柔軟な「プリファー・なるべくそうでありたい」という考え方を勧めている。

 マスト化して無理だと感じてやめてしまうくらいなら、マスト化せず、「到達できないかもしれない。たぶんできないけれど、でもここを目標にしたい。なるべくそうありたい」、「初歩でも何でも、とにかく菩薩は菩薩」というふうに心を決めれば、いろいろ悩みがあっても人生を死ぬまではちゃんと生きられるだろう。

 であるから、筆者は、悩み多き人生を四弘誓願を心に、広く言えばこの三十一願を自らの願として、「小さくても菩薩という人生を送れるといいな」と思うことにしている。無理をしないで「送れるといいな」ということで行きたいと思っているし、読者のみなさんとも一緒にそうなれるといいなと思いながら、一緒にさらに学びを続けられたらと思っている。

 

 ところで、「四弘誓願」は三十一願を四つにまとめていると言ったが、実は残念ながら三十一願の大きな基本的な方向である「仏国土の建設」が言葉として表現されていないと筆者は感じていて、自分が唱える時には、般若経典に繰り返し出てくる「成熟衆生厳浄仏土(じょうじゅくしゅじょうごんじょうぶつど)」「すべての生きとし生けるものを成熟させ、美しい仏の国土を創り上げよう」という言葉を補うことにしている。

 すでに繰り返し述べてきたことだが、ここでも、これまでの常識的な理解と異なり、般若経典で語られる大乗仏教は、ただ個人の心の救いを目指すだけのものでなく、全世界を覚りによって創造される美しい仏の国にしたいというきわめて大きなスケールの社会的理想をも掲げた思想運動であり社会運動でもあったということを改めて指摘しておきたい。

 そして、日本史の授業では教わらなかったことだが、『日本書紀』や『続日本紀』を右と左の偏見を排してちゃんと読み直してみると、大乗仏典・般若経典の「この国を仏国土にしたい」という誓願・国家理想は、聖徳太子のものであり、天智天皇や藤原鎌足のものでもあり、天武天皇のものでもあり、聖武天皇や藤原不比等のものでもあった、つまり「古代日本の国家理想」だったということは確実だ、と筆者は考えている。

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