般若経典のエッセンスを語る45 ――すべての人が真理を学び覚る世界にしたい

2022年10月31日 | 仏教・宗教

 第二十六願は「楽無上大乗(ぎょうむじょうだいじょう)の願」という。

 自分だけでなくすべての人、そして人だけでなく生きとし生けるものすべての救いを目指す人々を「菩薩大士」といい、そうした菩薩の集まりを「大乗」という。「楽」は「らく」ではなく「ぎょう」と読み「望む」という意味である。菩薩は自分だけでなくすべての人が大乗仏教を望み志すようにしてあげたい、と願うのである。

 第二十七願は「遠離増上漫結(おんりぞうじょうまんけつ)の願」である。

 ところが、少し修行し特殊な体験をしたからからといって、究極の覚りに到っていないのに到ったと思い込み、途中でいい気になることを「増上慢」という。「結」は思い込み・煩悩といった意味で、自分にも他者にもさまざまな問題をもたらす。しかし、いわゆる教祖や高僧には、そうした増上慢の人が少なくないように筆者には見えて、きわめて困ったものだと思う。菩薩は自らはもちろん、他の修行者たち、他の人々がそうした増上慢に陥らないようにと願うのである。

 それから、第二十八願は「遠離執着(おんりしゅうちゃく)の願」で、宇宙は無常であってダイナミックに変化していくものだから、特定の状態が変化しないようにと執着をしてもそれは不可能であり、執着すればするほどかえって苦しみ悩むだけだから、そうした無益な執着から離れさせたい、と。

 第二十九願は「光明寿命弟子数無量(こうみょうじゅみょうでしむりょう)の願」で、寿命が長く光り輝くような仏の弟子が数限りなく生まれてほしい、というか、いわば人類すべてが仏の弟子になって、光り輝くような人生をいつまでも送ってほしい、という願である。

 そして第三十願は「仏土周円無量(ぶつどしゅうえんむりょう)の願」という。

 仏国土とは現代的にいえば全宇宙であるから、ほんとうは無限なのである。にもかかわらず、現象としてここからここまでが仏教国であるというふうに、広がりに限界があるのを見たら、菩薩は「全世界のガンジス川の砂のような数の大千世界を一つの国土にし、私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と誓願するのである。

 大千世界とは一つの宇宙である。これが一体で、全世界のガンジス川の砂の数のように無限であって、「私がその中にいて説法し無量・無数の有情を教化しよう」と。全世界が一つになって、無限の世界の中で、数限りない衆生がすべて仏教を学んでいく。それはけっして特定宗教としての仏教の信奉者になるということではなく、すべてがつながって一つという縁起の理法、空・一如、智慧、そこから当然出てくる慈悲、といった真理の教えをすべての人が学んでいるという世界にしたい、と。これが菩薩の誓願の最後の一つ前である。

 そして最後の第三十一願は、「生死解脱(しょうじげだつ)の願」である。

 神話的な仏教の世界観では、私たちは六道を生死輪廻することになっていて、それは果てしなく続く。しかもそこを輪廻する有情の数は数限りない。数限りない有情が妄想・無明によって悩み苦しみながら悩ませ苦しませ合いながら果てしなく輪廻している。その姿を見た時、「もろもろの有情のために最高の真理の教えを説いて生死輪廻のはなはだしい苦しみから解脱させ、また生死解脱についてすべて実体性がなくみな結局は空であるという覚りの認識を得させよう」という願である。

 覚ってしまうと、もはや輪廻の苦しみから解放されてしまうどころか、菩薩は、衆生がいる限り、「私は衆生のために願って輪廻する」ということになる。すべての人を「ああ、私と宇宙とは一体なのだ」と覚らせてあげたい、と。

 菩薩はもう輪廻しなくてもいいところまで行っているのである。まさに「無上正等菩提に隣近」しているというか、境地としてはほぼ完全な覚り・涅槃の世界に行っているのだが、行ってしまってもう輪廻しないということでは輪廻の世界・六道で苦しんでいる衆生を救えないので、あえて輪廻の世界に戻ってきて、衆生を救うのだという。

 大乗仏教ではカルマによって生まれた生命・体を「業生身(ごっしょうしん)」という。悪いカルマだけでなく、いいカルマで天界に生まれても業生身である。業生身であるかぎりは、輪廻の苦しみを繰り返すことになっている。

 それに対して、菩薩はもはや輪廻しない境地に達しているのだが、あえて輪廻を買って出る。そうした「衆生を救いたい」という願であえて生まれてくる生命・体を「願生身(がんしょうしん)」という。

 私たちは当面、業生身である。しかしその私たちの中に菩薩の誓願が根付いたら、もう菩薩大士、または「大士」のほうはつかないとしてもとりあえず「菩薩」である。菩薩の非常にレベルが高いものを「菩薩大士・菩薩摩訶薩」といい、一方、入り口の菩薩は「凡夫の菩薩」という。たとえ凡夫の菩薩であっても願が確立したら、そこで私たちの身体そのものが願生身に変わり始めるといってもいいだろう。

 業生身としての身体で生きていると、「めんどくさい」「疲れた」「いやになった」「もっとうまいものが食いたい」「もっと楽な気持ちのいいところに暮らしたい」などと、私たちはいろいろ輪廻の元になるカルマを重ねることになるが、「どこにいようと、何をしようと、私はこの願を実行したい。そのために私はこの世に生きている」というふうに願が確立したら、願生身になる。

 私たちはなかなかそこまで行けないとしても、このきわめて高いいわば金メダル級の理想を、人生における自己成長の究極の目標にして努力することはできるのではないだろうか。

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般若経典のエッセンスを語る44――エコロジカルに持続可能な福祉世界の構想

2022年10月29日 | 仏教・宗教

 続いて、残り第三十一願まで大まかに見ていこう。

 第十八願は「得五神通慧(とくごじんずうえ)の願」といい、すべての衆生が五種類の神通力を得られるようにという願である。

 第一は「天眼通(てんげんつう)」といって、天界や地獄など死後の世界を見通す力、第二は「天耳通(てんにつう)」で、あらゆる言語・音声を聞くことのできる力、第三は「他心通(たしんつう)」で、他者の心の様子をしる力、第四は「宿命通(しゅくみょうつう)」で、前世のことを知る力、第五は「如意通(にょいつう)」(または神足通)で、意のままに飛行したり居場所を変えたりする力で、つまりすべての人に超人的な能力を具えさせたいというのである。

 面白いのは第十九願で、「無種々大小便穢(むしゅじゅだいしょうべんえ)の願」という。古代インドのことだから、トイレや下水道など大小便の衛生的処理の施設が整っておらず、家や村や町がとても汚く臭かったのだろう。そういうことがないようにしたいというのである。

 「菩薩の誓願」という言葉の印象では、何かとても高尚な目標だけが掲げられているのかと思われがちだが、こうした日常的な衛生のこともあげられており、菩薩の衆生への思いがきわめて具体的な生活の向上にも向けられていることがわかる。

 第二十願は「光明具足身(こうみょうぐそくしん)の願」で、いろいろな照明器具などなくても、すべての人が存在しているだけで光り輝いているようにしてやりたいというのである。

 これは、物理的に考えると超自然的エネルギーで体が輝いて余計な電力などいらないという夢のような話だが、むしろ特殊な優れた人だけでなくすべての人をオーラが輝いて見えるような存在にしたいということだろう。

 第二十一願は「無昼夜時節変易(むちゅうやじせつへんえき)の願」といい、昼と夜や季節が変化することがないようにしようという。

 昼と夜が同じようになるというのはあまりぴんと来ないが、季節についていえば、インドは雨季と乾季があって季節の変化が厳しいので、そういうことがなくいつも穏やかにという思いがあってこうした願が立てられたのだろう。

 しかし、日本のように四季折々が美しい国では、菩薩の誓願であってもこれは遠慮したいという気がする。気候変動のためいまや四季が二季になりつつあるが、かつてのように四季が豊かに穏やかに巡るようになってほしいというのは切実な願いである。季節が穏やかにしっかりと巡るようにというのが、現代の菩薩の願ではないだろうか。

 第二十二願は「寿命無量(じゅみょうむりょう)の願」で、すべての人が長生きできるようにしたいというのである。

 しかし、幸せで長生きをするのでなく、不幸で長生きをしたのでは、苦しみが長いだけである。日本はこのままでいくと、お年寄りにとって長生きしたくない国になってしまいそうである。筆者も、これからどんどん下り坂になる日本で歳は取りたくないなと思う。そうではなく、子どもの福祉も老人の福祉も実現し、歳をとっても百歳を超えても幸せという国にしたいものである。

 そして、「誰かにそうしてもらいたい」と思っているのは凡夫で、「私は渾身の努力をして命・体を一切惜しまず、そういう国にしよう」と願い誓うのが菩薩である。

 第二十三願は「相好具足(そうごうぐそく)の願」である。「相好を崩す」という言葉や、「三十二相八十種好」という仏の身体的特徴を表わす言葉があるように、誰もが顔かたちがいつもとてもすばらしいというふうにしたいというのである。

 第二十四願は「善根具足成就(ぜんこんぐそくじょうじゅ)の願」である。私たちの心の中の善を行おうという根本的な構えのことを「善根」といい、それがしっかりと備わるとやがて菩薩にもなれブッダにもなれるのが人間であるが、善根がなければそのスタートを切ることもできない。だから、すべての衆生に「いいことをしよう」「覚りに近づきたい」「覚りたい」という根本的な気持ちを持たせたいという願である。

 それから第二十五願は「無身心病の願」で、「体と心の病が人々にあるのを見たならば、そのすべてを癒してあげたい」と思うのが菩薩だという。

 すなわち、菩薩の願の中には現代的に言えば医療福祉、そして福祉国家の構想がしっかり確立されている。驚くべきことである。

 こうして菩薩の誓願をずっと見てくると、すでに紀元一世紀頃に、空・一如、すなわちすべてのものの一体性という根源的な思想に根拠づけられた、いわば「エコロジカルに持続可能な福祉国家-福祉世界」の構想が成り立っていたといってまちがいない、と筆者には思えてくるのである。

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般若経典のエッセンスを語る43――すべての生命種の差別をなくす

2022年10月28日 | 仏教・宗教

*諸般の事情で長い間中断していましたが、また少しずつでも「般若経典のエッセンスを語る」の続きを書いていくことにしました。

 

 第十六願は「無諸趣差別並六道名字(むしょしゅさべつならびにろくどうみょうじ)の願」という。「諸趣」とは、天・人間・阿修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの生存形態すなわち「六道」のことで、菩薩は天界から地獄まですべての違い・差別をなしてしまい、六道という名称さえなくすことを願とするのだという。これもまた大変な願である。

 第十七願は「無四生差別(むししょうさべつ)の願」で、差別をなくすというのは、人間だけの話ではない。仏教では「四生」といって、生まれ方によって生命の種類を四つに分けている。卵で生まれるものが「卵生」、母胎から生まれるものが「胎生」、それから当時は科学が発達していないから、湿気から湧いて出るように見えたボウフラなどは「湿生」という。それから愛着や性別なしに自然に、悪く言えばお化けのようフワッと出てくるのが「化生」である。

 菩薩は、生命にこうした四種類の差別があるのを見ると、「我が仏国土の中にはこうした四つの生まれによる差別がなく、すべての有情がおなじく自然に生まれられるようにしよう」と願い誓うのである。

 これはすべての生命が平等にという理想であって、つまり現代的にいえばすべての生命種が調和したエコロジカルに持続可能な世界を創出しようという願である。

 それに対し、日本の実情を言えば、例えばニホンカワウソは絶滅してしまったのだそうである。だいぶ前に絶滅していたらしかったが、もう何年も発見されないので、ようやく環境省が絶滅したと宣言したとのことである。

 例えば、ゲンゴロウはかつて日本中のどこの池にもいたごくありふれた虫だったのだが、いまや絶滅危惧種になっているという。メダカも絶滅危惧種である。花でいえば、例えばリンドウも絶滅危惧種である。こうした例はあげていくと数えきれないほどで、気づくと恐ろしいことである。人間だけが繁栄すると、他の生物たちは絶滅していくということなのだ。

 明治から戦後、特に七〇年以降の経済的繁栄(?)は、今や日本のエコシステムを完全に壊しつつあるのではないだろうか。それは世界全体も同じで、これは何としてでも何とかしなければならない事態だと筆者は考える。

 ともかくそうした事態は、般若経典つまり智慧の経典の目指すところとはまったく逆だし、人間と他の生命種をまるで別のものとして捉え、人間を中心だと考える分別知=無明から生み出されたものだといってまちがいない。

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『サングラハ』185号が出ました!

2022年10月02日 | 広報

 『サングラハ』185号が出ました。発送も終わっていますので、読者のみなさんのお手元には間もなく届くと思います。お待ちください。

 まだ読者でないみなさん、以下の「近況と所感」「目次」「編集後記」で推測していただけるような内容です、よろしければぜひご購読ください。お問い合わせ | サングラハ教育・心理研究所 (smgrh.gr.jp)

 

  近況と所感

 これまで体験したことのないほどの大型台風が多くの被害を出して日本列島を縦断した後、急に涼しくなりました。

 被害に遭われたみなさんに心からお見舞い申し上げ、一日も早い復旧-復興をお祈りいたします。

 当研究所の関係者のみなさんはいかがでしたか? いつも神仏・天地自然・ご先祖さまにみなさんのご無事をお祈りしています。

 筆者の住む香川県は自然災害がとても少ないところで、ニュースで知るかぎりでは、今回も少し強めの雨と風だけで済んだようで、我が家も何事もありませんでした。自分だけよければいいとはもちろん思っていませんが、とりあえず感謝すべきことかと思います。

 それにしても「気候変動」による気象の荒れはますます顕著になってきているようで、とても心配です。

           *

 そうした中、「気候変動などという大きなことに対して自分一人では何もできない」と考えてしまう方も少なくないでしょう。気持ちはよくわかります。筆者もふとそういう気持ちになりかかりますから。

 しかし、これまで学んできていただいた読者には、「そういう気持ち=過度に否定的な感情は、非合理的な考え(イラショナル・ビリーフ)から生まれている…んでしたね」と言いたいと思います。

 どこが非合理的か確認しましょう。その気持ちの裏に「自分一人で気候変動をどうにかしなければならない」という考えが潜んでいませんか? それはどう考えても無理・非合理的です。自分一人ではもちろんどうにかできません。

 気候変動は、自分一人のせいではなく、長い歴史をかけて人類全体が生み出したものですから、「人類全体でどうにかしなければならない」と言ったほうがやや正確・合理的ですし、もっと言えば「大きな被害やまして絶滅を避けたいのなら、人類全体で協力してどうにかしたほうがいい」ということなのではありませんか?

 そこでポイントは、「たいのなら」と「協力して」と「ほうがいい」というところではないかと思います。

 まず、人類全体が協力できなかったら、とてもとても残念ですが大きな被害やもしかすると絶滅も避けられないでしょう。それはきわめて論理的な結末です。

 しかしポジティヴに言い直すと、「人類全体が協力できたら、被害も絶滅も避けることができる」ということです。

 では、次は協力できるのかということですが、協力は無意識的にされることはほとんどなく意識的に合意することによって可能になるのではないでしょうか。

 言い方を替えると、協力という行動には合意という意識が必要だということです。

 協力できていないのは合意できていないからで、それは十分な共通意識=一体感が形成されていないからです。

 ポジティヴに言い直しましょう。「十分な共通意識=一体感が形成されれば合意が可能になり、協力が可能になり、協力が可能になったら人類の持続も可能になる」と。

 そうすると、「必須の出発点は共通意識に向けた人類の意識の変容だ」ということになると筆者は考えてきました。

 唯識的に言えば、「転識得智(てんじきとくち)」、特に自分や自分たちを実体視するマナ識からすべてのものの平等・一体性を実観(実感の誤植ではありません)する平等性智(びょうどうしょうち)への変容です。

 そして意識の変容は、残念ながら「いっせーのせ」と人類全体ですぐに一挙には起こらないもののようですから、「滅亡したくない」と本気で思った者から取り組むしかない、と思ってきました。

 しかしそれは、「自分一人でどうにかする・しなければならない・できる」ということではなく、「〔人類的合意と協力に向けて〕まず自分から始める」ということです。

 しかも、そうした意識の変容への取り組みはすでにかなり多くの人の中で起こっており、筆者一人がやっているわけではありません。当研究所に関わってくださっているみなさんも、そういう多くの人の一人です。

 大丈夫だと思いますが、「私一人が、サングラハで学んでも、瞑想しても、六波羅蜜を実践しても、世界は変わらないのではないか」とネガティヴ思考に陥りそうになったら、ぜひ「私が意識の変容に取り組んでいるのは、人類の意識変容の先駆者の一人だということであり、それが全体に広がったら、世界は変わりうる」とポジティヴ思考に取り換えてください。

 進化史上、絶滅の危機に瀕した時、きわめて短期間に種全体が合意して飛躍的に変容し生き延びることができたというケースが何度もあるとのことです。私たち人類もそうなったほうがいいですね。ぜひ、そうしましょう。

 以上、まるでコスモロジー心理学ミニレクチャーのようになりましたが、これが筆者の「近況と所感」です。

 

  目 次

■ 近況と所感……………………………………………………………………………… 2

■『正法眼蔵』「生死」巻講義 下 …………………………………………岡野守也… 4

■〈宗教〉に未来はない 増補再説…………………………………………岡野守也… 12

■ 縁起の理法からみたウイルスと私たち

――新型コロナパンデミックをめぐって……………………………………大井玄…… 24

■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(6)…増田満…… 35

■ 講座・研究所案内………………………………………………………………………… 50

■ 私の名詩選(84) 寒山詩一九三 ……………………………………………………… 52

 

  編集後記

 主幹の正法眼蔵「生死」講義は、短い巻でしたが、表現の簡潔さ・平易さ・率直さの中に一層、深さが感じられました。主幹のもう一つの記事は、新々宗教の問題に関し、過去記事を増補・再説しています。「未来はない」は単に批判・否定ではなく、新たな宇宙観と霊性に向けて超えるという、いまだ実現のめどが見えていない、しかし今こそ必要な建設的提案です。

 大井先生の論文は、目下の新型コロナ禍のようなウィルスのあり様にもまた、進化と縁起の理法が貫徹していることが示されています。

 増田さんによる『人新世の「資本論」』書評は、内面の視点の欠落を指摘して終えられています。確かに、この外面システムのみの代案は、私たちの内的意欲を喚起する力を持ちえないように見えます。

                            (編集担当)

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2022年10月〜12月の講座予定

2022年09月29日 | 広報

サングラハ教育・心理研究所リモート講座のお知らせ

 学びの秋になってきました。みなさん、いかがお過ごしですか。

以下の通り、10月〜12月の講座予定が決まりましたので、お知らせします。

ご一緒にさらに深めていきましょう。どうぞ、お申し込みください。

              サングラハ教育・心理研究所 岡野守也

 

【日曜講座】「無明と智慧の深層心理学――『唯識三十頌』を学ぶ」第三期

 人はなぜ死を恐れ、なぜ強欲になりがちで、なぜ戦争をし、なぜ自分の生きる基盤である自然を破壊するのか。大乗仏教の深層心理学・唯識は、すべてのものを分離独立したばらばらのものと見る見方・分別知・無明が心の奥底にまで固く固着していることが原因であることを、きわめて正確に指摘し、にもかかわらず人間は、無明を超えて、すべてがつながり合い(縁起)・一体(一如)であることを心の奥底まで覚る智慧に到ることも可能であると語っています。

 実際に戦争が起こり気候変動が進んでいる状況のなかで、多くの方々とその智慧を共有したく、改めて講座を設定しました。

 併せてやさしい瞑想法もお伝えしますので、知識だけにとどまらない深い学びをしていただけるでしょう。

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布

▼時間:13時半〜16時半

▼参加費:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円

10月30日 11月27日 12月25日(3回)

 

【水曜講座】「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間」シリーズ

 『正法眼蔵』を学ぶ長期シリーズです。

 今回は、死生観、世界観(コスモロジー)に続き、すべてが一体で善悪を超えているからこそ成り立つ善悪とは何か、道元独自の深い倫理観を語った「諸悪莫作」巻を取りあげます。

 やさしい瞑想の時間も含め、悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になるでしょう。

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布

▼時間:19時半〜21時

▼参加費:一般=7千5百円、会員=7千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=6千円

10月26日 11月16日 12月14日(3回)

 

【土曜講座】「般若波羅蜜=本当の智慧とは何か」第一期

 大乗仏教の入門・初級の知識があることを前提に、さらに掘り下げて学ぶ中・上級者向け講座です。

(*その点を予め了承の上であれば、初心者の受講も受け付けます)。

 前回シリーズで、大乗仏教の実践のスタンダードである六波羅蜜についてかなり深くまで学びました。

 その学びをふまえた上で、今回のシリーズでは、六波羅蜜の中でももっとも中核である智慧=般若波羅蜜に焦点を当て、『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)の書き下しテキスト――第一期は「習応品(しゅうおうほん)第三」――に沿って、唯識による解析を加えながら、さらにじっくりと学びを深めます。

 併せて瞑想・禅定波羅蜜の実習の時間ももちたいと思っています。

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布

▼時間:14時〜16時

▼参加費:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円

10月8日 11月12日 12月10日(3回)

 

☆各講座、学生割引参加費=3千円

 

○受講申込方法(各講座共通)

氏名、住所、性別、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記して、お問い合わせ | サングラハ教育・心理研究所 (smgrh.gr.jp) でお申込みください。

 

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『サングラハ』第184号「近況と所感」

2022年08月21日 | 広報

 少し遅れましたが、『サングラハ』第184号の「近況と所感」も掲載しておきます。 

 実際の暑さのピークはまだこれからです。八月は平年並みかそれ以上の暑さになりそうだと天気予報は言っています。
 日本中、記録的な大雨で被害が出ました。被害に遭われた方々に、心からお見舞いを申し上げます。
 その他、一つ一つ改めて書くのはやめておきますが、国内外で、いろいろ好ましくない出来事がこれでもかこれでもかと起こってきています。
 読者のみなさんは、ご無事・お元気でしょうか。いつも、みなさんのご無事・ご健康をお祈りしています。
           *
 筆者は、もともと瀬戸内海の生まれで、若い頃は暑さには比較的強く、夏は好きな季節だったのですが、最近はとても強いとは言えず、ここのところ毎年、夏が終わると、「何とかやっと生き延びた」という感じです。
 とはいっても、筆者が少年だった今から半世紀以上前の夏は、今ほど暑くなかったので、弱くなったと感じるのは、年齢のせいだけではないようです。こちらが暑さに弱くなっただけでなく、暑さのほうがあまりに強くなったということもあるのでしょう。
 禅の言葉に「寒時(かんじ)は闍梨(じゃり)を寒殺(かんさつ)し熱時(ねつじ)は闍梨を熱殺(ねっさつ)す」(『碧巌録』第四十三則)というのがあります。「闍梨」は「阿闍梨(あじゃり)」つまり僧の敬称で、ここでは話している相手のことです。「〔嫌がって不平を言っていないで〕寒い時には寒さに成り切り、暑い時には暑さに成り切りなさい。〔そうすれば、乗り切ることができる〕」といった意味で、確かにある程度まではそうだと思うのですが、しかし寒さも暑さも、度を超すと本当に死んでしまいかねません。
 近年の気候変動による暑さは、精神論だけでは対処しきれないところまできているようです。筆者も、最近はクーラーを付けて寝ています。過度な我慢はせず、適度で合理的な暑さ対策をしながら、この夏も乗り超えたいものです。
 夏もまた無常ですから、どんなに厳しくてもやがては必ず終わります。
           *
 暑さだけでなく、今起こっている山積みの問題もまた、無常です。「無常は仏法なり」(道元)。あらゆるものが変化するというのが宇宙の法則ですから、どんな問題もいつかは終わります。そして終わってみると、その問題は新しい解決へのプロセスだったことが見えてくるはずです。
 ただ、個人や集団や人類にとって不都合なことは、問題が終わって新しい解決が創発する前に個人のいのちが終わってしまったり、集団も壊滅状態になったり、人類の場合は、問題の終わりと一緒に人類も他の多くの生命種と同じ運命を辿って終わってしまうかもしれないということです。
 しかし、これまで何度もお伝えしてきましたし(「耳タコ」の方もおられるかもしれません⦅笑⦆)、後の記事「コスモロジー心理学各論8――全地球的な危機について」グローバルでも改めて書きましたが、「もし、破壊が次の創発の準備であり、死が次の誕生の準備だとすれば、根源的には宇宙には不条理はない、ということになります」。

 個人が、幸福な人生を送り穏やかな死を迎えようが、不幸な人生を送って悲惨な死を迎えようが、「生死は仏のおんいのち」です(今回と次回の連載記事「『正法眼蔵』「生死」巻講義、参照)。
 水曜講座で講義を始めた『正法眼蔵』「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」の言葉を先取り的に引用すると、「いったい誰が、いろいろな事が起こったり滅したりするのを、これは宇宙のことだ、これは宇宙のことではないと肯定したり否定したりすることに心を煩わせる必要があろう。たとえ思い悩んだり心を煩わせたりしても、宇宙のことでないことはない。宇宙でないものがあって起こさせた行為でも思いでもないのだから、ただまさに須弥山(しゅみせん)中の亡者どもが住む暗黒の洞窟の中でさまざまな生活があり、それもまたただ一体なる宇宙〔の働き〕だということなのである」と言われています。
 すべての出来事は一つのエネルギーとしての宇宙(一顆明珠)の働きであり、私の悩みもまた宇宙の働きであり、暗黒の洞窟のようなところで無明に囚われた人々がやっているトラブルだらけの生活(第一八二号「無明がある限り、死の怖れ、環境破壊、戦争もある」参照)もまた宇宙の働き以外のものではない、というのです。
 自分の都合という分別知でものごとを捉え感じてしまう未熟な修行者・凡夫の菩薩である私たちには、なかなかすぐには肚落ちしない言葉ですが、ただの凡夫のように「そうは思えない。それは理屈だ。それは理想論だ。私には無理だ」と反発したり尻込みしたりしないで、肚落ちさせるべく精進を続けていきましょう。
           *
 自分にとってあまり好都合ではない時代であっても、よく生き抜いてよく死ぬためのヒントになりそうな記事を、今回も掲載しました。お役に立てていただけると幸いです。
 変わらないご愛読を感謝します。

 

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『サングラハ』第183号「近況と所感」

2022年08月21日 | 広報

 『サングラハ』第183号の発行のお知らせの時、「近況と所感」を掲載するのを忘れていました。

 問題山積の時代にあって、心が折れないためのヒントになるかと思い、掲載することにしました。参考にしていただけると幸いです。

 

 爽やかだった季節が終わろうとしています。季節は確実に移っていきます。「無常は仏法なり」(道元)。
 皆さんはいかがお過ごしですか。お元気でしょうか。
 あまり元気の出るニュースのない昨今ですが、それでも生かされて生きている日々は貴重です。生きることが許されている間は、日常をしっかり丁寧に生きたいものです。
           *
 ウクライナのあまりにも厳しい状況のニュースが毎日のように報道されています。私のまわりには、そうしたつらいニュースにずっと触れて、ご自分もとてもつらくなってしまっている方たちも少なくないようです。
 そういう方たちが「共感疲労」という言葉を使われるのを聞いて、そういう言葉があることを初めて知りました。
 そして「なるほど、実にうまく表現した言葉だな。今そういう気持ちになっている人は多いんだな。それはそうだ」と妙に納得してしまいました。
           *
それどころか「共感うつ」と表現してもいいくらいになっている方もいるようです。そういう気持ちはよくわかります。共感性が高いというか高すぎる人はそうなりがちです。
           *
「鈍感力」という言葉もあって、いろいろな出来事に対してあまり強く感じないという気質の人もいるようです。
 それから、特に悪げがあるわけではなくごく庶民的に大きなことは自分には関係がないと思って無関心でいることができ、その結果いろいろなことにわりに平気でいられる人もかなり多いように見えます。
           *
 それに対して「HSP(Highly Sensitive Person,繊細すぎる人)」と呼ばれるタイプの気質の人は、ものごとを強く感じすぎて、生きるのがなかなか大変なようです(心理学者のエレイン・アーロンによれば人口の二〇パーセント
くらいいるとのこと)。
 筆者もそういう傾向がありましたし、今でもちょっと油断すると外部の状況に影響されてうつ気分になりそうです。
 しかし、幸い禅と論理療法を学んだおかげで、「共感うつ」にはならないですんでいます。
 すでに著書や講義で皆さんにお伝えしてきましたが、今回改めてポイントをお話ししておくといいと思いました。
           *
 かつて初めて論理療法を学んで「眼からウロコ」だったのは、「共感することと共感しすぎることは同じではない」ということでした。
 真面目な人には、「他人の不幸には共感すべきであり、共感して心が乱れるべきである」という思い込み(イラショナル・ビリーフ)がありがちだが、「不幸な人を見た時にするべきことは、その不幸を無くすか軽減するための行動であって、自分も共感しすぎて心が乱れて不幸になることではない」というのです。
「健全な市民にはもちろん適度な共感性は必要だが、共感しすぎて自分まで不幸になるのは、世界に不幸な人を一人増やすだけで、不幸を減らすことにはならない。あなたがすべきことは、不幸を少しでも減らす具体的な行動をす
ることであって、それができないのなら、そのことは忘れて、せめて自分が不幸になるのは避けるように」と。
 これだけでは、真面目すぎ、優しすぎ、共感性が過度に高い方には、すぐには納得しにくいかもしれません。
 でも、共感しすぎて疲れたりうつになったりするようでしたら、人間として適度な共感の範囲にとどまって、できる行動をすることのほうが有効性があるという理性的な考え方(ラショナル・ビリーフ)に変更することを検討してみていただくといいのではないか、と筆者は思っています(詳しくは拙著『いやな気分の整理学――論理療法入門』NHK生活人新書、P・A・ホーク/拙訳『きっと「うつ」は治る』PHP研究所、どちらも品切れですがネット等の古書で入手可)。
           *
もう一つ、『坐禅儀』では、冒頭で「大乗の菩薩は坐禅をする時にまずすべての生きとし生けるものを救いたいという大悲心を起こすように」と言っておきながら、そのすぐ後に「諸縁(しょえん)を放捨(ほうしゃ)し万事(ばんじ)を休息(きゅうそく)せよ(さまざまな関わり合いを忘れ去り、すべての俗事を休むように)」と言っていました(第一七六号「六波羅蜜を学ぶ⑹」参照)。
 それは、いったんすべてを忘れ休んで、心を静かにし心のエネルギーを取り戻して、それから衆生救済に取りかかるように、ということでした。慈悲は、過度の共感や同情ではなく、具体的な業・行為(カルマ)であり、それには大変なエネルギーが必要で、そのためには十分な休息も必要だということでしたね。
 ぜひ、この世(家庭や会社や日本や世界)のトラブルのことを一切忘れて深くやすらぐ時間を確保して、それからまた元気になって(根元である宇宙のエネルギー・気をもらって)、この世でしっかり働いて、最後は迷わず光の国
に帰れるといいですね。引き続きご一緒に精進しましょう。


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『サングラハ』第184号が出ました!

2022年08月01日 | 広報

 お待たせしました。『サングラハ』第184号が出ました。混迷の深まる時代をどう生き抜くかのヒントをが語られています。どうぞ、ご購読ください。

 

  目 次

■ 近況と所感…………………………………………………………………………………… 2

■『正法眼蔵』「生死」巻講義上………………………………………………岡野守也… 4

■ コスモロジー心理学各論8―全地球的(グローバル)な危機について…岡野守也… 19

■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(5) …増田満…… 28

■ 講座・研究所案内…………………………………………………………………………… 38

■ 私の名詩選(83) 寒山詩…………………………………………………………………… 40

 

 編集後記


 今号、普通には「心が折れる」世の現状に対する、いわば対処法の特集となっています。

 主幹による正法眼蔵「生死」の巻講義録が始まりました。覚りの眼には絶望などありえないことが納得できます。

 コスモロジー各論では、それに対応する外面の世界観においても、絶望は無用であることが明示されています。

 ぜひ、このカオスが新たな秩序の創発につながってほしいものです。

 羽矢先生の「仏弟子たちのことば」は著者都合により短期間休載となります。

 増田さんの書評では、脱成長コミュニズムの理想が紹介されています。対応する内面的変革がぜひ必要だと感じます。

                              (編集担当)

 

●購読の問合せ、申込みはサングラハ教育・心理研究所のフォームでどうぞ。

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『サングラハ』第183号が出ました!

2022年06月06日 | 広報

 『サングラハ』第183号が出ました。目次は以下のとおりです。

 

  目  次

 ■ 近況と所感 ……………………………………………………………………………… 2

 ■「典座教訓」講義(6) ……………………………………………………岡野守也… 4

 ■ コスモロジー心理学各論7

 ――宇宙は光、死は光の国への帰郷…………………………………………岡野守也… 16

 ■ 仏弟子たちのことば(15) ………………………………………………羽矢辰夫… 29

 ■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(4) …増田満… 31

 ■ 講座・研究所案内 ………………………………………………………………………… 38

 ■ 私の名詩選(82) 千家元麿「麥」……………………………………………………… 40

 

  編集後記

 今回の一八三号では、主幹の連載「典座教訓」講義が最終回となっています。道元禅師の語る、この結論部の慈しみある言葉は、まさに一体の心をもって、今すべき日常業務に取り組む姿勢というものが、一般的に作務という言葉で表現される分別知的な「真心」等と、似ていながら全くレベルの違う、修行の核心を行くものであったことを感じさせます。

 再開した主幹のコスモロジー各論は今回、現代科学の宇宙観(コスモロジー)から、私たちの死の意味がどのように転換するかについてです。哲人皇帝の遺した言葉は、内面的にも外面的にも、そここそが今後世界のコスモロジーが行きつく地点であることを明示していて、何よりその意味で感動的です。

 羽矢先生の「仏弟子たちのことば」では、何とも人間臭かったブッダの異母弟ナンダの自己変革が取り上げられています。

 増田さんの書評では、資本主義の根本問題を乗り越えるという新たな共有の思想が紹介されています。加えて著者が、コミュニズムの歴史的暗部をどのように考え、内的なスターリニズム克服にいかに道筋をつけているのかも注目されます。

                             (編集担当)

●購読のお問合せ・申込みは研究所HPのフォームでどうぞ。

 

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2022年7月〜9月の講座予定

2022年06月02日 | 広報

 戦争や環境破壊が止まりません。このままでは人類の近未来に希望を見出すことが難しい時代になっています。
 そのもっとも深い原因は、すべて――例えば「我々」と「やつら」、「人間」と「自然」――を分離したものと捉える人間の浅知恵=分別知にあると思われます。

 私たちは、これまでとは根本的に違うすべてがつながっており究極的には一つであると捉える本当の智慧(ちえ)を学ぶことによってのみ、未来に確かな希望を見出すことができるでしょう。

 当研究所は、今期も分別知を超える本当の智慧の探究をさらに持続します。

 講座はすべて遠隔(リモート)ですから、まさに遠隔地の方も参加できます。すでに北からも南からも多くの方が参加してくださっています。皆さんもぜひどうぞ。


 【日曜講座】「無明と智慧の深層心理学――『唯識三十頌』を学ぶ」第二期
 

 大乗仏教の深層心理学・唯識は、死の恐れ、強欲、戦争、自然破壊などの根本的原因が、すべてのものを分離独立したばらばらのものと見る見方・分別知・無明が心の奥底にまで固く固着していることであることを、きわめて正確に指摘しつつ、同時に人間は、無明を超えて、すべてがつながり合い(縁起)・一体(一如)であることを心の奥底まで覚る智慧に到ることも可能であると語っています。
 実際に気候変動が深刻化し、大きな戦争が起こっているという状況のなかで、多くの方々とその智慧を共有したく、改めて講座を設定しました。
 併せてやさしい瞑想法もお伝えしますので、知識だけにとどまらない深い学びをしていただけます。


 ▼講師:研究所主幹 

 ▼時間:13時半〜16時半

 ▼参加費:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円

 ▼テキスト:随時配布

 7月24日 8月28日 9月25日(3回)


 【水曜講座】「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間」シリーズ


 『正法眼蔵』を学ぶ長期シリーズ。今回は、前回までの道元の死生観が語ら
れた「生死」「全機」に続き、「全宇宙は一つの光り輝く玉である」という世界観が全面的に展開された「一顆明珠(いっかみょうじゅ)」巻です。

 参加者のみなさんには、やさしい瞑想の時間も含め、悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になっています。


 ▼講師:研究所主幹

 ▼時間:19時半〜21時

 ▼参加費:一般=7千5百円、会員=7千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=6千円

▼テキスト:随時配布

 7月20日 8月17日 9月21日(3回)


 【土曜講座】「深い気づきのメソッド――六波羅蜜を学ぶ」第三期

 大乗仏教の中・上級者向け講座。大乗の基本である空・中観と唯識を学び、煩悩とは何か覚りとは何かいちおうの理解ができると、次にではどうしたら覚れるのかという実践的な問いが起こるでしょう。

 「六波羅蜜の実践」が答えです。布施、忍辱、持戒、精進が終わり、第三期は禅定、智慧と進んでいきます。

 『大般若経』を中心に学びます(瞑想の実習もあります)。

 *第三期からの受講も可能です(途中参加の方は第一、二期をDVDで学べます)。

 ▼講師:研究所主幹・岡野守也

 ▼時間:14時〜16時

 ▼参加費:一般=1万5百円、会員=9千円、年金生活・非正規雇用・専業主婦=7千5百円

 ▼テキスト:随時送付

 7月9日 8月13日 9月10日(3回)


 ☆三講座とも会員割引を再開または新設☆各講座、学生は学割参加費=3千円

 ○受講問合・申込方法(各講座共通)
氏名、住所、性別、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記して、研究所HPのフォームでお問合せ・お申込みください。

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2022年4月〜6月の講座予定

2022年03月28日 | 広報

●有史以来人類は、根本的には無明である知恵・分別知で文明を発展させてきましたが、同時に多くの問題を生み出し続けています。

 戦争も環境破壊も無明が生み出したものだと考えてまちがいありません。

 今やこのままでは人類の近未来に希望を見出すことが難しい時代になっています。

 私たちは、これまでとは根本的に違う本当の智慧を学ぶことによってのみ、未来に確かな希望を見出すことができるでしょう。

 当研究所は今期も、分別知を超える智慧の探究を持続します。


 講座はすべてリモート・遠隔で、まさに遠隔地の方も参加していただけます。これまで参加が難しかった皆さん、ぜひご参加下さい。

 

 【日曜講座】「無明と智慧の深層心理学― ― 『唯識三十頌』を学ぶ」
                          第一期
 人はなぜ死を恐れ、なぜ強欲になりがちで、なぜ戦争をし、なぜ自分の生きる基盤である自然を破壊するのか。


 大乗仏教の深層心理学・唯識は、すべてのものを分離独立したばらばらのものと見る見方・分別知・無明が心の奥底にまで固く固着していることが原因であることを、きわめて正確に指摘し、にもかかわらず人間は、無明を超えて、すべてがつながり合い・一体であることを心の奥底まで覚る智慧に到ることも可能であると語っています。


 実際に大きな戦争が起こっているという状況のなかで、多くの方々とその智慧を共有したく、改めて講座を設定しました。

 併せてやさしい瞑想法もお伝えしますので、知識だけにとどまらない深い学びをしていただけるでしょう。


▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布▼時間:13時半〜16時半▼参加費:一般=1万5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=7千5百円、学生=3千円

 4月24日 5月22日 6月26日(3回)


 【水曜講座】「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間」シリーズ


 『正法眼蔵』を学ぶ長期シリーズです。今回は、前回の「生死(しょうじ)」の巻に続いて、道元禅師のきわめて深い死生観を本格的な文体で語った「全機(ぜんき)」の巻を選びました。


 やさしい瞑想の時間も含め、悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になっています。


▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布▼時間:19時半〜21時▼参加費:一般=7千5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=6千円、学
生=3千円


 4月20日 5月18日 6月15日(3回)

 

 【土講座】「深い気づきのメソッド――六波羅蜜を学ぶ」
                      第二期

 大乗仏教の入門・初級の知識と理解を前提とした、中・上級者向け講座です。

 大乗の教えの基本である空・中観と唯識を学び、煩悩とは何か、それを超える覚りとは何かについていちおうの理解ができた人の心には、次にではどうしたら覚れるのかという実践的な問いが起こるでしょう。


 「六波羅蜜を実践するように」というのが答えです。第一期は、序論と布施の後、状況に関わって先に忍辱について学びました。続いて持戒、精進と進んでいきます。『大般若経』を中心に学びます(瞑想の実習もあります)。


 *第二期からの受講も可能です(ご希望の方は第一期をDVDで学ぶことができます)。


▼講師:研究所主幹・岡野守也▼テキスト:随時送付▼時間:14時〜16時▼参加費:一般=1万5百円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=7千5百円、学生=3千円

 4月9日 5月7日 6月4日(3回)


○受講申込方法(各講座共通)
氏名、住所、性別、連絡用の電話番号、メールアドレスを明記して、研究所HPのフォーム、またはFAX087‐899‐8178、メール okano@smgrh.gr.jp でお申込みください。

 

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ヒトはなぜ戦争するのか――ウクライナ侵攻という状況の中で

2022年03月13日 | 戦争

 *ウクライナ侵攻という危機的な状況の中で感じ考えていることを、『サングラハ』誌の第182号の「近況と所感」に書きました。状況が状況なので、たくさんの方に早く読んでいただきたく、刊行に先立って本ブログに掲載することにしました。

 

 「近況と所感」

 

 少しずつ暖かくなってきて桜の季節が近づいていますが、とても残念なことにのどかな気分にはなれない時代になってしまいました。……

          *

 ロシアがウクライナに侵攻し、戦争が始まってしまいました。多くの方同様、筆者もまさかここまでのことが起きるとは思ってもいませんでした。日を追うにつれ事態が深刻化していて、心が痛みます。

 亡くなられた方々のご冥福、避難を余儀なくされた方々、残って戦っている方々のご無事を心から祈ります。

 できるだけ慎重に情報を確認した範囲で――例えば侵攻を始める前にプーチン氏が書いた論文なども読んでみましたが――ロシアの侵攻に大義はまったくなく、ただちに戦争をやめるべきだ、と筆者は考えています(読者のみなさんがどう考えるかは、もちろん思想の自由の問題です)。

 これから、まず当面、コロナ感染症のパンデミック、さらには気候変動など環境破壊を止めるために、人類が一丸となって対処しなければならない時期に、大国主義・自国中心主義で隣国に戦争をしかけるなど、何という考え違いでしょう。人類は、今、戦争などしている時ではないと思います。

 これが第三次世界大戦にまで拡大しないこと、一日も早く平和が戻ることを切に祈らずにはいられません。

           *

 日本の一市民である私たちは、きわめて残念ながら微力で大きなことはできないかもしれませんが、人間には主観的な解釈を伴わない〈純粋な事実〉を把握することはできないということを自覚しつつも、できるだけ先入見で特定の立場に偏ることのないよう注意しながら、確からしい「事実」を知る努力をすること、可能な範囲でいろいろな方法で意思表明をすること、ささやかでも人道援助に協力すること、そして真心から祈ることはできる、と考えます。

 今回の「近況と所感」も、筆者のささやかな意思表明の一部です。参考にして、みなさんもご自分でお考えいただけると幸いです。

           *

 前号の「近況と所感」で、「振り返ってみて、『人はなぜ争うか』『人はなぜ死を恐れるか』という大きな問いについての『徹底的な探究』は自分で納得できる程度にはできたかと思っています。ではどうしたらいいのかという答えも、ある程度まで明らかにできたと考えています。」と書きました。

 書き洩らしましたが、「人はなぜ自然を破壊するか」についても同様です。

           *

 改めて「人間はなぜ死を恐れるか」「人間はなぜ戦争をするのか」「人間はなぜ自然を破壊するか」と問いなおしてみると、答えはある意味できわめて単純明快で、どの問いに対しても、さまざまな理由はあるにしても根本的には「無明(むみょう)=分別知(ふんべつち)の心があるから」というのが、筆者が到達している答えです。

           *

 まず、なぜ死を恐れるかについて、改めてこれまでお伝えしてきたことのまとめを述べておきたいと思います。(略)

           *

 「人間はなぜ自然を破壊するか」についても、簡略に述べておきます。(略)

           *

 今回は、現に戦争が行なわれている状況に関わって、「人間はなぜ戦争をするのか」というテーマについて、やや詳しく述べておきたいと思います。 

 テレビのロシア侵攻の報道を見ていると、「二十一世紀にこんなことが起こるなんて……どうして?」という嘆きと驚きの入り混じった声がしばしば聞こえます。

 筆者も最初は、あまりにも想定外で、まったく同感のところがありました。

 ソ連、東欧の崩壊で東西冷戦が終わり、新自由主義市場経済のグローバル化で世界は経済的には一つになって、局地的紛争はあっても、今回のような大きな戦争は起こらないだろう。人類の課題はたくさんあるけれども、早急に解決すべき最大の課題は、自分たちの生きていく基盤である環境を自分たちが破壊しているという環境問題だ、というふうに思っていたのです。

 とはいっても、最近は、世界で民主主義国家よりも専制主義国家のほうが増えてきていて、これも大問題だとは思うようになりましたが、まさか大国の指導者が大きな戦争を起こすとまでは思っていませんでした。

 山内昌之・佐藤優『第3次世界大戦の罠――新たな国際秩序と地政学を読み解く』(徳間書店、二〇一五年)といった本も見てはいたのですが……まさか?と思ってきたのは、極限的な危機は起こらないと思いたいという心情、いわゆる「正常性バイアス」かもしれません。

 そのために、「今頃、どうして?」という思いが起こったのですが、改めて学び考えてきたことを再確認すると、「どうして?」という問い・驚きは消えていきました。

 つまり、「有史以来、二十一世紀になっても、〔ロシアも含む〕人類は総体として無明=分別知を克服できていない。そのために、こんなこと・戦争を起こしてしまうのだ」と再確認したのです。

 戦争には、いろいろな理由があるでしょうが(それについては、松本武彦『人はなぜ戦うのか――考古学からみた戦争』中公文庫、二〇一七年、原本は二〇〇一年、が非常に参考になりました)、もっとも核心的には「自分たちの集団と他の集団がそれぞれ分離独立した実体であり、さまざまな意味での実体的利害が対立している。そして自集団の利益を守るのは当然だ。そのために他集団を攻撃し、場合によって抹殺してもやむを得ない、あるいは当然だ」という「思い・思い込み」から起こると考えられます。 

 人間は、何も思わず行動することはありませんから、何も思わず戦争をしかけるということもありえません。必ず何かを思って戦争をしかけるわけです。

 その場合、当然ながら、自分たちと他の人々が、例えば、宇宙エネルギーとして完全に一体であり、単細胞微生物という共通の先祖から分岐した同じ一つの生命の樹の枝であり、人類としても同じ先祖からいのちを受け継いだ親戚として一体だという、さまざまなレベルでの一体性という〈〔非常に確からしい〕事実〉には思い到っていないでしょう。きわめて残念なことですが、意識的には無知、無意識的にも無明という心の状態です。

 もちろん具体的な戦争には、他のさまざまな複雑な要因が絡まり合っていることもまちがいありませんが、無明=分別知から生まれる自己集団中心主義こそが、戦争の原因の核にあるものだ、と筆者には思えます。 

 こうしたことを考えていると、いつも聖徳太子『十七条憲法』の第一条を思い出します。

 「平和をもっとも大切にし、抗争しないことを規範とせよ。人間にはみな無明から出る党派心というものがあり、また覚っている者は少ない。そのために……近隣同士で争いを起こすことになってしまうのだ。(和をもって貴しとなし、忤うことなきを宗とせよ。人みな黨(とう)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって……また隣里に違う。)」

 区別はできても分離しておらず、つながって一つである自他にとって、平和こそもっとも大切なことであり、長い目で見れば争うことは自他にとって利益にならないにもかかわらず、なぜ人間は争い合うのか、短い言葉でみごとに言い当てていると思います。

 原文の「人みな黨あり」の「黨」は「尚」と「黒」の会意文字で、人間の心がいまだに黒いつまり無明の闇に閉ざされていて、自己実体視・自己中心視があり、それが集団化すると自己集団実体視・自己集団中心視になることを意味しています。

           *

 今起こっていることは、唯識心理学でさらに明快に解析することができると考えます(*唯識心理学についてより詳しくは当ブログの記事を参照してください)。

 人間は、心の底(アーラヤ識)に蓄えられた言葉とりわけ名詞(例えば国家、民族)・代名詞(例えば、私、私たち)・固有名詞(例えばプーチン、例えばロシア)を使ってものごとを認識するため、自他を含むすべてのもの(物・者)が非実体・空・一如であることがまったく見えておらず(①我癡・がち=無明)、それどころかすべてのものが分離した実体だと思い込み(②我見・がけん)、そのため他と分離した実体としての自分が拠りどころ・中心だと思い込み(③我慢・がまん)、その結果それに過剰に執着します(④我愛・があい)。

 心の奥(マナ識)の四つの根本煩悩が、自己中心主義の根っ子であり、それが集団化したものが自集団中心主義・集団的エゴイズムだと考えてまちがいないでしょう。

 そして、集団的エゴイズムこそ、すべての戦争のもっとも深い原因・根源だと思われます。

 人間は、心の奥深く(マナ識)で、宇宙ではすべてのものがつながり合いながら(縁起)、ダイナミックに働き合っていて(無常)、決して分離した実体ではなく(無我)、究極のところ言葉を超えて一体である(空・一如)ということにまったく気づいていないために、エゴイズム、集団的エゴイズムに陥りがちで、実際、有史以来繰り返ししばしば陥ってきたようです。

           *

 最近、宇宙史と人類史を一つながりで捉えようという試みが大冊にまとめられた『ビッグヒストリー われわれはどこから来て、どこへ行くのか 宇宙開闢から138億年の「人間」史』(明石書店)という本を読みながら、改めて、人間は文明史が始まって以来ずっと戦争をしてきたのだなと再認識しています。

           *

 深層・無意識に深く根付いたエゴイズムが個人同士のいさかいから戦争まですべての争いの根源だと考えられますが、それが表層・意識に上ってきて、実際にどんなふうに働くかということについても、もう少し解析しましょう。 

 他と自分がつながって一つだとは思ってもおらず、自分が中心つまりいちばん大事だと深く思い込んでいますから、自分と利害やイデオロギーなどが一致している時には他の権利もある程度は尊重できるのですが、それらが一致していないと思うと、とたんに他の権利や尊厳はどうでもいいことになってしまいます。

 無意識の煩悩から、意識上にも煩悩として、まず他集団の権利を無視しがちな領土や権益などへの過剰な欲望(貪・とん)が発生します。

 そして、実体視・絶対視された自集団の領土や権益などを脅かすと思えるものにはいつでも過剰な怒りを起こしうる過剰な自己防衛-攻撃の心(瞋・しん)も発生します。

 縁起・無常・無我・空・一如といった全存在的・宇宙的な事実、宇宙的な一如・一体性の現われとしての人類の一体性という事実について、無意識的にも無明であり意識的にもまったく無知(癡・ち)です。

 せめて意識・考え方・知としてだけでも、すべてのもののつながりと一体性を認識していたならば、安易に戦争に走ったりはしないはずなのですが。

 そして、深層の無明と意識的な無知のため、自分・自分たちが究極の拠りどころであり中心だと思い、誇りにこだわり、偉大だ、最高だ、絶対だと思いたくなります(慢・まん)。

 大国主義は、そうした慢の心が集団化・政治化したものだと考えてまちがいありません。

 そして、そういう自分の思い込みを指摘してくれる他からの助言や忠告があっても、最初から信用せず疑って聞こうとしないという基本姿勢(疑・ぎ)があります。

 現代的に言えば、情報収集のシステムに最初から偏り・歪みがあって、客観的で公平で正確な情報を採り入れない・できないのですから、判断にも歪み・誤りが生じるのはあまりにも当然です。

 そして、自分と自分の地位や権力や所有、および自国は永遠である・であるはず・であらねばならないと信じ込みます(辺見・へんけんの中の常見・じょうけん)。

 自分・自分たちの考え・イデオロギーは絶対に正しいと信じ込み(見取見・けんしゅけん)、自分たちのやり方・習慣・倫理等が絶対に正しいと信じ込んでいます(戒禁取見・かいごんしゅけん)。

 そのようにマナ識の根本煩悩を根として意識にも煩悩が生まれ、それがさらに具体的な出来事に会った時、現象的な煩悩=随煩悩が働きます。

 他と分離した自分を拠りどころ・中心だとする思い込み(我慢・がまん)からは、分離した自分と他を比較して自分が上だと思いたいという心(慢・まん)が働き、実体視された自分・自分たちを過剰に誇って、偉大だ、最高だ、絶対だ、世界の中心だといったふうに思い込みます(憍・きょう)。

 大国やその独裁者の傲慢さは、唯識的に解析すると我慢から慢、慢から憍が発生しているということです。

 実体視された領土や権力や権益などなどは、まさに実体であって変化してはならないものだと信じ込まれており(常見)、もし損なわれた、あるいは脅かされていると思うと、過剰な自己防衛・攻撃の心(瞋)が具体化して怒り(忿・ふん)になります。

 瞋から忿が発生すると、ほどんど同時に「〔我々とは分離し対立している〕あいつらをやっつけてやる」という攻撃の心(害・がい)が発生し、それが集団的に行動外化(アクティングアウト)されてしまったものが「戦争」だと解析してまちがいないと考えます。

 そのように集団的エゴイズムから発生した戦争では、権力・権力者は、自己実体視・絶対視している、つまり自分は絶対に正しいと思い込んで、のぼせ上っています(掉挙・じょうこ)から、冷静・理性的になって正しい知識・情報を得ようとはせず(不正知・ふしょうち)、自ら反省して間違っているのではないかと思うこともなく(無慚・むざん)、社会的・世界的常識に照らし世論に耳傾けて反省することもなく(無愧・むき)、ありとあらゆる方法で、不正な事実を隠そうとし(覆・ふく)、ごまかそうとします(誑・おう)。

 そして権力者の周辺では、本当はまちがっているのではないかと思いつつもエゴイズム的自己防衛のために権力・権力者に追従するという心(諂・てん)が、悲惨なまでに普通に見られます。

 筆者の知るかぎりでのすべての独裁国家で、悲しいまでにありふれた随煩悩の現象です。

 いや、建前上民主主義国家でも、程度の差はあれ、こうした随煩悩は相当にあるように筆者には見えます。

 凡夫にも程度の良し悪しは明らかにあるのであり、したがって凡夫が作っている国家にも程度の良し悪しはあり、その程度は重要ですが、凡夫であるかぎりマナ識の根本煩悩、意識上の根本煩悩、そしてさまざまな随煩悩が働くことは、悲しむべきですが避けられません。      

           *

 前号でサングラハ心理学研究所創設の目的について改めてお伝えしました。

 何よりも「どうしたら、人間すべてが、自分自身とも他者とも自然とも調和した、『仲よく楽しく生きて楽に死ぬ』 ことができるような生き方に到達できるか、徹底的な探究を試みること」でした。

 そして、もう一度『十七条憲法』第一条の言葉を引用すると、「人みな黨あり。また達れる者少なし。ここをもって……また隣里に違う」。つまり原理的に言えば、「無明=分別知がある限り戦争はある」ということです。

 しかし、ということは、「無明=分別知がなくなれば戦争もなくなる」ということでもあります。

 唯識的に言えば、八識(はっしき)から四智(しち)の心への転換を遂げた人が多くなれば、特にリーダーたちがそうなれば、恒久的な世界平和が成立する可能性が高まるのは確実です。

 どんなに遠い話に見えても、理想論に聞こえても、有史以来人類が抱えた同種間の集団的・意図的な殺し合いつまり戦争という問題を根源から断つには、そういうシナリオしかないのではないか、と筆者は考えてきましたし、今回の戦争でその思いをいっそう深くしています。

 前号では、「問題山積という状況は、『陰極まれば陽に転ず』というプロセスの陰がまだ極まっていないということでしょう」と書きましたが、激化する気候変動と特に今回の戦争は、いよいよ陰が極まりつつある徴かもしれません。

 ここでなるべく早く、気づいた人から、意識の変容を目指しつつ、同時に社会システム・世界システムの変容にも取り組み、陰を陽に転じさせることが強く望まれるのではないかと思います。

 最後に、何度もご紹介してきた『大般若経』の言葉を私訳を付けてまた引用させていただきます。

 

  成熟有情厳浄仏土(じょうじゅくうじょうごんじょうぶつど)

 

  〔自分も含む〕人々〔の霊性〕を成熟させ、美しい仏の国を建設しよう。

 

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戦争などしている時ではない

2022年02月25日 | 持続可能な社会

 

 言っても聞く耳を持たない人には届かず、聞く耳のある人ならすでにわかっていることなので、改めて言ってもすぐに効果はないにしても、それでも言っておきたいことがあるものです。

 

 全人類が共通の祖先から生まれたいわば一つの親族であるという事実――これは疑いようのない生物学的事実だと思われます――からすれば、戦争はしてはならないことですし、その事実を自覚していれば、決してしたくならないはずのことです。

 

 しかしきわめて残念なことに、国家、民族、宗教、イデオロギーなどなどが違っていると、全人類の本質的一体性が見えなくなり、分離していると錯覚して対立・抗争することになります。

 

 確かに人類には、国家、民族、宗教、イデオロギーなどの違いはありますが、それは現われたかたちとして区別できるということであって、本質的には分離しているということではありません。

 

 これまでさまざまな形でお伝えしてきたとおり、区別できるかたちはあっても、人類そして世界は事実としてすべてつながっていますし、究極のところ一体です。

 

 例えば、同じ一つの地球に住み、同じ一つの地球大気を分け合って吸い、地球全体を循環する同じ一つの水を分け合って飲んで生きています。

 

 区別を分離・分断と考え、対立・抗争するのは、自他共に不幸をもたらす悲しむべき錯覚――仏教用語では分別知といい、知恵のように見えて実は無明です――というほかない、と筆者には見えます。

 

 気候変動が人類の持続可能性を根本から脅かしている今、人類は一致してその課題に取り組むべき時であり、戦争つまり仲間割れなどしている時ではないと思われます。

 

 全人類、とりわけそのリーダーたちが、一日も早く錯覚から目を覚まして、戦争を止め、平和で持続可能な世界を創り出してくれることを、強く強く、願望、希望、希求してやみません。

 

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『サングラハ』第181号が出ました!

2022年02月09日 | 広報

 

*当研究所―本誌はおかげさまで今年1月で満30年を迎えることができました。その「近況と所感」を以下に引用させていただきます。

 

   近況と所感

 今年は寒(かん)らしい寒になりましたが、それでも近所の滝宮天満宮では数輪白梅が咲き始めています。「冬来たりなば春遠からじ」ということですね。
 今年最初なので、遅ればせですが、ご挨拶を。
 問題山積の時代ですが、それでも生かされているだけでも喜ばしいことなので、明けましておめでとうございます、と申し上げます。今年も皆さんの身心のご健康をお祈りします。
 問題山積という状況は、「陰極まれば陽に転ず」というプロセスの陰がまだ極まっていないということでしょう。やがて陽に転じるまで、転じさせるべく、それぞれの最善を尽くしながら、気長に待ちましょう(「能動的忍耐」!)。
 今年最初の号をお届けします。本年もよろしくご愛読をお願いいたします。コロナ第六波の影響があって、また少し遅くなってしまいました。どうぞご海容ください。
           *
 ところで、当研究所-本誌は一九九二年一月十八日にスタートしましたので、この一月十七日で満三十年でした。
 振り返ると、創刊号で創設の目的について次のように書きました。


 サングラハ心理学研究所の目的


 この「サングラハ心理学研究所」を通じて、私が目指したいことは、これまでもいろいろなかたちでみなさんに申し上げてきましたが、あらためていえば、以下のようなことです。


◇どうしたら、人間すべてが、自分白身とも他者とも自然とも調和した、「仲よく楽しく生きて楽に死ぬ」ことができるような生き方に到達できるか、徹底的な探究を試みること。


◇そのためには、近代的な理性・科学主義、個人主義、ヒューマニズムは不十分であり、霊性と理性の統合、自己実現から自己超越へという意味での〈意識の変容〉が必要条件――十分条件ではない――だと思われるので、そのための理論と方法とそしてなによりも実践そのものを探究すること。


◇その時その時に到達した探究の成果を、自己絶対化することなく仮説・試案・提案といったかたちで、しかしやはり広く社会に提示していくこと。


◇そのことによって、人類の全体的変容-サヴァイバルになにほどか貢献すること。


 若さの気負いでずい分大きな構えでスタートしたなと思いますが、振り返ってみて、「人はなぜ争うか」「人はなぜ死を恐れるか」という大きな問い(ビッグクエスチョン)についての「徹底的な探究」は自分で納得できる程度にはできたかと思っています。ではどうしたらいいのかという答えも、ある程度まで明らかにできたと考えています。


 「到達した探究の成果を……社会に提示していくこと」についても、三十冊あまりの著作とたくさんの講義と本誌の通算一八〇号などで、かなりの程度できたのではないかと思いますが、「広く」という点ではまだまだです。


 肝腎の「そのことによって、人類の全体的変容-サヴァイバルになにほどか貢献すること」は、当初気負ったほど広く影響を及ぼして大きく貢献できるということにはなっておらず、残念ながらまさに「なにほどか」です。


 けれども、コスモロジーセラピーの自信のワークでやるとおり、「『あまりない』は『ない』ではない。どんなに小さくても、なにほどかであっても、あるものはある」という見方を選択することにしています。


 関わってきてくださった皆さんの評価はいかがでしょう。


 それに、これもいつも皆さんにお話ししているとおり、「まだまだだ」は「これからだ」ということでもありますから、これからも天・宇宙が生かしてくれている間は、できることをさらにできるだけやっていくつもりです。


 よろしければ、ご一緒しましょう。
           *
 それに関して、ちょうど一年前の本誌第一七五号の「六波羅蜜を学ぶ⑸」の精進について引用した『大般若経』の個所を改めて噛みしめて読み直しながら、「精進波羅蜜多!」と自分を鼓舞しています。ご参考に、一部再掲します。


 もし菩薩が一カルパかけて行なった事業を振り返って、長かったという想いになるようであれば、まさに怠惰な菩薩と名づけられると知るべきである。
 もし菩薩大士が一カルパかけて行なった事業を振り返って、一日で行なった仕事のように思うなら、まさに精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかりと留まっていると名づけられると知るべきである。
 また、プールナよ、諸々の菩薩大士は、覚りの行を修行するうえでカルパの数の多少を考えてはならない。もし菩薩大士がカルパ数を考えて限界を設けるようなら、精進し勇猛果敢に覚りの行を修行し、この上なく等しいもののない覚りを求め覚ったとしても、まさに怠惰な菩薩と名づけられると知るべきである。
 もし菩薩・大士が次のような考えをしたとしよう。たとえ数限りない大カルパを経ても精進し、勇猛果敢に覚りの行を修行して、必ずこの上なく等しいもののない覚りを覚ろう。私は、決して心に尻込みする気持ちをもってこの上なく等しいもののない覚りを追究するようなことはしない、と。まさに精進の菩薩が精進波羅蜜多にしっかりと留まっているのである。
 精進波羅蜜多を修行して速やかに完成し、生死輪廻を超越してただちに一切を知る者の智慧を覚り得て、諸々の衆生のために大いなる益をなすと名づけられると知るべきである。
 もし菩薩大士がカルパの数を考えて限界を設けるようであれば、極めて勇猛に常に努めて布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若波羅蜜多を修行しても、それでも名づけて怠惰な菩薩とするのである。
           *
 「大乗の菩薩は、同時に摩訶薩・大士・志の大きな人であって、一切衆生を救うなどという大きな仕事が一年や十年や一カルパくらいでできると思ってはならない。果てしなくやり続けるのだ。一カルパかけてやったこともほんの一日仕事にすぎないと思うように」ということでした。
 一カルパでさえそうですから、まして三十年は菩薩大士にとって大した長さではありません。ごくごく短いワンステップであって、大げさに騒ぐほどのことではないとも言えます。


 それでも、凡夫の時間感覚ではそこそこの長さであり、それなりの感慨もありますので、コロナ感染症の流行が収まっていたら、皆さんにお集まりいただいて、東京または神奈川で三十周年記念の行事くらいはしてもいいかなと思っていましたが、なかなか収まる気配もありませんので、当面、特別な集まりはしないことにしました。
          (中略)
           *
 最後に今回も、協力執筆者の皆さんと読者の皆さんに心から感謝し、本年もよろしくお付き合いいただけますようお願いいたします。


 もう一度、山積する問題を見つめ過ぎて絶望したり、目をそらして能天気になったりすることなく、最終的には天・宇宙にお任せという気軽さを保ちながら、精進-能動的忍耐という行を続けましょう。

 

  目 次

■ 近況と所感 ……………………………………………………………………………… 2

■「典座教訓」講義(4) ……………………………………………………岡野守也… 5

■ 仏弟子たちのことば(13) ………………………………………………羽矢辰夫… 20

■書評『人新世の「資本論」』における「脱成長コミュニズム」(2) …増田満… 22

■ 国際比較で見る日本のコスモロジー崩壊(8)…………………………三谷真介… 31

■ 講座・研究所案内  ……………………………………………………………………… 42

■ 私の名詩選(80) 『正法眼蔵』「梅華」巻より …………………………………… 44

 

 

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問題山積の新年ですが……

2022年01月08日 | コスモロジー
 年末・年始はゆっくりし、今日から本格的な仕事始めです(リモート土曜講座:「深い気づきのメソッド――六波羅蜜を学ぶ」)。
 サングラハ教育・心理研究所は、この1月18日で満30年になるのですが、コロナがなかなか収まらないので、特別な記念行事的なことは行なわず、当面これまでどおりのことをさらに続けていくことにしました。
 それにしても、仕事始めのご挨拶くらいは書いたほうがいいかなと思っていたら、以下の過去の記事(混迷状況も実体ではない:唯識のことば35、2017.3.06)を思い出しました。これはこのまま今の心境なので、再掲させていただきます。
                *
 どのようにして、さまざまな外的対象が目の前に現象するにもかかわらず、それが実体的な存在ではないと知るのか。……

 一には、差異のある識という相を知ることである。

 たとえば、餓鬼、蓄生、人間、天人は、同じ対象についても〔それぞれの〕認識作用〔の差異〕によって〔認識内容に〕差異があるのである。

                      (摂大乗論第二章より)


 「ものごとは心のあり方しだいで実にいろいろなふうに見える」というのが唯識の基本的な考えの一つです。

 それは、抽象的な話ではなく、例えばここのところ目立ってきた世界の混迷という「外的対象」についても当てはまると思われます(この文章を最初に書いた時点では「不況」でした)。

 混迷状況があまりにもありありと「目の前に現象」してきているので、私たちはそれが変化することのない実体的な存在・問題であるかのように考えがちです。

 そして考えれば考えるほど、不安になったり、気が重くなったり、暗くなったり、困ったり、つらくなったり、絶望したりしがちです。

 その場合、いちばんふつうの対処法は、「考えると暗くなるから、考えるのはよそう」と、なるべく気にしないようにして、何とか一日一日やり過ごすというやり方でしょう。

 それはそれで何とかなっている方には、まさにそれでいいのだと思います。

 しかし唯識を学んだ私たちには、「考え方を変えて、もっと明るくなる」という手もあります。試みてはどうでしょう。

 まず第一に、どんな外的対象も、つまり混迷でさえも、実体ではなく無常であり、どんなに長くても永遠には続きません。いつかは終わります。

 どんな困難にも必ず終わりがあるのです。

 それどころか「破壊・混沌の後に新しいより高度な秩序の創発」というのはコスモスの法則です。

 そう思うと、かなり気が楽になってきませんか。

 あわてて心を乱さないで、ゆっくり気長に終わりを待ちましょう。

 第二に、混迷もまた「状況」の一つで、いろいろな見方ができるものです。

 餓鬼には、水が燃え盛る膿の流れに見えるように、これまでの日本のそこそこ安定した生活の水準を絶対視すると、混迷はとても不安なピンチに見えるでしょう。

 畜生・魚にはそれが生きる場所のすべてに見えているように、今の状況がすべてだと思っていると、暗くて出口のないトンネルに入ろうとしているように思えるかもしれません。

 しかし人間には、水は下手をすると溺れるものですが、基本的にはいのちの糧であるように、理性・知恵を使って能動的に対応すれば、どんな状況も「ピンチはチャンス」と捉え直すことができます。

 例えば、「混迷は避けられない」という見方を「確かに一定期間のカオスは避けられない。でも、なるべく短期に終わらせて新しい秩序を創造する可能性はゼロではない」と変えると、「では、どうすればいいか」と知恵が働きはじめます。

 混迷の終わりを受動的に待つだけでなく、さらに混迷、というより混沌・カオスを新しいよりよい秩序に向かうチャンスに変える能動的な工夫を精一杯していきましょう。

 天人になると、水はその上を歩くことのできる透明で美しい床に見えるのでした。「天人」とはいわば「コスモス的人間」です。

 コスモス的な見方ができれば、カオス状態にも意味があり、それを一つのステップとしてしっかりと踏んで歩むことができる、ということになります。

 「そんなこと言ったって」という声が聞こえてきそうなので、もう一言。

 これまでどおりの安定・安心を過剰に求める見方にこだわって元気が出ないのと、見方を変えて少しでも元気を出すのと、どちらが混迷・カオスを乗りきる可能性が高まるでしょう。

 見方を選ぶのは、もちろん個々人の自由です。

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