問題山積の新年ですが……

2022年01月08日 | コスモロジー
 年末・年始はゆっくりし、今日から本格的な仕事始めです(リモート土曜講座:「深い気づきのメソッド――六波羅蜜を学ぶ」)。
 サングラハ教育・心理研究所は、この1月18日で満30年になるのですが、コロナがなかなか収まらないので、特別な記念行事的なことは行なわず、当面これまでどおりのことをさらに続けていくことにしました。
 それにしても、仕事始めのご挨拶くらいは書いたほうがいいかなと思っていたら、以下の過去の記事(混迷状況も実体ではない:唯識のことば35、2017.3.06)を思い出しました。これはこのまま今の心境なので、再掲させていただきます。
                *
 どのようにして、さまざまな外的対象が目の前に現象するにもかかわらず、それが実体的な存在ではないと知るのか。……

 一には、差異のある識という相を知ることである。

 たとえば、餓鬼、蓄生、人間、天人は、同じ対象についても〔それぞれの〕認識作用〔の差異〕によって〔認識内容に〕差異があるのである。

                      (摂大乗論第二章より)


 「ものごとは心のあり方しだいで実にいろいろなふうに見える」というのが唯識の基本的な考えの一つです。

 それは、抽象的な話ではなく、例えばここのところ目立ってきた世界の混迷という「外的対象」についても当てはまると思われます(この文章を最初に書いた時点では「不況」でした)。

 混迷状況があまりにもありありと「目の前に現象」してきているので、私たちはそれが変化することのない実体的な存在・問題であるかのように考えがちです。

 そして考えれば考えるほど、不安になったり、気が重くなったり、暗くなったり、困ったり、つらくなったり、絶望したりしがちです。

 その場合、いちばんふつうの対処法は、「考えると暗くなるから、考えるのはよそう」と、なるべく気にしないようにして、何とか一日一日やり過ごすというやり方でしょう。

 それはそれで何とかなっている方には、まさにそれでいいのだと思います。

 しかし唯識を学んだ私たちには、「考え方を変えて、もっと明るくなる」という手もあります。試みてはどうでしょう。

 まず第一に、どんな外的対象も、つまり混迷でさえも、実体ではなく無常であり、どんなに長くても永遠には続きません。いつかは終わります。

 どんな困難にも必ず終わりがあるのです。

 それどころか「破壊・混沌の後に新しいより高度な秩序の創発」というのはコスモスの法則です。

 そう思うと、かなり気が楽になってきませんか。

 あわてて心を乱さないで、ゆっくり気長に終わりを待ちましょう。

 第二に、混迷もまた「状況」の一つで、いろいろな見方ができるものです。

 餓鬼には、水が燃え盛る膿の流れに見えるように、これまでの日本のそこそこ安定した生活の水準を絶対視すると、混迷はとても不安なピンチに見えるでしょう。

 畜生・魚にはそれが生きる場所のすべてに見えているように、今の状況がすべてだと思っていると、暗くて出口のないトンネルに入ろうとしているように思えるかもしれません。

 しかし人間には、水は下手をすると溺れるものですが、基本的にはいのちの糧であるように、理性・知恵を使って能動的に対応すれば、どんな状況も「ピンチはチャンス」と捉え直すことができます。

 例えば、「混迷は避けられない」という見方を「確かに一定期間のカオスは避けられない。でも、なるべく短期に終わらせて新しい秩序を創造する可能性はゼロではない」と変えると、「では、どうすればいいか」と知恵が働きはじめます。

 混迷の終わりを受動的に待つだけでなく、さらに混迷、というより混沌・カオスを新しいよりよい秩序に向かうチャンスに変える能動的な工夫を精一杯していきましょう。

 天人になると、水はその上を歩くことのできる透明で美しい床に見えるのでした。「天人」とはいわば「コスモス的人間」です。

 コスモス的な見方ができれば、カオス状態にも意味があり、それを一つのステップとしてしっかりと踏んで歩むことができる、ということになります。

 「そんなこと言ったって」という声が聞こえてきそうなので、もう一言。

 これまでどおりの安定・安心を過剰に求める見方にこだわって元気が出ないのと、見方を変えて少しでも元気を出すのと、どちらが混迷・カオスを乗りきる可能性が高まるでしょう。

 見方を選ぶのは、もちろん個々人の自由です。

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般若経典のエッセンスを語る42――独裁者のいない社会を目指す

2021年12月26日 | 仏教・宗教

 第十四願は、いわば第十三願の補足で、「無形色差別の願」という。「形色(ぎょうしき)」とは、形・身体のことで平たい言葉で言えば「見た目」で、見た目・外見のきれい・汚いによる差別をなくしたいというのである。皆が平等に金色に輝いて美しい国にしたい、と。それは、皆が存在しているだけで等しく仏の子としての価値があるからである。

 けれども、現代の日本では、男女ともに外見・外面が美しいか美しくないかが価値の大きな物差しになっていて、密かな、時にはあからさまな差別を生み出しており、存在そのものや内面の価値を見る眼がかなり薄れているように思える。

 それは、物質的外面ばかりに目が向き精神的内面を見失いつつある近現代の世界観(K・ウィルバーの言う「平板な世界(フラットランド)コスモロジー」)の典型的な現われの一つだが、古代の日本のリーダーたちが目指した仏国土とはまるで逆の国になっているというほかない。

 

 そして先取りしてしまったが、第十五願は「無主宰得自在(むしゅさいとくじざい)の願」という。「主宰」つまり独裁的な君主・指導者がおらず、人々が自由を得ることを願うというのである。つまり、「仏国土においては独裁があってはならない」とはっきり書いてあるのだ。

 この願もまた、初めて読んだ時、驚きを覚えたものである。般若経典には、政治と離れた内面の安らぎのことが書いてあるだけでなく、きわめて政治的なことも書かれていて、特にはっきり独裁制を否定しているのだ、と。

 

……菩薩大士が……もろもろの有情が君主に隷属しておりいろいろしたいことがあっても自由にならないのを見たならば……次のような願をなして言う。「私は渾身の努力をし身命を顧みず……私の仏の国土の中のもろもろの有情には君主がなくいろいろしたいことはみな自由であるようにしよう。

 

 こうして見てくると、西洋近代の「自由・平等・友愛」という理想は、はるかに古くからすべて仏教のなかに、空・一如というより深い根拠づけをもって存在していたと言うこともできるのではないだろうか。ただ三番目の標語は言葉としては「友愛」ではなく「慈悲」であるが。

 そして、次の但し書きが的確で渋いと思う。

 

 ただし、如来・真に正しい覚った方があって真理の教えのシステムで〔有情を〕包み込むのは法王であって例外である」。……

 

 こういう指導者は「法王」と呼ぶのであって、例外としてこういう指導者は必要である。仏国土には独裁者・君主は存在してはならない。けれども、人々はまだ煩悩・無明にまみれているので、教え導かなければ、平等で自由で人々が慈しみ合うような美しい仏国土は完成しない。だから、人々を智慧と慈悲に向けて精神的な成長へと教え導く法王は必要であるというのである。

 覚った指導者が人々を導くなどということが実際に可能なのか、夢のようなきれいごと・理想論にすぎないと思う人も多いかもしれない。

 しかし、例えば、そういう法王がいたかつてのチベットは、物質的には貧しかったかもしれないが非常に平和でいい国だったのではないかと推測される。

 そして、より具体的な実例として、ブータンという国がある。ブータンは、もともと法王が国王になった国であり、国王が大乗仏教の平等という思想をほんとうに深く理解していて、近代になると国王自身が政治体制を君主制から議会制民主主義にすべきだと言い出したという。臣下たちが「国王陛下が我々と平等ではもったいない」と言うと、「いや、仏教ではそう言われている」と答え、先代の国王主導で移行が行なわれ代替わりの時から議会制民主主義になったのだという。つまり、ブータンでは大乗仏教の平等の心が実際に生きていて実行されていると見てまちがいなさそうである。

 そして、基準によるが、国民が世界でいちばん幸せな国だという国際的な評価もあることはよく知られているとおりである。それは、たまたま幸運にもそうなったのではなく、大乗仏教の精神を深く身につけた国王が主導して意図的にGDP(国民総生産)ではなく、GNH(国民総幸福)を目指し、実現しつつあるということだという(大橋照枝『幸福立国ブータン』白水社、ドルジュ・ワンモ・ワンチュック『幸福大国ブータン』NHK出版、参照)。

 日本も原点を振り返ってみると、聖徳太子は日本をそういう人々すべて、さらに生きとし生けるものすべてが幸福な国にしたいと願ったのだと思われる。しかし、日本の場合、千四百年経ってもそうなっていないのはなんとも残念なことではないだろうか。

 とは言っても、現代の日本はすでに近代化され政治と宗教が分離されているから、ブータンと同じようにはできないが、精神においては、ブータンの大乗仏教精神とは日本の元々の精神でもあることをもう一回思い出しなおし、ぜひとも日本を大乗仏教の理想の生きた国にしたいものである。

 それは、もちろん決して仏教を排他的な国教にして他の宗教を否定するという意味ではない。聖徳太子自身、原理主義的に仏教を信奉したわけではなく、仏教を核としながらも「神仏儒習合」という寛容で統合的な精神政策を採用されたのだった。

 そして、すでに述べてきたとおり、仏教の核にある、すべてのものがつながっており(縁起)、分離独立した実体はどこにも存在せず(空)、果てしなくつながっていて究極のところ一つである(一如)という気づき(覚り)は、特定宗教の教義を超えた普遍的なものだと思われる。

 だとすれば、般若経典が示唆するような普遍的な気づきに基づいた国家さらには人類共同体は、これからの世界にとって、可能でもあり、必然的に目指されるべきものではないか、と筆者は考えている。

 

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『サングラハ』第180号が出ました!

2021年12月24日 | 広報

  目  次

■ 近況と所感 ………………………………………………………………………………… 2

■「典座教訓」講義(3) ……………………………………………………岡野守也…… 5

■ コスモロジー心理学各論(7)――なぜ空は青いか?…………………岡野守也……17

■ 痴呆、認知症そして老耄(認知障)(12)………………………………大井玄……… 22

■ 仏弟子たちのことば(12)…………………………………………………羽矢辰夫…… 33

■『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(1)…………増田満…… 35

■ 講座・研究所案内……………………………………………………………………………… 42

■ 私の名詩選(79) 『万葉集』紅葉の歌…………………………………………………… 44

 

 

  編集後記

 おかげさまで第一八〇号に到達しました。間もなく創刊三十年、引き続きよろしくお願いいたします。岡野主幹による「典座教訓」講義では、典座の仕事を修行の本務であるというのが、単なる心構えではないという本気度が伝わってきます。うまく言い難いのですが、実に「気合」が感じられる回でした。

 コスモロジー各論は、今回は「空が青い理由」です。大気がなければ真っ暗闇に極端にギラギラの太陽…青空が美しいのは、コスモロジー的に当然です。

 大井先生の「痴呆、認知症そして老耄(認知障)」は今回が最終回となります。「認知症」とされるものの多くが人間の正常な老いの過程でもあること、人間の信じる力の可能性というのは驚異的なものがあること、そして何より「知識としての記憶は忘れても、感情としての記憶はしっかり残る」ことを、心に刻みたいと思います。

 羽矢先生の「仏弟子たちのことば」は、因襲的な女性蔑視に直面したマハーパジャーパティーの話が扱われています。

 増田さんは今回から「『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」」と題した、話題の著作の書評と考察の連載となります。

                             (編集担当)

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2022年1月〜3月の講座予定

2021年12月06日 | 広報

 サングラハ教育・心理研究所 2022年上期 講座案内

 

 これまでも繰り返してきましたが、残念ながらこれまで(有史以来)のものの見方・やり方は、ものごとすべてを基本的にばらばらに分離・独立したものと捉える〈分別知(ふんべつち)〉をベースにしたものであり、個人の心にも社会・世界の状況としても、多くの問題を生み出してきました。

 そして今や問題が山積みになっており、このままでは、近未来に希望を見出すことが難しい時代になっています。

 けれども、これまでとは根本的に違うものの見方であるほんとうの智慧、すべてがつながっており究極は一つであることに目覚めた〈無分別智(むふんべつち)〉とそれをベースにすべてのもののそれぞれの姿を適切に捉える〈無分別後得智(むふんべつごとくち)〉を学び身につけることができれば、私たちは、個人としても社会・世界についても、確かな希望を見出すことができると思われます。

 当研究所のプログラムは創設以来、分別知から智慧への心の成長の促進を目指してきました。今期のプログラムもその継続です。

 現在、コロナの状況に対応して、講座はすべてリモートとしています(Zoom使用)。

 遠隔(リモート)には、デメリットもありますが、どんなに遠くにお住まいの方でも参加していただけるというメリットがあります。

 これまで、関心や希望があったにもかかわらず距離的に参加が難しかったみなさん、この機会にぜひご参加下さい。

 

 【リモート日曜講座】「般若=智慧とはなにか――『摩訶般若心髄経(まかはんにゃしんずいきょう)』を読む」

 古代から日本人の心を育んできた大乗仏教、その核心にある「空」「般若=智慧」「菩薩」とは何か。要点をわかりやすく学んでいきます。

 まったくの初心の方の入門としても、中・上級の方の復習・熏習のためにも役立つことを目的としたプログラムです。

 テキストとして、般若経典の集大成である『大般若経』六百巻などのもっとも重要な個所を抜粋編集した『摩訶般若心髄経』を読んでいきます。

 併せてやさしい瞑想法もお伝えしますので、知識だけにとどまらない深い学びをしていただけるはずです。

 ▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布▼時間:13時半〜16時半▼参加費:一般=1万5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=7千5百円、学生=3千円

 1月23日 2月27日 3月27日(3回)

 

 【リモート水曜講座】「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間」シリーズ

 『正法眼蔵』を学ぶ長期シリーズです。今回は、文体が難解なことで知られる道元禅師の著作としては例外的なほど平易な言葉でありながら、きわめて深い死生観を語った「生死」の巻を選びました。

 『正法眼蔵』は初めての方にも、中・上級の方にも、それぞれのレベルの学びが可能です。

 やさしい瞑想の時間も含め、悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になるでしょう。

 初心の方には、受講前にやさしい道元入門と瞑想入門のテキストも差し上げます。お気軽にご参加ください。

 ▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布▼時間:19時半〜21時▼参加費:一般=7千5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=6千円、学生=3千円

 1月19日 2月16日 3月16日(3回)

 

 【リモート土講座】「深い気づきのメソッド――六波羅蜜を学ぶ」第一期

 大乗仏教について入門から初級程度の予備知識と理解があることを前提とした、中・上級者向け(ただし、予め了解の上であれば、入門・初級の方でも受講可)の日々の実践のための講座です。

 大乗の教えの基本である空・中観と唯識を学び、煩悩とは何か、それを超える覚りとは何かについていちおうの理解ができた人の心には、次に、ではどうしたら覚れるのかという実践的な問いが起こるでしょう。

 六波羅蜜、完成(つまり覚り)への六つの方法(メソッド)がある、というのがその問いへの答えです。今期から、その具体的な内容について『大般若経』を中心に学んでいきます

 (瞑想の実習の時間もあります)。

 

 ▼講師:研究所主幹・岡野守也▼テキスト:随時送付▼時間:14時〜16時▼参加費:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=7千5百円、学生=3千円

 1月8日 2月12日 3月12日(計3回)

 

○問合せ・申込み方法(各講座共通):研究所HPのフォーム、またはFAX087‐899‐8178、メールsamgraha@smgrh.gr.jp でお問合せ・お申込みください。お申込みの方は氏名、住所、性別、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記してください。

 

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リモート講座「コスモロジーセラピー入門」②

2021年10月28日 | 広報

 

 10月に続きコスモロジーセラピーの二回目の入門講座を行ないます。

 

 ところで、読者のみなさん、私たちが今日・ここで生きていることの始まりはいつだと思われますか?

 

 誕生日? もちろんそうですね。あるいは、お母さんが妊娠した時? それもそうです。 

 

 しかし、現代科学の宇宙論・コスモロジーの標準仮説を私のこととして理解すると、それはもっと前、138億年前ということになります。

 

 え?! と思われるかもしれません。考えてみましょう。

 

 138億年前に私たちの宇宙が誕生したとされていますが、もし宇宙が誕生しなかったら、私は誕生できたでしょうか? できなかったと思われます。

 

 つまり、138億年前に宇宙が誕生してくれたから、138億年経って私が誕生できたのですね。

 

 とすると、宇宙の誕生は私の誕生の準備だった! 宇宙の始まりは私の始まりの始まりだった! ということになります。

 

 しかも、138億年の間にはずいぶんたくさんの出来事があったと想像されますが、そのたくさんの出来事の一つでも違っていたら、私は誕生しておらず、今日・ここにはいません。

 

 138億年のすべての出来事が私が生まれられるように起こっているのですね。

 

 気づくと驚くべきことです。

 

 コスモロジーセラピーは、そうした138億年の宇宙の出来事が、ただ私と直接関係のない科学理論の話ではなく、すべて私に関係していることを学びながら、自分の存在が宇宙的な奇跡であり、そういう意味で宇宙的に価値ある存在であることに気づいていく、心のレッスンです(そこにただ客観的な宇宙論の知識を学ぶこととの違いがあります)。

 

 内容は、一回目と重なる部分と新しい部分がありますから、初めての方でもリピーターの方でも大丈夫です。ぜひ、ご参加ください。

 

 

 日時:12月5日(日)13:30〜16:30(休憩を入れて3時間)

 講師:サングラハ教育・心理研究所主幹 岡野守也

 費用:一般3千5百円、学生1千円

 場所:zoom使用

 *お申込みはサングラハ教育・心理研究所のHPのフォームでどうぞ。

 

 

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般若経典のエッセンスを語る41――格差のない社会を目指す

2021年10月16日 | 仏教・宗教

 第十三願は、「無上中下家族差別の願」である。まったく平等な社会・仏国土には、もちろんのことそれを構成している家族にも上流・中流・下流の格差があってはならないということである。

……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏の国土の中にはこのような下流・中流・上流の家族の差別がなく、一切の有情がみな金色に輝いて美しく人々が見たいと思うような最高に充実した清らかな様子になるようにしよう」と。

 貧しくて見た目も汚れてみすぼらしい下流階級がいるような国は、仏教精神の国ではない。そういう意味で、聖徳太子以来、建前としては日本はそういう国であってはならなかったのである。格差社会は日本という国のあるべき姿ではない。西洋由来の民主主義とかヒューマニズムももちろん一定の意味や有効性があると思うが、それと並行して、あるいはそれ以前に、私たち日本人は、この仏教の理想を思い出したいものだ、と筆者は思う。

 今、心の乱れから発生していると思われる様々な出来事の多発する状況のなかで、何よりも必要なのは、日本の精神的伝統の中核にあった大乗仏教がこんなに高い理想を掲げていたのだということを思い出すことではないだろうか。「こういう国を目指したくて『十七条憲法』が書かれたのではないのか。そのために日本のトップリーダーは仏教を国教にしたのではないのか。そのことを思い出そう」と言いたい(拙著『「日本再生」の指針――聖徳太子『十七条憲法』と『緑の福祉国家』』太陽出版、参照)。

 先取りして言うと、第十五願では、驚くべきことに菩薩の建設する仏国土には人々の自由を拘束する君主・独裁者は存在してはならないと述べられている。

 身分・階級の差別がなく、格差もなく、独裁者もいない、貧しく不幸な人は一人もいない、お互いが恩恵を与え合う、花園のように美しい国を創ることを大乗の菩薩は目指すのだ、と『大般若経』にはっきりと記されている。

 そして、それを実現するためには、まず求道者・菩薩自身から始めて人々すべてが六波羅蜜を実践して、心を成熟させていく、浄化していくことが必要なのである。

 『大般若経』からそうしたことを読み取ることができた時には、大きな驚きと喜びがあった。これこそ古来日本国の目指すべき理想だったのだ、古代日本にはそういう高い国家理想があったのだ、これは私たち日本人が根拠をもって誇りうる歴史的原点なのだ、と。

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般若経典のエッセンスを語る40――身分差別のない社会を目指す

2021年10月15日 | 仏教・宗教

 第十願は、「金沙布地の願」で、汚い泥や石や茨などばかりの国土を、国中が砂金のような宝に満ちたすばらしい国土にしたいというのである。

 それから第十一願は、人々が貪欲・無明によって悪業をなすことに執着していることから遠く離れさせてやりたいという「遠離恋著悪業の願」である。

 この二つは、内容的には第九願までの補足のようなものなので、簡略に紹介するだけにしておこう。

 

 全三十一願のなかでも特筆すべきだと思うものの一つが、次の第十二願「無四種色類貴賎差別の願」である。人々が四種類に分けられ貴賤の差別がなされている状態をなくしてしまいたいというのである。

 古代のインドに四種類の貴賎の別があったことは、一般常識としても例えば世界史の教科書などに語られているとおりである。まず宗教者階級のバラモン、次に武士・貴族階級のクシャトリア、さらに平民階級のヴァイシャ、そして四番目に奴隷階級スードラである。インドでは今でも、もっと細かく分かれた、きわめて多くのカーストがあるという。

 人間には身分の貴賤・差別があるという考えは、ブッダから二千五百年、大乗仏教から二千年を経ても、なかなか人類の共通意識にならないほど強固なものである。

 「自由・平等・友愛」の実現を目指してきたはずのフランスでもアメリカでも、貧困と差別を撤廃するはずだった社会主義国でも、依然として平等は実現していないどころか、むしろ格差が深刻化しているようである。

 平等が実現せず差別・格差があり続けるのは、なぜか。それは、分別知・無明があるからだと大乗仏教は主張する。

 人が自分と他人とを分けると、当然のように違いを見て、比較することになる。比較すると、上か下か同じかという価値の差別が始まる。そして、人間は他者と別れた自分(たち)を中心視し、自分(たち)のほうが上だと思いたくなる。そうした心理をスタートとして、社会のなかで競争さらには闘争が行なわれ、その結末として、勝者が上、敗者が下という身分の上下が固定化されていく。

 般若経典に、そこまでのプロセス全体が詳しく述べられているわけではないが、語られている内容を敷衍するとそうなる、と筆者は考えている。

 そうした差別のある社会の現状に対し、菩薩はそれを見て「このような四種類の貴賎の差別をなくしたい・必ずなくす」と誓い願うのである。

 この願には、大乗仏教の目指すところがいわばユートピア・平等世界であることがはっきり出ている。だとしたら、大乗仏教を志す人は、完璧に平等社会を目指さなければならない。仏教徒であると言いながら、社会にある差別を容認したり、まして積極的に肯定するということは、大乗仏教としてはほんとうはありえないことである。

 そして差別をなくすためには、まずその源泉である無明・分別知をなくさなければならない。

 毒のある草に喩えると、根を掘り出さないまま、葉だけむしっても、しばらくするとまた葉が伸びはじめる。時によっては、危機を感じ取った草はむしる前よりも強く繁りはじめたりすることもある。

 分別知の問題を無視したまま、あるいはそれに気づかないまま、現象としての差別・格差に反対し、なくそうというヒューマニズム的な運動が、繰り返し挫折したり、腐敗したりするのは、悲しいことだが当然ではないか、と筆者は考える。

 まず自らが六波羅蜜を修行し、そしてその六波羅蜜を教えて、人々を精神的に成熟させる。そして精神的に成熟した仏国土を美しく創りあげ、速やかに完成させる。一刻も早くこの上なく正しい覚りを実際に覚る。そうして、「我が仏国土の中にはこのような四種類の貴賎の差別がなく、一切の有情が同じ階級であってみな尊い人間という生存形態に含まれるようにしよう」と。

 ところで、「平等」は、ヒューマニズムの理想であり、とりわけフランス革命の標語だと思っている人が多いのではないだろうか。

 しかし、実は「平等」という言葉はもともとは仏教用語なのである。西洋思想を輸入した明治の知識人は仏教の知識もかなりあり、equality、フランス語でégalitéを訳す時、仏教用語の「平等」を当てたということらしい。

 そういう意味では、本来の「平等」とは、むしろゴータマ・ブッダ-大乗仏教の「すべての人に階級がなくなり、すべての人が尊い人間になる」という理想を語る言葉である。

 しかし歴史上の仏教は、しばしばこの「平等」という理想を見失って、身分制の社会を肯定するイデオロギーと化したり、仏教内部でさえも僧侶たちに階級があり、いわば身分の差別があった(ある?)ようだ。

 しかし、それは言うまでもなく、『大般若経』で語られている「平等」という大乗仏教の理想に反している。

 繰り返せば、大乗の菩薩は人々がまったく平等な社会・仏国土の建設を目指しているのである。

 

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般若経典のエッセンスを語る39――すべての人にとってバリアフリーな国を

2021年10月13日 | 仏教・宗教

 それから面白いのが、第九の「無雑穢業国土平坦の願」である。菩薩の建設する仏国土では汚れや危険なものがまったくなく、土地は平坦であるようにしたいという。いわば、お年寄りや体の不自由な人のためだけでなく、すべての人にとってバリアフリーな国を建設したいというのである。

 

……悪しきカルマによる障害があり、住んでいるところの土地に〔危険なほどの〕高低の差があり、堆積や溝、汚れた草や切り株、毒のとげやいばら、汚染が充満しているのを見たならば……この菩薩大士はそのことをよく観察してからこう考える。「私はどうすればこうした諸々の有情を救いとって貪欲を離れ欠乏のない状態にしてやれるだろうか」と。……有情の居場所の土地が平らであり、園や林、池や沼にはさまざまな香りの花々が咲き乱れて美しく、はなはだ愛すべきであるようにしよう」と。……

 

 今の日本は、例えば核のゴミを筆頭に処理しきれないゴミが山積している。放射能汚染も決して全面除染できたとは思われない。日本の周りも含め世界中の海が廃棄物、特にプラスティックで汚染されている。清掃活動をしてもしても、海岸には毎日ゴミが打ち寄せる。地方は衰退し、耕作放棄地は荒れ放題だし、山林も荒れてきている。そして、その荒れた山林にゴミの不法投棄が行なわれ、建設残土等の不法投棄が行なわれている……等々、自然の理に反した経済の営みが、日本でも世界でも、国土を荒廃・汚染させいのちへの危険を増しつづけているのではないだろうか。

 自然の理に反した経済の背後には、無明から生まれる過剰な欲望・貪欲が潜んでいる。貪欲が国土を荒廃・汚染させるのだから、国土を美しく再建するためには、過剰な欲望から離れ自由にならなければならない。

 しかし、それは「清貧」を目指すというのとやや異なっていて、自然の理に沿った豊かさというのがあるのであり、自然の理に沿って美しく豊かな国土を創りたいというのが、菩薩の願である。

 菩薩の願は、いわば「心に花を」といった個人的な精神論にとどまらず、「この世を花園に」という大きなスケールの具体的な目標も含んでいる。含んでいるというより、心の美しさと国土の美しさは表裏一体のことと捉えられていると理解していいだろう。

 この「心も国土も花園のように」という願は、「人間なんてそんなものじゃない」とか「現実はそんなものじゃない」と思い込んでいる現実主義者には、きれいごとにすぎないと見えるだろうし、きれいごとと言えばある種きれいごとかもしれない。しかし、こんなにきれいなきれいごとはないのではないかと思う。

 そして、確かにこれは現状の現実ではないが、未来に実現すべき「未来の現実」のヴィジョンなのである。それが実際に可能になるには、第九願にあったように、すべての人が覚れると定まり、第一から第六までに語られた六波羅蜜を実践し、分別知・無明から解放される必要がある。

 その場合、「この世が花園だといいな。ユートピアだといいな(誰かにやってほしい)。」と思っているだけでは菩薩とは言えない。菩薩は、いわば先駆者として自ら無明からの解放すなわち覚り・菩提を追求しつつ同時に命がけで仏国土を実現しようとする。

 目指すところは、下手をすれば軟弱なきれいごとに見えかねない。あるいは不可能な理想だとも取られかねない。しかしその理想の実現に向かって、命がけで渾身の努力・雄々しい努力をする。それが菩薩なのだ、と。

 こうした大乗の菩薩論は、単なる個人の精神論ではなく、人々の先駆者・リーダーの心・志のあるべきかたちを語った精神論なのだ、と筆者は理解している。

 

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般若経典のエッセンスを語る38――不幸な場所をすべてなくす

2021年10月11日 | 仏教・宗教

 八番目は「離三悪趣苦の願」で、すべての生き物・人々を三つの悪い・不幸な生存形態から離れさせたいという願である。

 

 ……菩薩大士が……もろもろの有情が三つの悪い生存形態、一には地獄、二には畜生、三には餓鬼の世界に堕ちているのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中には地獄・畜生・餓鬼の世界がなく、またそういう三つの悪い生存形態の名前さえなく、一切の有情が良い生存形態に包み取られるようにしよう」と。……

 

 神話的な仏教の世界観では、今生で善業を積まず悪業を重ねていると、人間界でもより悪い状態に生まれ変わり、悪業が重いとより下の生存形態に堕ちることになっていて、最悪がすべて苦しみの世界である地獄、それから何を食べてもしても満足のできない餓鬼、性欲と食欲のことしか考えられない畜生、絶えず争い傷つけあっている修羅・阿修羅である。そのうちの阿修羅を除いた特に悪いところを「三悪趣」または「三悪道」という。

 菩薩は、人々が悪業の結果・報いとして三つの悪い生存形態に堕ちて苦しんでいるのを見た時、いわば「自業自得だ」「私には関係ない」というふうに他人事と見て放置することはしない・できない。

 人々はほんとうは自分と一体なので、自分のこととして、「我が仏国土の中には地獄・畜生・餓鬼の世界がなく、またそういう三つの悪い生存形態の名前さえなく、一切の有情が良い生存形態に包み取られるようにしよう」と懸命の努力をするのだという。

 「良い生存形態」とは、人間界の中のいい所と、天界と、そこから上の世界のことで、つまり衆生すべてが三つの悪い生存形態から離脱して極楽・天国・ユートピアのようなところで暮らせるよう、渾身の力を込めて身命を顧みず努力する。

 それだけでなく、菩薩が建設する仏国土には、地獄・餓鬼・畜生という生存形態がまったくなく、したがってその名前さえないようにするのだという。

 そうすることで、菩薩大士はこの上なく正しい覚りに限りなく接近するのだ、と言われている。

 第一願以下すべて最後のところに「是の菩薩・摩訶薩は此の〇〇波羅蜜多に由りて速に円満するを得て無上正等菩提に隣近(りんごん)す」とある。決して到達するのではなく、「接近する」のである。

 つまり、覚りきって、苦しみに満ちた六道・六種類の生存形態から自分だけが解脱・脱出してしまわない。そこにとどまって衆生救済の働きをし続ける、それが大乗の菩薩大士なのだという。

 

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『サングラハ』第179号が出ました

2021年10月10日 | 広報

*『サングラハ』読者のみなさん、最新の第179号が出ました。発送済ですので、間もなくお手元に届くと思います。ご愛読ください。

 

   目 次

■近況と所感  …………………………………………………………………… 2

■「典座教訓」講義 (2) ……………………………………………岡野守也… 4

■コスモロジー心理学各論 (6) ……………………………………岡野守也…15

■痴呆、認知症そして老耄(認知障)(11)  ……………………大井玄…… 20

■仏弟子たちのことば (11) ………………………………………羽矢辰夫… 27

■『インテグラル心理学』を手にして (2) ………………………増田満…… 29

■国際比較で見る日本のコスモロジー崩壊 (7) …………………三谷真介…38

■講座・研究所案内……………………………………………………………… 50

■私の名詩選 (78) 西行の秋の歌……………………………………………… 52

 

*購読の問合せ、申込みは研究所HPのフォームでどうぞ。

 

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10〜12月の講座予定のご案内

2021年09月17日 | 広報

サングラハ教育・心理研究所 講座関係者のみなさん

 

やや秋めいてきました。寒いくらいのところもあるようです。いかがお過ごしですか。

 日本も世界も状況は流動的ですが、私たちは静かで動かされない心を保ちたいものですね。

 

 10月〜12月の講座日程が決まりました。すべてZoomによるリモート講座です。

 タイトルがまだ仮のものもありますが、早めにご予定に入れていただくため、お知らせします。

 

  • 土曜講座「『仁王般若経』全講義』続

 2カ月に1回4時間集中を、今後は毎月1回2時間に変更します。

 すでに決まっていた11月6日1日を10月9日と11月6日に分け、時間も14:00〜16:00とします

 すでにお申込み済の方は受講料のお支払いが11月6日分で終わっていますので、追加の必要はありません

 

*なお、プログラムは未定ですが、次の土曜講座は12月4日です。継続参加の方は予定に入れておいていただけると幸いです。

 

  • 水曜講座「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間」続

 日時:10月20日、11月17日、12月15日(3回)。

 時間:19:30―21:00。

 参加費:一般7千5百円、年金・非正規・専業主婦6千円、学生は3千円。

 

  • 日曜講座「唯識心理学入門――日常生活にどう活かすか」(仮題)

 日時:10月24日、11月28日、12月19日(3回)。

 時間:13:30―16:30。

 参加費:一般1万5百円、年金・非正規・専業主婦7千5百円、学生3千円。

 

 引き続きご一緒に学びを進めていけると幸いです。

 

 

            サングラハ教育・心理研究所 岡野守也

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リモート講座「コスモロジーセラピー入門」案内

2021年09月13日 | 広報

     バラ星雲

 

 しばらくお休みしていたコスモロジーセラピーの講座を久しぶりに行ないます。

 「居場所」という言葉がありますが、私たちのもっとも広い居場所は宇宙です。

 そして、誰もが宇宙の中に生きているので、ほんとうには居場所のない人などこの世には一人もいません。

 そのことに気づいていないと、「自分には居場所がない」「ひとりぽっちだ」という気がしてきますが、宇宙が居場所だと気づくと、もうそういう気持ちはなくなってしまいます。

 そんな大きな話で気持ちが楽になるのだろうかと疑問に思う方もいるかもしれません。

 でも、その大きな話が自分のことだと実感できれば、心がとても広く爽やかですっかり楽になるのです。

 コスモロジーセラピーは、「宇宙という大きな話が実は私の話なんだ」と実感するためのプログラムです。

 知識的な内容のかなりの部分は本ブログに公表していますが、読むのとライブのセラピーとでは実感が大きく違います。

 今回は、初めてのリモート講座で、主催者にとっても新しい試みですが、対面に近い効果があるにちがいないと予想しています。

 参加者のみなさんも、半信半疑でもかまいません。試しに参加してみませんか。

 

 日時:9月26日(日)13:30〜16:30(休憩を入れて3時間)

 講師:サングラハ教育・心理研究所主幹 岡野守也

 費用:一般3千5百円、学生1千円

 場所:zoom使用

 *お申込みはサングラハ教育・心理研究所のHPのフォームでどうぞ。

 

 

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般若経典のエッセンスを語る37ーすべての人が覚れるように

2021年08月30日 | 仏教・宗教

 

 第七願は六波羅蜜についてのまとめともいうべき願で、「必得正定聚の願」という。「すべての人々を必ず覚れると定まった種類の人にしよう」というのである。

 

   ……菩薩大士がつぶさに六波羅蜜多を修行していて、諸々の有情に三種類の差別があり、一は覚れないと定まっている人々、二は覚れると定まっている人々、三にはどちらとも定まっていない人々があることを見たならば……「我が仏国土の中には覚れないと定まった人々およびどちらとも定まっていない人々の名前さえなく、すべての有情が必ず覚れると定まった人々であれるようにしよう」と。

 スブーティよ、この菩薩大士は、このような六種類の波羅蜜多によって速やかに完成することができ、この上なく正しい覚りにかぎりなく接近するのである。

 

 大乗以前の仏教では、人間には生まれつき覚れないと決まった人、どちらとも決まっていない人、必ず覚れると決まった人という、決定的な資質の差があると考えられていた。

 それは、人間の有り様の表面を見ていると、確かにそうだと感じられる。どうしようもない(ように見える)人、ふらふらしていた方向の定まらない人が少なくない。そうした表面だけを見て、「それはそういうものなので、もう仕方のないことだ」と人間に関してあきらめてしまっている人も多いだろう。

 それに対して、どこまでもあきらめてしまわないのが大乗・般若経典である。ここでは、「誰でも六波羅蜜を実践すれば必ず覚れるのだから、そうだとしたら誰もが六波羅蜜を実践できるように・したくなるようにしたい。その結果として、すべての人が必ず覚れるようにしたい」という願が語られている。

 大乗仏教の菩薩は、まず自らが六波羅蜜を心を込めて実践しながら、自分だけの覚りにとどまず、特定の宗教的な資質に恵まれた自分たちだけの覚りにもとどまらず、自分も含めてすべての人、すべての生きとし生けるものの覚りを、どこまでも追求するのである。

 それは、ただあきらめが悪いからでも、しつこい性格だからでも、粘り強いからでもなく、修行のスタートから、「自分と自分以外のもの(者も物も)が区別はあっても根源的にはつながって一つの存在だ」と捉えているからである。

 「自分(たち)だけの覚り」がありうると思うのは、宗教的ではあっても一種の分別知であり、無分別智とはまるで違うものである。そもそもすべてのものとの一体性を目指すのでなければ、大乗の覚りに向かう修行とは言えないのである。

 

*今回から内容がわかるようにサブタイトルを付けることにしました。過去の記事にも徐々に付けていけるといいと思っています。

 

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般若経典のエッセンスを語る36ー正しい智慧が完成するように

2021年08月25日 | 仏教・宗教

 第六願は六波羅蜜の第六「智慧」に関する願、「正慧成就の願」で、「正しい智慧が完成する」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が般若波羅蜜多を修行していて、もろもろの有情が愚かで悪知恵があり、世間的と超世間的な正しい見方をどちらも失っており、善悪の業と業の結果を無視し、死ねばすべては終わりとこだわり、永遠に存在するものがあるとこだわり、実体的一体性にこだわり、分離した多様性にこだわり……種々の誤った見方があるのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはこのような悪知恵がありまちがった見方に執着するような有情たちがおらず、すべての有情に正しい見方と種々のすばらしい智慧を成就させ、三種類の神通力(過去世を知り、未来世を知り、煩悩を尽くす)を具えさせよう」と。……

 

 すでに述べてきたように仏教では、ふつうの人間の知恵はすべてを分離独立した実体だとする錯覚・無明をベースにした「分別知」であって、ほんとうの正しい智慧とはまるで逆のものであり、それに対して正しい智慧とはすべてをつながって一つと捉える「無分別智」だ、と考えられている。

 すべてがつながって一つということが世界のほんとうの姿であり、それに目覚めることが智慧なのならば、智慧から生まれる人間と人間の関係はいうまでもなく平和であり相互扶助・互恵であり、人間と人間以外の自然の関係は調和である。

 ところが、人類は言葉によって文明を築き、築く過程で多くの戦争を行ない(いまだに行なっている)、人間以外の自然・環境を破壊し続けてきたのではないだろうか。

 だから、分別知がどれほど多く巧妙であっても、それは根本的には「愚かさ・愚癡」であり「悪知恵・惡慧」だ、と仏教は言う。これは、言葉による分別知で文明を築いてきた人間の営みに対する根源的な批判だといってもいいかもしれない。

 けれども、仏教のふつうの人間に対する姿勢は、批判・非難・否定というよりは、医者が病人に対するように悪い病気は病気として厳しく指摘するが、それは病人・人間そのものを悪いものとして断罪するためではなく、治療の前提としての診断である。診断に基づいて治療が行なわれると、病人は人間でなくなるのではなく健康な人になるのである。

 もろもろの有情・すべての人が智慧の心を得て、健康あるいは超健康になることができれば、人間同士の持続する平和と人間と自然の持続可能な調和が実現できるだろう。

 逆に言えば、人類の知恵が基本的に分別知であるかぎり、人間同士の争いと自然との不調和は終わらないだろう。

 では、仏教は人間の心の病・愚癡・無明をどのように診断しているのだろうか。般若経典に先立つ部派仏教のアビダルマでも般若経典に続く唯識学でも無明・煩悩の詳細な解明がなされているが、この個所では、ごくポイントだけが述べられている。

 自我を実体視し中心視すると、ごく常識的・世間的・社会的な意味でもものごとを曲げて見るようになりがちである。もちろん、自我が実体ではなく世界の中心でもなく、かつ世界とつながって一つであるという世間の常識を超えた見方などまったくできない。

 自分が他者や世界と分離独立した実体だと錯覚すると、さらに善であれ悪であれ自分が何をしようと「関係ない」「自分は自分であって影響を受けることはないし変わることはない」という錯覚が重なって起こる。

 しかし、実は自分も他もつながっていて(縁起)変化する(無常)ものなので、自分の行為は必ず他に影響を与えるし、自分自身にも影響を与える。善い行為は自他に善い影響・結果をもたらし、悪い行為は自他に悪い影響・結果をもたらすのである。

 自分を他とまったく分離した身体的存在だと錯覚すると、そもそも自分のいのちが先祖から私そして子孫へとつながったものであり、また他のさまざまないのち(植物や動物)とのつながりによって維持されているものであり、いのちといのちでないものはつながって一つの宇宙・大自然であって、絶えず関わり合いながらいのちになったりいのちではないかたちになったりという変化をしていることがまったく見えず、「自分が死ねばすべては終わりだ」と思い込むことになるか、それではあまりにも空しいので、霊魂のような実体で永遠に存在するものがあると信じ込みたくなる。

 前者を「断見(だんけん)」といい、後者を「常見(じょうけん)」といって、仏教では身体であれ霊魂であれ実体があると思い込むのは、誤ったものの見方・「悪見(あっけん)」であるとしている。

 断見は、現代的に言えばエゴイズムを元にしたニヒリズムであり、常見は原理主義的な宗教に見られるような自分たちの信じるものだけを永遠視し絶対に正しいとする排他性を生み出すという意味で、これからの人類全体の平和にとっては有害無益なものの見方だ、と筆者も考える。

 さらに、すべてのもの・全体が一体(一如)だとはいっても、それは固定的な実体的一体性ではなく、分離はしていないが区別はできるそれぞれの多様な部分が関わり合いながら(縁起)、絶えず変化していく(無常)、いわばダイナミックな宇宙的なプロセスとして一体なのである。

 したがって、一体(一)とはいっても多様性(異)を含んでいるし、多様性も分離独立したばらばらの実体が多様にあるということではなく、一体性に含まれ包まれた多様性である。

 どちらにしても、一体性を実体視することも多様性を実体視することも誤ったものの見方であり、仏国土を創るにはふさわしくないものの見方だという。

 それは、以下見ていくとはっきりするように、仏国土は、仏という独裁者が統一・統治する全体主義国家でもなければ、人々が自分の好き勝手に生き、幸不幸や生き死にはすべて自己責任と運であるという個人主義的・自由主義国家でもないということでもあるだろう。

 そうした一体性と多様性が調和した仏国土を創るには、人々がみな過去のことを深く正確に知り、未来のあるべき姿をも深く正確に知っている必要があるし、そのためには自分(たち)を実体視・中心視することと、そこから生まれる自他を悩ませるような心のあり方から解放されていなければならないというのである。

 般若経典には、これまで人類が一度も創り出すことのできなかった、最高に平和と調和に満ちた国そして世界を創るための基本的なまさに智慧・般若が語られている、と筆者は読み取っている。

 

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般若経典のエッセンスを語る35ー禅定が完成するように

2021年08月21日 | 仏教・宗教

 第五願は六波羅蜜の第五「禅定」に関する願、「禅定成就遠離諸蓋散動」で、「禅定が完成しもろもろの心の乱れ・煩悩から遠ざかることができる」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が禅定波羅蜜多を修行していて、もろもろの衆生が貪り、怒り、落ち込み、放心、はしゃぎ、後悔、疑いに覆われ、気づきを失い、気ままで、四種類の禅定、四種類の無量の禅定、四種類の物質性を超えた禅定さえ修行することができず、まして世間を超えた禅定を修得することなどできないことを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはそうした煩悩に心を動かされるような有情たちがおらず、すべての有情が自由自在にもろもろの禅定、無量の禅定、物質性を超えた禅定などに遊ぶことができるようにしよう」と。……

 

 仏教では、過剰な欲望や怒りや憎しみなどのネガティヴな心の働きを「煩悩」と呼んでおり、「蓋(がい)」はその別名である。そして、すべての煩悩の源泉は「無明」にあると捉えている。「無明」とは、自分や世界のほんとうの姿が見えていない・明らかでないということである。

 では、なぜふつうの人間(凡夫)は無明という心の状態にあるのか。すでに述べたことを簡単に繰り返すと、人間は言葉とりわけ名詞を使って自分や世界を認識するために、すべてのものが分離独立した実体(我)に見えてしまうのだった。そういう人間の無明の認識の仕方をすべてのものを分け別れたものとして知るという意味で「分別知」というのだった。

 特に自分を実体だと錯覚してしまうと、実体である自分はすべての中心であり絶対に維持すべきものだと思えてきて過剰な執着が起こる。つまりエゴイズムが生まれるのであり、エゴイズムからさまざまな煩悩が生まれる。

 逆の順で言うと、さまざまな煩悩はエゴイズム・自我の中心視から、自我の中心視は自我の実体視から、自我の実体視は分別知・無明から生まれるのであった。

 その分別知・無明を解決するには、分別知を超えた智慧を得る必要があり、智慧を得るための方法のもっとも重要なものが「禅定」なのである。

「禅定」とは、まずサンスクリット原語の「ディヤーナ」を音で写した「禅那」という漢訳語があって、その前半「禅」に精神集中という意味の漢字「定」を足して中国で作られた用語で、大まかに言っておけば精神集中・瞑想のことである。

 ふつうの人間は、ふだん心の中で言葉をめぐらしていろいろなことを考えている。それは、言葉とりわけ名詞で多様なことすべてを分別しているということであり、結局無明の心の働きである。

 そうした無明・分別知を超えるには、まずいろいろなことを考え・分別するのをやめて、心の中の言葉を沈黙させて、一つのことに集中する。瞑想法としてはいろいろなものがあるが、典型的には呼吸に集中するのである。ひたすら呼吸に意識を集中していると、いわゆる「一心」になる。そして、一心が深まるといろいろなことをまったく考えていない・分別していないという意味で「無心」に到る。「無心」は言い換えると「無分別」であり、徹底的な無心・無分別はすべてが空・一如であるという「智慧=無分別智」に到達する。

 智慧・無分別智に到ると、無明は超えられ、自我の実体視・中心視は超えられ、煩悩は根本から解消されるのである(実際の修行のプロセスは紆余曲折や行ったり来たりがあって、こんなにシンプルではないが、大筋だけ言えばこうなる)。

 つまり、人間同士が貪り合い、憎み合い、争い合うという煩悩から根本的に解放されるためには、無明・分別知を乗り越える必要があり、分別知を乗り越えるには無分別智に到る必要があり、無分別智に到るにはその方法としての禅定を実践することが必要なのである。無分別智に到ると、すべてのもの(者・物)が一体・一如であると覚られて、そこから自然に慈悲が生まれるのだという。

 禅定の意味や種類について詳しくは後の章で述べるが、「もし私たちがほんとうに人と人とが慈しみ合う美しい世界・仏国土を創り出したいのなら、すべての人が禅定を実践しなければならない」と『大般若経』は言っていると筆者は理解する。

 それは、現代の私たちにとっては先に述べたような「条件付きのねばならない」であって、「強制的な・無条件のねばならない」であると取る必要はないかもしれない。

 しかし、今人類社会は争い合いながら衰退そして滅亡へと向かうか、合意と平和によって人類の総力をあげて問題に立ち向かい、生き延びる、つまり持続可能な世界秩序を創り上げるかという岐路に立っているのではないだろうか。

 (これは、大げさな状況判断ではないと筆者は思っているが、読者はどう考えられるだろう。)

 もしそうだとしたら、生き延びたいと願う者にとっては、禅定はまず自分から始めてやがてすべての人がしなければならない・必須のことだと言えるのではないだろうか。

 そして、マインドフルネス瞑想などの世界的流行は、その先駆け的現象なのかもしれない、と筆者は思っている。

 

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