震災-津波体験を超えて

2012年08月17日 | 心の教育

 学生たちの貴重な報告を紹介することによって、コスモス・セラピー=コスモロジー教育の効果について、広い社会的な信用を勝ち取り、教育の現場さらには社会全体に活用してほしいという気持ちで、このブログによる自主キャンペーンを続けています。

 コメントなどで協力して下さっている皆さんに、心から感謝申し上げたいと思います。

 今回は、3・11の大震災-津波を目の当たりに体験した学生の感想・報告です。

 正直なところそうした深刻な体験をした人にコスモス・セラピーが有効かどうかは、これまで扱ったケースがほとんどなかったので、まったく見当が付いていませんでした(社会人で阪神淡路大震災の体験者がワークショップに参加されたことはありますが、残念ながら効果の追跡調査をすることはできませんでした)。

 もしかしたら、単なる綺麗事、無責任な気休めのように聞こえるかもしれないという危惧はありましたが、600人を超す学生の一人なので、特別な配慮をすることはできませんでしたから、「どんな状況にある人に対しても、ともかく直球を投げてみるしかない」というのが率直な気持ちでした。

 その結果、下記の学生の場合は、報告してくれた言葉の限りでは、しっかりと受け止めてくれ、それが大きな心理的癒しにつながっていると思われます。

 被災された方々の状況や心の状況はきわめて多様なので、1つのケースだけで有効性を断定することはできませんが、コスモス・セラピーは深刻なトラウマ的な出来事に対しても心理的癒しをもたらすきっかけにはなりうる可能性があることは明らかになった、と私は考えています。


 H大学社会学部1年女子

 以上を踏まえ(筆者注:この前の部分で、彼女は「現代科学のどういうポイントがニヒリズム、エゴイズム、快楽主義を克服するのか」という課題に対し、4つのポイントをしっかりと把握したレポートを書いています)、我々人間は、宇宙・自然・動物、この世に存在するものすべてと「つながっている」「一体性」を感じることが重要である。

 全てがつながっていると感じることは、「自分は1人じゃない」という意識が強く芽生えると思う。

 私自身、昨年の大震災で被災をし、尊い命が一瞬にして失われるのを目の当たりにした。

 「生きる意味」「自然の脅威」を心の底から考えさせられた。

 津波によって全てを失い、自然を憎むことがしばしばあった。

 しかし、先生の講義を聞き、憎んでも何も始まらないことを学んだ。

 人間と宇宙、人間と自然、様々な支えによって我々人間は「生かされている」ことを忘れてはいけない。

 「生命の尊さ」を教えてくれた自然の脅威、ひいては、この世に存在するすべてのものに感謝したい。

*先生の講義を受けて、自分の生きる意味を再認識することができました。本当にありがとうございました。


 他の大学のアンケート調査のコメント欄に「先生は学生のウソを見抜くことができますか?」という意味深長な質問を書いてきた学生がいます。

 確かに、評価を少しでも上げてもらいたくて、明らかにお世辞だとわかる感想を書いてくる学生はいます。

 しかし、課題に対する解答のほうがまったくできていない場合、お世辞であることは簡単に見抜けます。

 また、解答がしっかりしていても、もしかしたら少し誇張しているのではないというものもあります。

 しかし、単に知識的・理論的にだけではなく、心情的にも深く理解している、とこちらに感じさせる解答の後に書かれた感想は、もしお世辞だとしてもそれは信じることにしています。

 上記の女子学生の場合、体験があまりにも深刻なので、お世辞やウソの感想を書くことができるとは思えません。

 彼女のケースに関して、コスモス・セラピー、というより宇宙・コスモスそのもののメッセージは、きわめて深刻なトラウマ的体験についても深い癒し効果があったと信じていいのではないでしょうか。

 彼女自身は特にどこがとは書いていませんが、私の推測では「死んだらすべては無になって終わり」ではないというメッセージが大きかったのかもしれません。

 人間は、生まれる前も宇宙の一部、生きている今も宇宙の一部、死んでからも宇宙の一部であり、死はある意味で宇宙への帰郷です。

 そして、生命全体の流れとして見れば、個体は死んでも生命は生き続けていくのです。

 コスモス・セラピー=コスモロジー教育は、できるだけ正確かつわかりやすく、現代科学が明らかにしたコスモロジーをベースにして、宇宙・コスモスのメッセージを伝える試みなのです。

 みなさんの感想や評価や疑問や批判を率直にコメントしてくださると幸いです。





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敗戦、心の闇、いのちの鎖

2012年08月16日 | 心の教育

 昨日は終戦記念日でした。

 かみさんの郷里で親族たちとお昼を食べている途中に有線放送があり、正午、みんなで黙祷をしました。

 夕方家に帰り、夜、NHKスペシャル「終戦・なぜ早く決められなかったのか?」を見ました。

 新聞にはオリンピックのメダルが史上最高の38個だと報道されていました。

 私もテレビでかなり見て感動させてもらいました。日本人にはまだまだしっかりと力があるのですね。

 そして、応援する人たちを見ながら、やはり日本人は日本を愛している・愛したいのだと思いました。

 それらすべてを通じて、日本はまだ終戦というより「敗戦体験」の社会的・文化的・心理的統合ができていないことを感じています。

 つまり、どうしたら素直にそして正当に国を愛することができるかということがつかめていないのではないでしょうか。

 私は、コスモス・セラピーの序論で、「自信にはおおまかに言って個人レベルと集団レベルと宇宙レベルがあり、そのすべてについて自己肯定できるようになることが望ましいのですが、敗戦後の社会心理的な事情で素直に自分の所属する集団である『国』を愛する気持ちを持つのが難しく、『愛国心』とか言うとそれだけでとたんにアレルギーを起こす人が多いので、汎用性を考慮して、個人レベルと宇宙レベルだけ扱うことにしています」と話します。

 しかし、現代の日本人とりわけ若者が自信を持ちにくい大きな理由の一つに戦後文化の問題がありますので、大学の授業では「日本人の精神的荒廃の3段階」という話をします。

 それから、西洋の近代科学とニヒリズムの関係の概説をした後で、現代科学のコスモロジーの話に入っていきます。

 そうした授業プログラムの中間と最後で、よく聞いてくれた学生は、例えば以下のような変化を示します。


 H大学経済学部2年男子

 この本を読む前までは、コスモロジーという言葉は聞いたこともなく、考えたこともありませんでした。

 けれどこの本を読んで、人生観、世界観そしてコスモロジーについての考え方が180度変わりました。

 今までは、人は死んだら無になる、自分に自信がないなど先生が意図する考えに陥っていました。

 またアメリカを中心とした欧米諸国が常に正しく、私の住む日本はそれらを模範として進んでいかなければと考えていました。

 まさか都合よくアメリカにマインドコントロールされているのも気付かず、日本国民としての誇り、大和魂を失っていました。

 神仏儒習合を重んじ、自分自身をリセットし、これから生活していきたいと思います。

 先生のおかげで、少し心の闇が晴れました。

 本当にありがとうございます。


 ここで注目してほしいのは、「日本国民としての誇り、大和魂を失ってい」たことと「自分に自信がない」「心の闇」ということがすべて関連していることです。

 それに対して、国民としての誇りを持つことはすべていけないことではなく、自己絶対視・排他的にならない限りは、どの国民にとっても正当な権利であることに気づくと、「少し心の闇が晴れました」という気持ちになるのです。


 この学生が感じていた「心の闇」は、実は戦後の日本人全体がずっと抱えたままの心の闇なのではないか、と私は考えています。

 前期中間レポートの感想に上のように書いたこの学生は、期末レポートには次のような変化を報告してくれています。


 先生の言葉を受けて、世界観が変わり、視野が広がりました。

 特に命は、宇宙の一部、歴史のひとつという言葉は、自分の存在意義に気づくとともに、感動を覚えました。

 コスモロジー的な考え方は今まで自分が経験したことのない領域であり、常に興奮を感じていました。

 この授業を通じて、いのち、つまり人間を、宇宙と関連づけて考え、自分も、古くからつながってきたご先祖さまからのいのちの鎖をつないでいきたいと思いました。

 これからもよろしくお願いします。


 「ご先祖さまからのいのちの鎖をつないでい」くという考え方こそが、日本人の倫理性・精神性の豊かさを支えてきたもの――そして失われつつあるもの――であることは言うまでもありません。

 後期、日本人の精神性の核であった仏教の本当の意味を伝えることによって、この学生、また学生たち全体が、さらにどんな変化を示すか、楽しみにしているところです。


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人生の質、癒しの始まり、そして定着:学生の報告から

2012年08月12日 | 心の教育

 H大学660通、O大学126通、M大学44通、すべてのレポート採点がようやく終わりました。

 明日からやっとお盆休みです。

 O大学では、プログラムの関係で、コスモス・セラピーは90分4回、しかも宇宙レベルの話、宇宙カレンダーの話は2回だけでした。

 それでも、以下のような「幸せな気持ちになれました」という感想が出てきます。

 コスモス・セラピーのショート・コースでは、しばしば「つながり・かさなりコスモロシーを聞いて感動した。その時は人生の質が上がった。元のようにばらばらコスモロジーで営まれている社会生活に戻ったら、忘れてしまった。人生の質が下がった」という現象が起こります。

 つながり・かさなりコスモロシーが心の奥深くに定着する、身に付くにはかなりの繰り返しが必要です。

 しかし、たとえ短期間でも自分の存在の意味がわかったような気がして、幸せな気持ちになれる――マズローの言葉でいえば「至高体験」――のはいいことではないでしょうか。



 私が今、ここにいて、生きているのも、いくつもの奇跡が重なって存在しているのだと思うと、感動したし、生きていてよかったと思うことができました。

 137億年の歴史があり、その1つ1つの出来事があり、そのおかげで、今の私がいるのだと思うと、もっと自分のことを大事にし、ムダな命なんて本当にないのだと思いました。

 “私は宇宙137億年の連続的成功の成果である。” という言葉を知ったからには、素晴らしいと思えるような生き方をしたいです。

 自分の存在という意味をここまで深く考えたことはなかったけれど、今回この授業で、自分もちゃんと理由があって存在しているのだと知ることができてよかったです。

 幸せな気持ちになれました。



 さらに、前回の記事のケースのように14、5回続けて講義を受ければ、かなり高い癒し効果が上がるケースがしばしばありますが、たった2回でも、下記のケースのように癒しのプロセスが始まるきっかけになったりします。



 「宇宙と聞くと「私」の「外」にあると思ってしまうが、本当にそうなのだろうか?」という問いを先生がしていましたが、私は「宇宙」というものに対して憧れがあります。
 なのでプラネタリウムなどにも足を運びます。

 とても遠いと思っていた宇宙です。それでもなぜだか、そこに私の全てがあるような気がしていました。

 それでも「宇宙」を信じられない、ウソみたい、現実じゃないと思うこともありました。

 それはあまりにも遠く、あまりにも偉大で、あまりにも美しいと思うからなのかも知れません。

 生きるのがつらいと感じる日は空を見上げていました。誰も居ないと思い込んでもうダメだと思うと、空が恋しくて、宇宙に食べられてしまいたいと思いました。

 それ程、理由もなく、宇宙には私の全てがありました。

 そして、先生の講義を受けてその理由が少しわかった気がしました。

 「宇宙があるから私が居る」 今まで「私」の「外」にあった宇宙は「内」にあったのか、「内」というより、「私」と「宇宙」は一体だったのか、と理解することができました。

 宇宙の誕生は私の誕生の準備だった。憧れだった宇宙が私を誕生させる準備してくれたんだ。と思うと、先生がおっしゃった「ニヒリズムはおわる」という言葉を信じられる気がしました。

 中学生のころから、リストカットをくり返してきて、その事がまた、自分を追いつめていましたが、自分自身でそれらをおわらせることができるかなと、勇気が出ました。

 自分が生きていることが「すごいことだと思えればニヒリズムは終わる」 一生胸に刻んで生きていきたいと思います。

 ありがとうございました。



 上のようなケースは、フォローがなければ一時的なもので終わることもありますが、彼女はきっと「自分自身でそれらをおわらせることができる」でしょう。

 さらに、下のケースのように繰り返すことができれば、しっかりと定着していきます。



 私は、昨年の秋学期に「○○」の授業を受けました。

 久しぶりに宇宙カレンダーを見て、コスモス・セラピーの教科書を見て、懐かしく思いました。

 「○○」の授業では、人間の先祖とされてきたものの絵などは見なかったので、今回見ることができて、よかったと思います。

 また、137億年 one chance の話を聞いて、すごくうまいなと思いました。

 宇宙カレンダーの中の1つでも欠けると、今の私がいないんだと思うと、ご先祖様に感謝したくなりました。

 そして、地球の昔の姿の写真を見て、今とは別ものだなあと思いました。

 地球は青いイメージしか知らなかったので、赤い地球はすごく違和感がありました。

 また、青い地球を見て、すごくきれいに思いました。

 何かいやなことがあっても、死にたくなるようなことはなくなりました。

 コスモス・セラピーに出会えたからだと思っています。

 学べてよかったです。



 かつては何かいやなことがあるとすぐに死にたくなった若者が、今では「何かいやなことがあっても、死にたくなるようなことはなくなりました」と報告してくれ、「コスモス・セラピーに出会えたからだと思っています。学べてよかったです」と言ってくれています。

 心から「学んでくれてありがとう。伝えてよかった」と返事をしたい気分です。

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ピンチを支えるコスモロジー:3つのケース

2012年08月10日 | 心の教育

 セラピスト、カウンセラー、教師などの職業には非常に厳しい「守秘義務」があることは、よく承知しています。

 なので、どの大学でも、レポートや感想について「研究所の雑誌やブログに、実践の成果の報告として使わせてもらうことがあるので、予め了承しておいてほしい。もちろん、個人を特定できるような部分は公表しません。もし使ってほしくなかったら、予めレポートに書いておいてください」と、何度もしっかり断っています。

 それでも、以下のようなかなりきついケースの報告をご紹介することには、かなりためらいがあったのですが、あえてご紹介することにしました。

 それは自主キャンペーンではありますが、コスモロジー教育=コスモス・セラピーには、実際に人生のピンチのただ中にある人をサポートする効果があることをお知らせして、同じような状況にある人に生き抜くためのヒントにしてもらったり、できるだけたくさんのサポートする立場にある方々に使っていただきたいと思うからです。

 以下の3つとも女子学生のものですが、個人を特定できるような内容のないものだけを選んであります(単純な誤字の訂正と読みやすくするための読点を加えました)。



 私は今、人に嫌われています。

 だから生きている価値なんてないし、人に嫌われる私は嫌だ。

 だから消えてしまえばいいんだ、と思っていました。

 ですが、「コスモロジーの心理学」を読んで、少しだけ自分に自信が出たような気がします。

 私は贈り物として生まれてきて、何かに生かされているほど価値のある、とほうもない偶然の上で生まれてきたのだった。

 また、すべては血がつながったしんせき同士なのだから、憎み合うこともないのだと。

 とても心が軽くなり、自然と涙があふれてきました。

 この講義を取らせて頂けて、ほんとうに光栄です。ありがとうございました。

 後期もよろしくお願いします。



 本の冒頭で述べられていた人生観が変わるという意味がすごくわかりました。

 私もニヒリズムにおちいっていました。

 幼いころからまわりと違う家庭環境に悩み、“自分が生まれてきた意味があるのかな?” とか“もう、死にたいな” と思ったことは何度もあります。

 パスカルが考えていたことにも非常に共感できました。

 人生に意味があるのかなとか、なんで自分だけこんな思いをしなければならないのかな、もう人生終わりでいいと何度も何度も思いました。

 しかし友だちと騒いでいるときだけは、こんなことを考えずにすんだから、なるべく1人の時間をつくらないでいようと、中学のときはほとんど家に帰っていませんでした。

 いまだにこのくせはなおっていないです。なるべく1人の時間をなくそうと予定をぎっしりつめてしまいます。

 しかしこの本を読んで、自分は1人ぼっちだとか思わなくなりました。

 自分は“ご先祖様達の愛情の結晶” であると思うと、すごく嬉しくて生きることに自信がつきました。

 宇宙が生まれた瞬間から自分が今ここにいることが予定されていて、何かひとつでもかけていたら今自分がここにいないかと思うと、奇跡だなと思いました。

 親に“生まなきゃよかった” と言われたことがあります。

 その日からずっと自分なんか生まれなきゃよかった、と思っていたし、神様をうらんだこともあります。

 けれどこの本に書いてあった、人の命とは“無条件、無償であたえられたおくり物” という言葉がとても心にひびきました。

 自分がここにいることはものすごい奇跡なことで、奇跡がおこってくれてよかったなと、生きていることの神秘さに感動しました。

 137億年前につくられた水素が自分の体の中にもあるという話にも、ものすごく心をうたれました。

 私は自分という人間なだけじゃなくすべての物とつながっているんだと思うと、生きることにわくわくします。

 宇宙や太陽や地球が137億年前には何もなく、その中で宇宙ができて惑星や恒星がつくられ、今の宇宙があるのですが、宇宙は神秘的で不思議だなと思いました。

 でもその宇宙と自分がつながっていると思うと嬉しいです。

 これからは自分1人ぼっちだとか考えるんじゃなくて、全ての奇跡のおかげで自分がいて、そのことじたいが奇跡で生きていることに感謝していけるようになりたいなと思います。



 大学入学して1ヶ月程経って、高校と環境がガラリと変わって人間関係や大学生活について悩み、プライベートでは心無い大人にだまされ、闇の世界を見るはめになったりして、人生に絶望していました。

 けれど、それでも生きていることってすごいんだなと、先生の本を読んで思いました。

 猫の手も借りたいほど一人で辛かった当時の私にとって、先生の講義や本は、数少ない救いだったように思いました。

 そして、自分の良心に従って生きれば何の問題も無いのだなと思いました。

 自分を信じて、自分で自分を救えるんだと、自分の足でしっかり立って生きていけるような気がします。



 「コスモロジー教育=コスモス・セラピー」と表記するとおり、これは心理療法的思想・思想的心理療法です。

 個別のカウンセリングをしなくても、たくさんの人の中で話を聞く・授業を受けるだけでも、同時に多数の受講者に対する癒し効果があることを、20年あまり確認してきています。

 上記の3人の報告も、その効果を証言してくれるものです。これはいわゆる「科学的検証」とは異なりますが、有効性の証明としては十分ではないか、と私は考えているのですが、どうでしょうか。

 もちろん、それだけではなく第三者による検証も必要ではあると思いますが。

 証言は信用できると感じた方、ぜひ読んでみてください。そして、納得できたら、修得して、使ってください(昨日のご案内のように9月からコスモス・セラピーの講座があります)。





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病院に行くより先にコスモロジーを

2012年08月08日 | 心の教育

 先ほど、締切より1日だけ早く、ようやく採点を終え(まだ他の大学が少し残っていますが)、ほっとしているところで、また記事を書きます。


 H大学に教えに行くようになってから今年で満12年になろうとしています。暦の一めぐりです。

 その間、ブログのタイトルと同じく「伝えたい! いのちの意味」という気持ちで授業をやってきました。

 コスモロジー教育=コスモス・セラピーを受けてよかった学生たちが、「同世代の若者たちにももっと伝えたい」と言ってくれ、それまで考えたこともなかったブログというものを一緒に始めたことを思い出します。

 今年も伝えたい・伝えるべきだと言ってくれる学生たちがたくさんいるので、彼らの体験にもとづいた生き生きとした言葉の力を借りて(予め了承は取ってあります)、伝えるためのちょっとした自主キャンペーン――自己宣伝とも言う――をしていきたいと思っています。

 授業がいいと思った学生諸君、元学生諸君、よかったらキャンペーンに参加・協力してください(例えばコメントとか、自分のツイッターやファイスブックなどで)。


 次の学生は、たぶんコスモロジーの授業が「コスモス・セラピー」であり、トーク・セラピー(話すことによる心理療法)という意味を持っていることを必ずしも自覚していないと思われますが、自分の感じで次のように言ってくれました。



 H大社会学部1年女子

 大学で現代社会と宗教の授業に出ていなかったら、ニヒリズムなどについて考えることはまずなかったであろう。

 人間の存在する意味について考えたことなどなかった。

 自分で望んでこの世に生まれた人などいない、ということばに妙に納得し、さみしい気持にもなった。

 しかし、先生の授業に出ていて良かったと思う。

 なぜなら、ぼーっとしながら生きていたころよりも、毎日が充実させ、感謝することができているからだ。

 病院にいくよりも先に先生のところへ行ってお話を聞けば、救われる人はたくさんいるだろうな、と思った。



 実際、例年、精神科に通っていたのが行かなくてもよくなった、という報告をしてくれる学生がいます。

 患者を薬漬けにしてお金をもうけることしか考えていない、治せない・許せない精神科医ばかりだとは思いません。

 私の存じ上げている方にも優れた良心的な精神医がいらっしゃいますが、率直なところ、まずコスモロジー教育=コスモス・セラピーを先に受けてみてほしいと思うことがしばしばです。



 H大社会学部1年男子

 毎日のように意味もなく死にたいとつぶやいていた僕ですが、先生の授業をうけていき、宇宙も、ムシも、となりの人もみんな全てがつながっているとわかると、何か心の中にあったモヤみたいなものがとれるすっきりした気分に少しなることができました。

 全世界的ニヒリズムを克服するためにも全ての人、一人一人が一体だという考えを持つことができればよいと切に願う。



 上記の学生のように、特に「意味もなく死にたいとつぶやいていた」ような状態から、ふとしたきっかけで実際に死ぬ試みをやってしまうというケースがあるようです。

 実家を離れ一人暮らしをしていて孤独を感じがちな若い世代の心は、とても危ういところがあります。いや、青春の孤独感は実家にいても似たようなものです。

 しかし、すべてのものがつながっていると理解すると、それが実感=気分にも影響を与え、孤独感を癒し、死にたいという気持ちが解消または緩和されることがしばしばあります。

 さらに積極的には、下記の学生のように「生きる希望がとても湧いてきました」というところまでいくこともあります。



 H大社会学部1年女子

 今回のレポートを書いていて生きる希望がとても湧いてきました。

 今までは宇宙と自分がつながっているなんて考えたこともなかったけど、自分の命が宇宙によるものだと思うと、今までよりも命がすごくすごく尊いものに思えました。

 自殺したい、死にたいなどと思ってるみんなに読んで欲しいです。

 宇宙から生まれた私。そう思うと自分がなんだかすごく好きになりました!

 自分が星の子であるなんてとても幸せです。

 これからは宇宙の子である自分にふさわしい生き方をしなくてはいけないなと、とても考えさせられる内容でした。

 すべてのものに感謝しながら生きていきます!



 彼女も言ってくれているように、「自殺したい、死にたいなどと思ってるみんなに読んで欲しいです」。

 その人に向いていたら、多かれ少なかれ癒し・生きる勇気づけの効果があるでしょうし、向いていなくても、少なくとも害はまったくないはずです。

 ただ、落ち込み、引込み、あるいは逆にとんがり、つっぱりなどは、その人のアイデンティティ=ライフスタイルにまでなっていることがあり、そういう場合には、アイデンティティを若干ゆるがされることになって、それをある種、反発、いやだ、迷惑だと感じるケースはあるにはありますが、それは「害」とは言わないのではないでしょうか。

 よかったら、騙されたと思って、三信七疑くらいの気持ちで読んでみてください。





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このコスモロジーは伝えるべき:レポート感想より

2012年08月07日 | 心の教育

 昨日は、原爆記念日でした。記念式典のテレビ中継を見ながら、黙祷を捧げました。

 参列していた野田首相は「脱原発(依存)」の一言も言いませんでした。どういう心境-神経なのでしょうか。まあ推測はつきますが。

 近代的科学-技術-産業への過信、さらに遡れば人間の無明・分離思考が超えられないかぎり、原爆と原発を含む核技術廃絶へのきっぱりとした意思を持つことはないでしょう。

 小学生時代に見せられて見た原爆映画のショックが私の思想的な仕事の出発点であることは、何度も繰り返してきたことですが、問題の根本的解決に向けて前に進むためには、近代科学のばらばらコスモロジーから現代科学のつながり・かさなりコスモロジー―の私流解釈と言ってもかまいませんが―への転換が必須である、と改めて確信しているところです。

 そのことを学生たちに伝えると、実にさまざまなうれしい反応が返ってきます。

 H大学の膨大なレポート採点が先ほどようやくひとまず終わり(まだ最終チェック等が必要なのですが)、予め数えると嫌になってしまいそうなので数えなかった枚数を確認してみたところ、660通でした(履修数は740名で80名・約10.8%ほど減)。

 チェック作業に移る前に、また3通ほどご紹介しておきたいと思います。



 H大社会学部3年女子

 私はこの授業を受けたことで、人生観が大きく変わりました。

 今まで、宇宙と私は別々なものだと考えており、岡野先生のおっしゃる「ほんとうの自信」はありませんでした。自分で自信だと思っていたものは、ただのうぬぼれ、ナルシズムに過ぎなかったのです。

 しかし、私も宇宙の一部であり、コスモスから与えられた立派な能力が与えられていることに気づきました。

 このことに気づけたことは、今後の人生に大きな影響が出ることでしょう。今後精神因性のうつ病や心身の病みとは無縁の生活をおくることができそうです。

 最初は半信半疑でしたが、講義が進んでいくにつれ、どんどん引き込まれ、人生観そのものが変わってしまいました。

 大学生の間に、ニヒリズム-エゴイズム-快楽主義を克服する手段を知ることができて本当によかったです。

 知らぬまま社会人になっていたら、心身を病んでいたかもしれません。

 こういった講義は今の時代、国語や数学を学ぶことよりも、若者にとっては必要なのではないでしょうか。

 本当に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。



 彼女が言ってくれているとおり、コスモロジー教育-コスモス・セラピーには高い予防効果があるのではないかと予想しています(残念ながらいわゆる「科学的な」追跡調査をする機会や時間的余裕がないのですが)。

 そして、そういう予想からすると、「こういった講義は今の時代、国語や数学を学ぶことよりも、若者にとっては必要」だと私も強く思っていますが、教育の責任ある地位にある方の多くがまだ近代主義(近代科学+ヒューマニズム、場合によっては社会ダーウィニズム)を強く信じておられるようで、それが大きな壁になっているようです。

 最近の教育関係の事件の報道を見聞きするかぎり、もしかすると責任ある地位の人が近代主義の建前のヒューマニズムではなく、むしろその病であるエゴイズムつまり自己保身に走っているのではないかと思われて、強い怒りと嘆きを感じます。

 心ある関係者のみなさん、ぜひコスモロジーの飛躍的転換を遂げてください、ご自分のためではなく、子どもたちのために。

 受講してくれた若者は、次のように、みんなで共有しなければならない、大人を待っていないで自分たちで伝えなければならない、と言ってくれています。



 H大社会学部1年男子

 私は以前先生のリアクションペーパーに、『自分も早く、自分のコスモロジーを持ちたいです。』と書きましたが、先生の授業、そして先生の書いた本を読んでいくにつれて、その感想は間違ってるのだと私は気付きました。

 正しくは『自分たちのコスモロジー』ですよね。

 私は、この現代科学のすべては一つであり、私たちはばらばらではないという「調和」のような考えから、コスモロジーもみんなで共有しなければならないのだということに気が付きました。

 近代科学の恐ろしい考え、そして現代科学の明るい考えが知れて、また自分の考えが変わってきたように感じました。

 残りはとても少ないのがとても残念ではありますが、また先生の授業を集中してきいていきたいです。


 H大社会学部1年男子

 前回は感想が短くなってしまったため、今回の前期分まとめて書きます。

 先生の授業は全て出席しました。

 正直な所、もっと早く取るべきだったなと思う所と、今年でよかったと思う所があります。
 自分の人生観が変化しましたが、それを実感するには、それなりの後悔も必要だと感じます。失敗を感じていなければ改心することはむずかしいと感じます。

 我々は変な話し、最高クラスではないですが、エリート大学の一部であると思います。 私はないですが、変なプライドがある学生も少なからずいます。
 その人々は後悔しなければ改心することはないと思います。だからエゴイズム、快楽主義はなくならず、浸透しているのだと思います。

 背景はゆとり教育です。ゆとりにより、コスモロジーが変わり、その子はまたゆとりの親の教育なので、快楽主義も多いと思います。

 人々はまず基本的なところ、我々は星の子であり、宇宙の歴史がつまっている「事実」を認め、受け入れ、一人一人がかけがえのない宇宙の1つであり、後世のためにどうすべきか、と考え直すべきです。

 人の生命はとてもかけがえのないもので、尊いものです。

 でも、今人間は宇宙の方向性に(相互依存)に反しています。それがエゴイズム、快楽主義、ニヒリズム、ミーイズムです。

 これには、人々の意識を変える(原点回帰でも良いのではないか)必要がある。

 今年(今までを含め)先生の講義を受けた人々は、周囲の人々に広げていくべきと思います。

 大変で受け入れてもらえないかもしれないが、一人一人が行動すること、それから始めるべきであると考えています。



 最後のところ、よかったら、私としてもぜひみなさんにお願いしたいところです。それは、言うまでもなく私個人のためではありません。


 「今年(今までを含め)先生の講義を受けた人々は、周囲の人々に広げていくべきと思います。
 大変で受け入れてもらえないかもしれないが、一人一人が行動すること、それから始めるべきであると考えています。」


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授業への感想 第1回

2012年05月14日 | 心の教育

 今年度思うところ(順序として、宇宙史スケールのポジティブなことを話してから世界史スケールのネガティブなことを話すといいのではないか)があって、最初から気づきのワークを行ないました。

 先週、授業への第一回目の感想を書いて提出してもらったところ、例えば次のようなものがありました。


 メディア社会学科1年女子

 今までに受けてきた授業の中で一番印象に残っているのは、「137億年の歴史の中の80~100年を意味深く生きよう!」です。確かに宇宙誕生の歴史を見たら80~100年は短いかもしれないけど、その期間はその人にとっては大事な時間であるというのを改めて感じました。もうその内の約20年は過ぎてしまったけど、これからの60~80年をどういう風にしたら意義深く過ごせるか、考えながら生きていきたいです。
 本を読んで理解を深めていきたいです。
 そして、まだまだ小さい視野を広げて人生観を変えていきたいです。


 友人、知人の大学教師たちに聞くと、「今の大学生は、けっこう教師の喜ぶようなことをうまく書いてきますよ」という話ですから、ぬか喜びしすぎないように心がけていますが、あまり若者を信じないのもよくないと思ますし、こういう感じの感想もたくさんありますから、とりあえず素直に受け取って、喜んでおくことにしています。


 社会学科1年女子

 今回、いろいろな人の質問、感想聞けてよかったと思いました。自分でも「何故自分は生きているんだろう?」「人生で自分は何をしたいんだろう?」という疑問持って生きています。本心はどうだかわからないけど、周りにそんなこと言うと「中2病」とバカにされたり、「そんなこと考えたって仕様がない」など言われてしまい腑に落ちないことが多々あります。しかし、今回この時期を受けて自分と同じ疑問抱いている人は沢山いるんだと思いで安心しました。もう皆は高校生に思春期を終えてそれなりの答えを出したと思っていました。大学生にもなってその答えを見出せず、思春期状態で自分だけ止まっているのだと思っていたので、この授業を受けて答えを見いだせたらいいな、と思います。もちろんそれぞれの価値観が違うので、もしかしたら自分の納得できるものではないかもしれません。でもこの授業で受けたことをヒントに自分なりの答えを出してみたいと思います。


 現代の若者たちは、人生の根本的な問い、つまりビッグ・クエスチョンへの答え、ないし答えのヒント与えられないまま、生理的年齢だけ大人になっていき、大人になったふりをしたり大人になったつもりになったりするだけで、実は精神的な大人になれないままなのではないか(大人たちもその傾向がありますが)、と私は考えていて、大人は少なくとも答えのヒントだけは提供する義務があると考えています。
 私の授業は、私の出した答えをそれぞれの学生たちが答えを生み出すためのヒントとして提供することを目指しています。
 次の感想は、そういう私の意図をよく理解して、受講してくれているようです。


 自分がこの授業を受ける前に、名前から想像していた内容とは全く正反対で、社会と宗教各々の関係といったミクロなことを学ぶのではなく、コスモロジーなどといったマクロなことを扱ってることに正直驚かされた。現代の日本人は無宗教の人も多いために、宗教について学ぶのはどこか時代遅れな気がしていたが、この授業のような、人生観や世界観についての授業であれば、何かとメディアなどの扇情主義的な情報などに冒されやすい現代の日本人にとっても大きな意味を持つと思う。 
 ただ、教授の言う事を受動的に聴いているだけではメディアを通して授業を受けているのと変わらないので、あえて批判的な態度でこれからの授業受けていきたいと思う。


 さらにうれしいのは、学生たちに能動的な学びの姿勢が生まれつつあることです。授業の進行を待っていないで、先にどんどんテキストを読んでいる、読み終わった、という学生が相当数います。

 
 社会政策学科1年男子

 私の宗教観は、この授業を通して変化しつつあると思います。以前の私は、宗教というものに対して、嫌悪感を持っていて、快く思っていませんでした。しかし、この講義受けていくなかで、少しずつそういった感情が薄れてきた気がします。つい先日、先生の著書である『コスモロジーの心理学』を読了したのですが、それも目からウロコの思いでした。考え方次第でここまで違った捉え方ができるのかと、自分の視野がまた広がった気がします。そして、まだ手をつけてはいませんが、後期の教科書である『仏教とアドラー心理学』も既に購入したので、近いうちに読んでおきたいと思います。十七憲法が日本人の宗教観にどう影響してくるのか、非常に楽しみです。前期もまだ始まったばかりなので、これからの講義もきっと私の世界にパラダイムシフトをもたらしてくれると思うので、期待しておきます。


 こうした感想と一緒に、実に多様な質問も書いてきますので、授業時、授業後になるべく答えるようにしています。
 今後、そうした質問とそれへの答えもご紹介したいと思っています。

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2011年度授業の成果 2

2012年05月06日 | 心の教育

 きわめて遅れた報告の第2は、M大学での成果です。

 M大学(「仏教心理論」)は、2011年度、特に前期は、これまででもっとも受講者数が増えました。

 登録者数:前期200人、後期157人、受講実数:前期197人、後期127人でした(前後期別々に履修可能)。

 前期は『コスモロジーの心理学』(青土社)の内容(まだ青土社の単行本は出ていませんでしたので研究所発行のパンフレット版使用)の講義とワーク、後期は『仏教とアドラー心理学』(佼成出版社)の唯識を中心とした仏教の部分の講義を行ないました。

 年度末に回答は自由にしてアンケートを取りましたが、回答者数は111人(ほとんどが前後期とも履修)で全体の約87%とかなり高率でした。

 全体で12の質問項目のうち、授業の成果を端的に表現しているのが11番目の以下の質問への答えでしょう。

 「授業を受けたことによって、人生観・世界観に変化があったと感じていますか。    変化はなかったと感じていたら、0、あったと感じていたら、プラス・マイナス1から10までのスケールで表現してください。」

 10:13人 (12%)  9:5人 (10との累計16%、以下同様)  8:15人 (30%)  7:8人 (37%)  6:7人 (43%)  5:24人(65%)  4:8人  3:6人  2:10人  1:5人  0:6人  無回答:4人

 コスモス・セラピーと仏教を融合したコスモロジー的教育の成果としては、昨年度この大学では従来よりやや低めです。従来は10から5までの累計が75%以上のことがほとんどでしたから。

 0が6人というのは、当然といえば当然で、万人に効く万能のセラピーや教育はないということでしょう。成績と合わせて考えると、この6人および無回答、アンケートに答えなかった学生のほとんどが授業内容を理解できなかった・しなかった・したくなかったというケースだと思われます。これは、はなはだ残念ながらやむをえないことだと思います。

 ふつうの言葉に置き換えると、10は「まるで変わった」、9から6は「かなり変わった」、5は「ある程度変わった」ということでしょうから、コスモロジー教育が人生観・世界観をプラスに変化させ、人生の質(Quality of Life, QOL)を向上させる上で大きな効果があることは、今回もまた実証されたと言っていいでしょう(もちろん第三者によるより厳密な検証が望まれますが)。

 ポイント10の学生の中でももっとも顕著な変化を報告してくれた学生(2年女子)の場合、最初の質問項目、「今、人生の充実度はどのくらいですか? 1から10までのスケールで表現してください。」に対して、受講前の1から受講後の10へと表現しています。

 これは、
 質問項目2の「自分のことを好きだと思っていますか? (以下同)」に対する、受講前「きらい10」から受講後「好き8」への変化、
 項目3の「自分に自信がありますか? (以下同)」に対する、受講前「なし10」から受講後「あり8」、
 項目8の「人生には、意味があると思いますか? あるとしたら、どんな意味だと思っていますか? その考えについての確信度を1から10までのスケールで表現してください。」に対する、受講前「なし」から受講後「つながりを知る10」、
 項目9の「人生でこれだけは実現しようと思っている目標はありますか? あるとしたら、何ですか? 実現への決心はどのくらいですか? 1から10までのスケールで表現してください。」に対する、受講前「なし」から受講後「明るく生きる10」、
 項目10の「人間は死んだらどうなると思っていますか? その考えについての確信度を1から10までのスケールで表現してください。」に対する、受講前「分からなかった」から受講後「また先につながっていく10」
などと、すべて対応していて、非常にうなづけます。

 つまり、授業をうけたことによって全体として人生の質が飛躍的に向上した、と評価していいでしょう。

 ポイント10の学生の中でも項目1に関する変化のもっとも少ない学生(2年女子)は、4から6ですが、「その他、授業に対して感じたことがあれば、自由に書いてください。」の項目に対して、「元気にこれからの人生を送っていきたいと思います。」と書いていますから、それでもかなり元気になった、あるいはまさに元気に生きていこうという気になったわけです。

 これもまた人生の質の向上です。

 うれしいのは、自由記述で「“愛すること”を学びました。自分のことを大切に思うようになりました。もっと早くこの授業に出会いたかったです。」と書いてくれた学生のいたことです。

 言うまでもなく、「自利利他円満」という大乗仏教の目指すところが若い世代にも伝わったということでしょう。

 これ以外にも、とてもうれしい感想を書いてくれた学生がポイント10の学生だけでなくたくさんいました。

 ちなみに、アンケートの最終・12番目の項目は、「授業を受けたことによって、仏教に対する以下3つのポイントの考え方が変わりましたか。①暗い → 明るい ②古い → 古くない ③特殊(信じられる人にだけ適用)→ 普遍的(誰にでも適用)」ですが、ほとんどの学生が左から右へと理解が根本的に変わります。

 次のように書いた学生もいます。「変わりました。仏教って人を選ぶと思っていましたが、人間の奥に響くものなんだって気づきました。仏教は人生のヒントをくれるもの。そう思うようになりました。」

 昨年度も、若い世代に、特定宗教としての仏教を布教するのではなく、仏教の普遍的なエッセンスを万人の人生の質を高めてくれるものとして紹介するという、授業の目的がかなりよく達成できたと感じています。

 まだ紹介したいことがたくさんあるのですが、長くなるのでここまでにします。

 今年度も、昨年度同様あるいは以上の成果が上がることを期待しているので、連休明け、また明日から大学へ行くのが楽しみです。

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2011年度授業の成果 1

2012年05月06日 | 心の教育

 非常に遅くなりましたが、連休でようやく少し時間が取れたので、昨年度の学生たちの授業を受けた感想をご紹介します。

 まずH大学社会学部ですが、前期はほぼ『コスモロジーの心理学』の内容、後期は『仏教とアドラー心理学』の仏教の部分と『「日本再生」の指針』の「十七条憲法」の部分(スウェーデンの部分は自分で読むよう指示)の授業を受けた学生たちは、以下のように受け止めてくれました。

 1年男子
 1年間の講義を通し、コスモロジーや唯識を学ぶことができたが、最後のテーマが「十七条憲法」であったのは大いに驚かされた。しかし、学びを進めていくうちに、この「十七条憲法」が、私たちの未来につながる大切なピースであることに気づかされた。日々、さまざまな政治家や識者たちが、これからの日本・政治について述べているが、「十七条憲法」ほど理想的なものは存在しないのではないだろうか。「十七条憲法」が現代における根本的に欠如しているものを示してくれたと私は考える。今のほぼ力のない政治家を急に変えるのはとても難しいことだが、私たちがあきらめず、国のこと大切に考え、「和」の意識を、国民に浸透させることができれば、いつかは、理想的な国づくりを本当に始めることができるはずだ。現在の日本は絶望的だと言っても過言ではないはずだ。しかし、私はこの1年を通し、現実と未来に希望を持つことができた。そして、なによりも、あきらめない心を持つことができた。自分たちの手で、日本をもっと良い国にしたいと私は考えている。それこそが、私たちの天命ではないだろうか。

 1年男子
 私は東日本大震災による原発事故などで今の日本に未来はないように感じていた。しかしこの学習を通して、その思いは自己中心的なもので、何とも自分が浅はかだったことかと気づかされた。さらに本来の政治家のあるべき姿、つまり全てのもの、人のために公務を実行するという必要性も知ることができ、今の政治の見えない問題点も少し分かることができた。すべてのもの・人はつながっているというコスモロジーは、今の日本において大変重要であり、それを基に私利・私欲ではない、全てのための議論が今後行われることを願うようになった。政治家に任せるだけではなく、自分もあらゆるものを愛する心を持ってこれからの日本再生に協力してきたいと思う。

 1年男子
 私は、この「現代社会と宗教」の授業を受けて、少しずつ、日本人としての誇りを持てるようになったかなという気がします。最近は「愛国心」とか「国際化」という言葉をよく耳にしますが、実は、そう言っている人たちも、「日本の文化」その根本的な教えである「仏教」を正しく理解していないのではないかと思います。「日本の文化はすばらしい」とか「日本に古き良き伝統がある」とか言葉で口にしていても、何がどうすばらしいのか、どんな教えなのか、初めてしっかりとした答え教えてもらいました。
 私は、今の日本が何か不安で宙ぶらりんな感じがするのは、わかったように上辺だけで「日本」を語っていて、根本的な「日本」「日本人」を誰もが理解していなかったから、ではないかなぁと思います。
 この授業を受けて、日本が大好きになりました。やっぱり「日本はすごかったんだ」と実感しました。だから、私は、今の日本もこれからの日本も好きなままでいたいです。この日本の大切な「教え」をもう一度しっかり理解することができれば、本当の意味で、日本はすばらしくなると思います。それにしても、「和をもって貴しとなす」という言葉は、胸に響きました。

 4年女子
 戦前の日本の他国へのふるまいを反省する内容の歴史を、小中高と学んできて、日本が近代的な指針を得たのは戦後の日本国憲法成立以降であり、それ以前の日本は本当に野蛮で無知であったと思い込んでいました。しかし、それは単なる思い込みであり、日本はこんなにも古くから人と人、人と自然との調和を目指す国家を理想とし、そのための規範を記した憲法を持っていた、という事を知り、私がこの国に生まれたことを誇らしく思えるようになりました。また憲法の内容についても、人の道や徳といったことまで説いていて、ただの、何をしてはいけない、何をしなければいけないといった規律に留まらないところに、聖徳太子というリーダーの国を想う愛のようなものが伝わってきて、すごく優しく、厳しく、国の希望にあふれた憲法であるなと感じました。
 この年になるまで、十七条憲法の心を知ることなく、他国を酷く侵略した歴史を持ち、政治は私利私欲にまみれ、必死に働くもどこか幸福からかけ離れた日本に生まれたことをやましいような気持ちでいたことを、とてももったいなかったと思います。
 この先、教育現場で、聖徳太子の十七条憲法やその核となる仏教について触れる授業がもっと増えてほしいと思います。

 1年男子
 十七条憲法について、また聖徳太子の理念を講義で知ることで、今までの私の考え方が大きく変わりました。まず、純粋に十七条憲法がこんなにも深い意味を持ったものだとは正直知りませんでした。高校までの学習ではさらっと触れた程度でしたが、先生に深い意味を教わったことで、十七条憲法が日本の根本的概念の礎をつくりあげているということ、また今日私たちが強く求めている平和と調和がすでに規定されていること、そして戦前の考え方の影響もあったために、いかにまちがった先入観に捉われていたのかを自覚しました。聖徳太子の理念や十七条憲法の根本的理解を国のトップを含め、国民全員が行えば、つながりコスモロジーの点からもよりよい社会が築けるのだと確信できたように思います。さらにただ漠然としたものではなく、スウェーデンという理想のモデルが存在しているため、私たちはすぐに考えを修正し、理想に近づけていくべきだと考えます。

                     *

 昨年度は、三月の大震災の後にスタートしたことが大きく影響していて、学生たちの学ぶ姿勢に全体の傾向としてはこれまでと違う真剣さがありました。そして、学び終えての感想にも、自分たちがこの国の未来を担うのだという自覚を表現したものがかなり多く見られました。

 そして、私の授業のすぐ後が小澤徳太郎先生の「環境論」で、両方を受講した学生たち=若き国民たちは「スウェーデン・モデル」と「十七条憲法」がなぜ結びつくのか、それがなぜ「日本再生の指針」になりうるのか、とてもよく理解してくれたようです。

 今日本が前に進む上でのいくつかの大きな障害である、「仏教は古い」「十七条憲法は天皇制ファシズムの文書」「スウェーデンは小さい国だから」といった誤解は、「話せばわかる」こと、コスモスの理=縁起の理法には「よく教うるをもて従う」(十七条憲法第二条)ことが改めて確証されたと感じています。

 他大学でもとてもいい反応があり(報告は次回)、若者たちの状況に――行動に移すかどうかが問題だとはいえ――希望を感じています。

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若者の心にヒューマニズム復活の兆し?

2011年10月21日 | 心の教育

 昨日、O大学で、「日本人の精神的崩壊の三段階」の第三段階のところを講義しました。

 60年代末の大学闘争(の良質な部分)は、人間の解放・人権の尊重という「理想」を求めたヒューマニズムの運動だった。ヒューマニズムというのは、単なる思想や知識ではなく、フランス革命のことを考えるとよくわかるようにきわめて情熱的な行動を伴うものだ。

 しかし、良質な部分も含めてすべて、大学の責任者たち(教授会や学長)が大学キャンパスへの機動隊導入によって鎮圧-排除してしまった。

 もし、大学がほんとうに「真理の府」なのならば、教官は学生に、どんなに手間暇かかっても根気強く、理性・論理・真理の言葉によって、暴力的な運動の無意味さをわからせ、しかし学生の社会への批判・抗議の正しい部分を共有しながら、まず大学そして社会そのものの変革への共闘を誘うことが望ましかったと思う。

 「ペンは剣よりも強し」というのは人間の理性と言論を信じるヒューマニズムの原点ともいうべき言葉だが、機動隊による学生の排除は、大学教師たちが本音で言えば「剣はペンよりも強し」と信じていることをあからさまにしてしまったのではないか。そこで、ペン・言論・理性の力を信じる真理の府・理想追求の場としての大学は実質的には崩壊したと言ってもいいと思う。

 そして大学闘争の終わった後の日本は、高度経済成長で、そこでは「理想や社会の変革なんてめんどうなことを考えなくても、みんなでもうけて、もうけた金を分け合って楽しく暮らせばいいじゃないか」といった雰囲気が生まれ、「理想」は死んでしまった。つまり、表面はネアカ・ルンルン、心の中はシラケということになったのではないか。

 ヒューマニズム-理想が死んだら、シラケる、そしてもっとつきつめるとニヒリズムになるのは当然ではないか。

という話をした後で、「ヒューマニズムは、人類の福祉・幸福を追求するもので、単なる個人の幸せを求めるものではありません。ところで、このクラスのなかに、『自分の人生を――自分の楽しみのためではなく――人類の幸福に貢献するために奉げたい』と本気で思っている人はいますか?(いないと思うけど)」という直球の聞き取りをしました。

 そうすると、なんと驚いたことに、そしてうれしいことに、40人あまりのクラスの中で4人も手が上がりました。約10%です。

 この10年あまり大学で教えてきた筆者の経験の範囲では、これはほとんどなかった直球の反応です。日本と世界のきびしい状況のなかで、若者たちが目覚め・変わりはじめているということでしょうか。

 もしそうだとしたら、きわめてうれしいニュースです。

 といっても、いまどきはすぐに折れる若者たちも多いので、糠喜びはしないほうがいいかなと思いつつも、ひさびさにうれしいニュースなので、素直に受け取ってシェアさせていただくことにしました。


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最終授業:キリスト教・神秘主義・現代科学

2011年02月02日 | 心の教育

 妻の母の逝去のため、O大学は学期の終わり近くで休講したため、休みに入ってから補講をしました。

 予定のある学生たちも多いと思われるので、補講は出席数にカウントせず自主判断に任せました。ただし、「出ても出なくても成績評価には関係させないけど、結論だから、ちょっと無理しても聞いたほうがお得だと思うけどね」というコメント付きです。

 最終授業を聞いた学生の一人からは、次のような感想がありました。


 O大学1年女子
 この最後の講義で、「あ、全部つながった」と感じました。この15回の授業も、先生の話もです。つながり、みんな一つ、宇宙の一つ。
 コスモロジーは、きっと、数学よりも英語よりも、私たち人間が学ばないといけないもの。私は、そう思いました。
 秋学期、本当にありがとうございました。

 この学生はレポートの最後の感想には、次のように書いてくれました。


 正直に言うと、今までの私は、下を向いて人生を歩んできた気がします。
 でも、先生の授業を受けたおかげで、前を向いて生きていけると思いました。
 本当にありがとうございました。スペースがなくて、書ききれないけど、感謝の気持ちでいっぱいです。


 こちらこそ、学んでくれてありがとう、感謝です。授業の目的「伝えたいいのちの意味」が伝わったようですね。教師にとって学生が育ってくれることほどうれしいことはありません。

 今、こうしたうれしいレポートや、ちょっとがっかりするレポートなど、たくさんの採点に忙殺されています。

 長くなりますが、ご参考に、最終授業のレジュメを以下に掲載しておきます。


   キリスト教・神秘主義・現代科学

 キリスト教の正統的教義では、「神と人間とは絶対的に断絶していて、神の側からの働きかけ(キリスト)によってのみ救われる」とされています。

 使徒信条 現代語訳

 天地の創造主、 全能の父である神を信じます。
 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。
 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。 アーメン。


 筆者は、かつて以下のように書きました(『コスモロジーの創造』法蔵館、二〇〇〇年、一部改訂)
 「…〈宗教〉とは、みずからの派の教祖―教師、教義、教団、儀式、修行法などの絶対視、つまり言葉の悪い意味での「信仰」と「服従」を不可欠の条件として、人を富や癒しや調和、生きがい、安心、あるいは救い、死後の幸福な生命、悟り……といった肯定的な状態へ導く(と自称する)システムとグループを指す。
 これには、別にオウム真理教だけではなく、私の知りえたかぎりでの大多数の既成宗教、新宗教、新新宗教が含まれる(「すべて」ではない)。もちろん、競争相手としてのオウムの没落を喜んでいるらしい他の宗教も含む。そしてこれには、一見非宗教的であっても、自己絶対視の体質を抜けられない〈イデオロギー〉をも含めるべきだろう。」

 こうした宗教は、もし信じることができると非常に強い心情を持つことができるし、また信仰を共有する人同士では強い連帯をすることができます。
 非常に合理主義化された現代でも宗教がなくならない最大の理由は、宗教に個人としても集団としてもきわめて強いアイデンティティを保障してくれるという機能があることでしょう。
 しかし、神話をベースにした宗教には次のような根本的な限界があります。

 「何を根拠にしようと、自己絶対視は、かならず人を敵と味方に分断する。敵を生みだす思想は、かならず敵意を生み出す。  自己を絶対とみなしている宗教やイデオロギーにとって、自己の味方でない他者は、せいぜい布教し、改心させる(時には洗脳する)対象ではあっても、そのままで認めうる存在ではない。そして、いくら布教しても信じない他者は、哀れむべき存在であり、それにとどまらず、布教に反対する者は憎むべき呪われた存在とみなされることになる。
 事と次第では、神(人類、人民、民族、国家、正義、真理……などに置き換えてもおなじことだが)に反する者は、神に呪われたものであり、したがって神に代わって我々が殺してもよい、という結論にまで到る。
 建て前上、「布教・説得はしても強制はしない」などと寛容な構えを見せても、自己絶対視は心情としていやおうなしに敵意、すなわち憎悪・殺意を含んでしまう。だから、寛容でありうるのは、集団がまだきわめて小さいか、あるいは逆にかなり大きくなって余裕がある時のことであって、余裕がなくなると、とたんに敵意を剥き出しにする。
 しかも行き詰まると、「敵」は、外だけでなく内にもいるように見えてくる(「うまくいかないのはあいつのせいだ」などと)。したがって、憎悪・殺意は、ほとんど必然的に、外だけでなく内にも向かう。
 それが「宗教」だけではなくすべてのイデオロギーに秘められた心情の問題であることは、すでに、ナチズムや日本の天皇制ファシズム、共産圏におけるスターリニズムの悲劇的な現象などによって、明確になったのではないだろうか。とりわけ日本では、一九六〇年代末から七〇年代始めの新左翼の内ゲバ事件、なによりも連合赤軍浅間山荘事件によって、社会的なイメージ、常識として、あまりにも明らかになった、と私は思っていた。が、かならずしも市民全体のレベルではそうでもなかったらしい。
 ……つまり、オウム事件の根本にあるのも、〈宗教的心情〉の問題であり、それはほとんどの宗教―イデオロギーの抱えている限界でもある。
 「絶対に正しい我々が、絶対にまちがったあいつらを改宗させるか、さもなければ全滅させることによって、正しい、すばらしいユートピアがやってくる」(かつて埴谷雄高がいった言葉を借りれば「あいつは敵だあいつを殺せ」)というタイプの思考システムと、それが生み出す心情は、程度の差はあれ必ずといっていいほど、憎悪―闘争―虐殺をもたらすがゆえに、もはや、人類の未来にとって、それこそ絶対に無効―有害である。
 その点について、『キリスト教の本質』(上下、船山信一訳、岩波文庫)などにおけるフォイエルバッハの宗教批判――これは唯物論を含むイデオロギー全体の批判でもあるはずですが――の言葉は、あまりにも古典的なようだが、きわめて的確に指摘していると思う。

 宗教は自分の教説にのろいと祝福・罰と浄福を結びつける。信ずる人は浄福であり、信じない人は不幸であり見捨てられており罰せられている。したがって、宗教は理性に訴えないで心情に訴え、また幸福に訴え、恐怖と希望との激情に訴える。宗教は理論的立場に立っていない。(邦訳下、七頁)

 ……信仰そのものの本性はいたるところで同一である。信仰はあらゆる祝福とあらゆる善とを自分と自分の神へと集める。……信仰はまたあらゆるのろいとあらゆる不都合とあらゆる害悪とを不信仰へ投げつける。信仰をもった人は祝福され神の気に入り永遠の浄福に参与する。信仰をもたない人はのろわれ神に放逐され人間に非難されている。なぜかといえば神が非難するものを人間は認めたりゆるしたりしてはならないからである。そんなことをしたら神の判断を非難することになろう。(同、一二二頁)

 ……信仰は本質的に党派的である。……賛成しないものは……反対するものである。信仰はただ敵または友を知っているだけであってなんら非党派性を知らない。信仰はもっぱら自己自身に心をうばわれている。信仰は本質的に不寛容である。(同、一二六~一二七頁)

 右であれ左であれ、人間に平和と幸福をもたらすと自称した思想が、なぜ憎悪と悲劇を生み出してきたのか。それは、絶対視された物差しによって、天国・ユートピアに入る資格のある者とない者の心情的な絶対的分離=敵意をもたらすからである。自己を絶対視する思想としての〈宗教〉には、原理的にいって、人類規模の平和をもたらす力はない。そういう意味で、未来はないのである。」

 ところが、キリスト教と呼ばれる宗教現象はけっして一種類ではなく、その伝統の中には「キリスト教神秘主義」と呼ばれるものがあり(パリンダー『神秘主義』講談社学術文庫、第一二章「キリスト教の多様性」参照)、その教えは説く人によってかなりニュアンスは違いますが、おおまかにいえば、「神と人間は本来は一つであり、また一つになることができる」とされています。
 また解釈の仕方によっては、イエス(福音書)もパウロもヨハネも神秘思想家と理解できるような言葉を残しています。
 福音書:「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などと言えない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカによる福音書一七・二一)、「わたしと父とは一つである。」(ヨハネによる福音書一〇・三〇)
 パウロ:「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤ人への手紙二・二〇)
 ヨハネ:「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」
 さらに、一三世紀のキリスト教神秘主義の代表的な思想家と評価されているマイスター・エックハルトは、「神は絶対無である」としており、その思想は仏教とほとんど同じではないかと評されることがしばしばあります(西谷啓治『神と絶対無』創文社版著作集 所収、上田閑照『エックハルト』講談社学術文庫、等参照)
 宇宙の創造者であり絶対無でもある「神」という概念が指し示そうとしているのは、仏教で「仏・空・一如」という概念で指し示されている事柄とも、また現代科学が語る私たちと一体である「宇宙」ともほとんど同じである、と私は考えています。
 もしそう考えていいとすれば、現代においては、神秘主義的なキリスト教(やユダヤ教、イスラム教など)と仏教といういわゆる「宗教」のエッセンス(霊性的宗教)と現代科学の描き出すコスモロジーは基本的にはみごとに調和するという状況がやってきているわけです。
 また、そうした霊性的宗教のエッセンスと現代科学の調和点から描き出されるコスモロジーはどこまでも理性・科学的に検証した上で受け入れるかどうかを決めることができるという点で、理性段階以上に発達した人類においてはきわめて広く共有ができると推測できますから、これまでの宗教やイデオロギーと異なって対立・抗争をもたらすことなく、人類規模の平和をもたらす可能性が高いと思われます。

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死に対する恐怖や悲しさは無くなった

2011年01月06日 | 心の教育

 M大学では、新年早々、今日から後期残りの授業が始まりました。

 他の大学の12月最終授業時、地方の学生から「郷里で10日の成人式に出てからこちらに戻るので最初の授業は欠席させてほしい」という要望がかなりあったので、ここでも学生は少ないかなと思いながら教室に入ると、意外なことに、たぶんほとんどの学生が来ていたようです(出席を取らないので確認はできませんが)。

 この大学の今年の学生たちはとてもおとなしく(ある段階から授業中の私語はほとんどありません)、そのぶん学ぶ気のほうはどうなのかなとも思っていましたが、新年早々、出席も取っていない授業に出てくるということは、学ぶ姿勢はとても真面目で熱心なんだな、「皆なんだかんだでこの授業が好き」なのかな、とうれしくなりました。

 ここはまだこれからなので、やがて書いてくれるレポートの感想を楽しみにしているのですが、H大学の学生の感想、もう一つだけご紹介しておきたいと思います。

 前期から「私と宇宙は一体。だから、生まれて、生きて、死ぬということは、宇宙から来て、宇宙にいて、宇宙に帰るだけ」「個体は死んでも、いのちはつながっていく」という話をしていると、「死に対する恐怖や悲しさは無くなった」と報告してくれる学生が出てきます。

 長年死の問題に悩んで修行してきて、最近やっと「死ぬことはとても自然なことだ(急いで死にたいわけじゃないけどね)」と思えるようになった私からすると、「え、そんなに簡単に?」という気もしますが、若くて感受性が新鮮な時に聞くと、大切なメッセージがすんなりと滲み込んでいくのでしょう。

 若い時にそういう授業には出会えなかった私からすると――ちょっと自画自賛のようですが――そういう話を学生時代に聞けてよかったねえ、という気もします。


 H大学社会学部1年女子

 人間が本来善でも悪でもあり、(簡単に言えば)その人の心の持ちようで善にも悪にもなれるという話にはすごく希望を持ちました。また、前期で学んだコスモロジーの考え方と合わせて考えることで、より人間の心の有り方について興味が湧いたし、心の有り様で変われるのだから、私個人としては変わりたいし、全体として変われば良いのにと思いました。私という全体の中の1が変わることで与えられる影響は少ないけれど、(それだけこの全体は広いはずだと思うので)。一定数、ある規模の単位で変わっていけたら良いのに、と思います。
 また、死への肯定的な説法は本当にいつの時代の人にとっても希望を持たせるものだと思うので、宗教としてでなくとも、一般論として絶対に広まってほしいと思いました。少なくとも私はこの講義を受けて、死に対する恐怖や悲しさは無くなったので、より多くの人がこの希望を共有できたら素敵なことだと思います。


 そう、「より多くの人とこの希望を共有できたら素敵なこと」ですね。ぜひ、そうしたいものです。
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手をつながなくても僕らは1つ

2011年01月05日 | 心の教育

 「教えることによって教えられる」というのは教育にたずさわる人間のいわば役得です。若い学生たちと接していると、コスモロジー教育についてもいろいろな新しい気づきやアイデアをもらうことができて、「なるほど!」と感心させられることがしばしばあります。

 下記の学生の感想も、若者らしい新鮮な感性ならではのとてもおもしろい気づきで、「なるほど!」と感心させられました。


 H大学社会学部1年男子

 朝の子供向け番組で手をつなげば輪になりみんなが1つになる、という歌があった。こんないい歌を幼児期に聞いているのになぜ人は煩悩を消せないのだろう、とずっと考えていたが、大事なことに気がついた。この歌では手と手をつながなければいけない、つまり普段は自分は自分だけで、手をつなげば1つになる、という分別性から見た依他性を自然と植えつけていることに気が付いた。この歌を訂正するならば、「手をつながなくても、僕らは1つ、1人の時なんてありえない、だから、仲良くやっていくのは自然のことなんだ」といった歌詞にしなければならないと思う。だが、ここでまた1つ疑問が湧いた。火曜日の朝にやっている「キティズパラダイス」では、放送時に必ず「僕たちは宇宙という1つの屋根の下で暮らしている大きな家族なんだ」という歌を流している。幼少期に聞き続けているにもかかわらずなぜ人々は覚りへ近づけないのか。それは、他の作品や教育が分別性に基づいてしまっていること、そしてもう1つ細かいことを言うようであるが、宇宙という屋根の下ではなく、宇宙からみんな生まれた1つの宇宙なんだみんな、と言う必要があると思ったが、流石に子供には分かりづらいとも思ってしまったため、難しいところだと思った。しかし、絶対に近づけるものでもあると思った。


 確かに、「手をつなげば1つになる」というよりは「手をつながなくても僕らは1つ」、「宇宙という屋根の下」ではなく「宇宙からみんな生まれた1つの宇宙なんだ」という歌詞の歌が作れるといいし、それを幼児期から聞いて育つ子どもはいっそう本格的な「コスモス・ジェネレーション」に育っていくことでしょう。
 そして、そういう根っからのコスモス・ジェネレーションは必ず日本を和の国=持続可能な福祉国家にしてくれるでしょうし、さらにミュルダールの書名になぞらえていえば「持続可能な福祉国家を超えて」、持続可能な福祉世界を構築してくれるでしょう。そういう日が来るのが楽しみです。

 そういう日がくるかどうか「難しいところだと思った。しかし、絶対に近づけるものでもあると思った」。

 I have a dream !


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ひねくれた私の態度を変えた

2011年01月04日 | 心の教育

 社会をそれぞれ孤立した個人の集合と考える近代の個人主義――しかもかなり矮小化された――を小さいときから教え込まれ、個人同士の比較・競争が大前提――これは「連帯」の真っ逆さま――の社会で育つと、残念ながら当然、多くの若者の心がひねくれます。
 下記の学生がそのひねくれ方を典型的に語ってくれています。「どうせ愛されてない」「他の人なんて別に知らない」などなど。
 しかし、心はどんなにひねくれても大自然はひねくれておらず、真っ直ぐですから、そのつながりという真理を伝えて理解できると、素直な「感謝や温かい心が持てるような見方ができるように」なるのです。
 ひねくれていると法則的に、自分も不幸になるし、まわりも不幸にします。すべてはつながっているという事実に基づいて、みんなが素直になれるといいのになあ、と切に思う年度末-新年です。


 H大学社会学部1年女子

 今まで私は“宗教”というものに嫌なイメージを持っていた。偏った教えを詰めこまれるんだろーなー。とか、とにかくネガティブなものだった。(先生ごめんなさい)でもむずかしかったけど、私には理解することができたように思う。全てのものはつながっている。親とかその前の親とか。それに食べものも、空気も。深く考えると、私が今の性格も、様々なものや人が関わって「私」がいる。私なんて、どうせ愛されてない。とか、どうせ私は私だから、他の人なんて別に知らない。といってひねくれた私の態度を変え、感謝や温かい心を持てるような見方ができるようになりました。私の中にはまだマナ識やアーラヤ識がたくさんあると思う。しかし、少しでも覚りの道へ行けるようにもっと唯識を理解し、進んでいきたいと思った。

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つながりあって生きていくことができる

2011年01月03日 | 心の教育

 人間は、本来そなわった能力つまり本能で生きることができなくなった動物で、言葉(ロゴス)によって描き出された世界の秩序つまりコスモロジーなしには生きられません。
 それは単に個人の問題ではなく、人間社会・共同体こそコスモロジーなしには成り立ちません。
 そして、戦後日本のように近代的なばらばらコスモロジーをベースに形成された社会がやがて必ず現代のようなばらばらの無縁社会になるのは当然の成り行きであり、つながりコスモロジーを再構築(脱構築の反対)することなしに、どんな対症療法的対処をしたところで、問題が解決しないことは火を見るよりも明らかだ、と私は考えていますが、そのことを授業で伝えると、次のようにしっかり理解してくれる学生たちがたくさん出てきます。
 こういうことをしっかりと理解してくれる若者が育っていくことは、大きな希望です。


 H大学社会学部1年女子

 私は今回「唯識」について授業で学ぶことで、前期の疑問が解けた。前期で「つながりコスモロジー」であることを学んで、理解はしたけれども納得いかないように感じていたのは、私の心にあるマナ識やアーラヤ識の働きなのだと気づくことができたのだ。
 このことに気づいたことから、私は覚りへの道のスタートラインに立つことができ、自分自身を成長させていくための心を養っていくことができると思う。
 人々が皆、「唯識」の考えを持ち、マナ識やアーラヤ識を転換させようと取り組むことができれば、人々は「皆は一体であり、対立する必要はない」と感じることができ、今なお続く争いの連鎖は止めることができると思う。また、「一体である」という考えを持つことから、「孤独」という悲しみや苦しみはなくなり、人々がつながりあって生きていくことができると思う。

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