*今日、O大学のチャペル・アワー(礼拝)で以下のような話をしました。ブログ受講生のみなさんにもおわかちします。
聖書:新約、ローマの信徒への手紙一・二〇
:旧約、ヨブ記三六・二四―二九、三七・一一―一三
讃美歌:二二六番 一、二、四節(
「センス・オブ・ワンダー」の講話の時にも歌いました。)
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。
世の人は神の御業に賛美の歌を歌う。
あなたも心して、ほめたたえよ。
人は皆、御業を仰ぎ
はるかかなたから望み見ている。
まことに神は偉大、神を知ることはできず
その齢を数えることもできない。
神は水滴を御もとに集め
霧のような雨を降らす。
雲は雨となって滴り
多くの人の上に降り注ぐ。
どのように雨雲が広がり
神の仮庵が雷鳴をとどろかせるかを
悟りうるものがあろうか。……
雲は雨を含んで重くなり
密雲は稲妻を放つ。
雨雲はここかしこに垂れ込め
導かれるままに姿を変え
命じられるところを
あまねく地の表に行う。
懲らしめのためにも、大地のためにも
そして恵みを与えるためにも
神はこれを行わせられる。
今日のために選んだ聖書の箇所は、旧約聖書の方は梅雨時にふさわしく雨と雷と稲妻の話です。この箇所の朗読を聞いて、みなさんは何を感じたでしょうか。
キリスト教徒でない人は、文章はなかなか格調が高くて文学的だけれども、神が雨を降らせ、雷をとどろかせ、稲妻を閃かせるなどというのは非科学的なおとぎ話だと思うかもしれません。
チャペルアワーに何度も参加した人は何度も聞いていると思いますが、私も「白いヒゲで白い衣を着て光り輝いている超能力のおじいさん」というふうな神さまは信じていません。
雨を降らせるのはそういう神さまではなく、まずは自然だと思っています。そしてその自然は大きなものなので大自然という言葉で表現できるのではないでしょうか。
しかし今日一緒に考えたいのは、「大自然」という言葉で表現されていることの中身を私たちがどのくらい深く本当に理解しているかということです。
確かに私たちは雨や稲妻は目で見ることができますし、雷は耳で聞くことができます。しかし雨を降らせ、稲妻を閃かせ、雷をとどろかせている「大自然そのもの」を見たり聞いたりしているでしょうか。雨や稲妻や雷を通じて大自然の働きを感じているだけなのではないでしょうか。
ましてや大自然の力ということになると、そういうさまざまな自然現象を通じてその向こうに大自然の力を感じているということなのではないでしょうか。
私たちは大自然や大自然の力を直接知っているつもりでいますが、本当は個別のさまざまな自然現象、つまりここでは雨や稲妻や雷によって間接的に大自然や大自然の力を感じ取っているだけなのではないでしょうか。
そういう意味で、本当の大自然は私たち人間が直接、全面的に把握することのできない「大きな大きな何ものか」なのです。毎回のように言っていることですが、私たちが知っているつもりの、しかし本当には完全に知ってはいない何か大きなもののことを英語では「サムシング・グレイト」といいます。
私たち現代人は、もちろん旧約聖書や新約聖書の書かれた古代の人々よりは大自然について豊富な知識を持っています。それが相当に豊富なので、まるで全部知っているかのような錯覚が生まれているのではないか、と私は考えています。しかし、相当に豊富だということは完全に全部知っているということではありません。
とはいっても、研究・探究の努力が千年、二千年、三千年と続けられてくると、現代人は古代の人々とは比較にならないくらい自然について知識を得ることができています。しかし、ここが大事なことなので繰り返しますが、相当に豊富、古代とは比較にならないくらい、ということは、全部を完全に知っているということとはまるで別のことなのです。
もしかしたら、科学が進歩したら人間は宇宙のすべての謎を解き明かすことができると思っている人がいるかもしれませんが、宇宙の広さとそこに存在するであろう膨大な情報の量を考えると、情報処理の理論からしても、あと千年、二千年経っても宇宙のすべてを完全に知るなどということはあり得ない、と私は考えています。
宇宙そのもの・宇宙全体は、宇宙で起こっている様々な現象つまり自然現象から想像・推測することができるだけでしょう。
その完全には知り得ないものを古代の人たちは「神」と呼んだのだとすれば、それは現代人にとっても本当には知りえない全体としての大自然・宇宙とまったく別のものではない、と私は考えています。
神と呼んでも大自然あるいは宇宙と呼んでもサムシング・グレイトと呼んでも、それはどちらでもいいことではないかと思うのです。ともかく私たちが知り尽くすことはできないそういう大きな何かが、雨を降らせ、稲妻を閃かせ、雷をとどろかせているのは間違いないのではないでしょうか。
新約聖書の主要な部分を書いた大使徒パウロは、そのあたりのことをとても深く自覚していたと思われます。それが、先ほどの聖書の箇所です。もう一度読んでみましょう。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」。
「被造物」とは、現代的に言えば自然のいろいろなものや自然現象のことです。神そのものは見ることができず、しかし神の永遠の力とその本性つまり神性は、目に見え、耳で聞くことができ、鼻で嗅ぐことができ、舌で味わうことができ、手で触ってみることができるものを通して知ることができる、というのです。
今日は、梅雨時にちなんで、特に雨に限定してもう少し考えてみましょう。
いうまでもありませんが、雨は水です。水は、水素原子二個と酸素原子一個が結合したものでしたね。さて、では水素や酸素は、誰が、あるいは何が作ったのでしょう。水素と酸素とを結合させたのは誰または何でしょう。
そして、その結合した水が氷でも水蒸気でもなく、液体状の水としてたっぷりあるのが、「水の惑星」と呼ばれる私たちの地球ですが、太陽系の惑星の中で液体状の水がこんなにもたっぷりある星は地球だけです。地球より太陽に近い水星にも金星にも、地球より遠い火星、木星、土星などにもありません。地球をそういう「水の惑星」にしたのは何でしょう。
そのたっぷりある水が集まったところを海といいますが、その海の水が太陽に熱せられて蒸発して空に上って雲になり、風に乗って移動し、やがて冷えて雨になって降ってきます。海の水を熱して水蒸気つまり雲にする、その太陽を作ったのは何でしょう。
みんな偶然の産物なのでしょうか? 偶然にしては大自然はあまりにもうまく出来すぎているとは思いませんか?
大自然の中で、雨はどういう働きをしているのでしょう。先ほどの旧約聖書の箇所では、まず「懲らしめのため」となっていました。
「人間を懲らしめるために雨が降る」と言うと、なんだか迷信っぽいと思いますか。確かに特定の個人がしたことに対して罰として雨が降るというのは、非常に素朴な民俗的な信仰でしょう。
しかし、これを大自然と人間の関係を語ったものと解釈すると、象徴的な意味のあることが語られています。最近の局地的集中豪雨を地球生態学・エコロジーから考えると、それは人間が自然環境を壊し自然の調和を乱しつつあるのに対して、自然が異常気象というかたちで懲らしめようとしている、その現われと捉えることもできます。
大雨に見舞われた時――災害に遭われた方々には心からお見舞い申し上げますけれども――「自然災害」と呼んで困るにとどめず、私たち現代人は自然に対して畏れ・畏怖の念を感じ、人間の文明の営みを反省する機会として捉えることも必要なのではないでしょうか
次に「大地のため」とありますが、まさに雨のおかげで大地が潤い、大地が潤ったおかげで植物が育つことができ、植物が育つおかげで植物を食べる動物たちが生きることができ、そういう動物が生きているおかげで動物を食べる動物も生きることができ、そして何よりも水を飲み、植物と動物を食べて生きている私たち人間も生きることができています。
それこそ、大地とすべての生き物に「恵みを与えるため」に雨が降ると言っていいでしょう。
すべての生き物は細胞から成っており、細胞には水が不可欠です。私たち人間の体の六〇以上七〇パーセントくらいが水分なのだそうです。水がなければ、私たちは生きられない。その水のほとんどはもともと雨として空から降ってきたものです。海の塩分の多い水はそのままでは陸上の生物には使えないことはよくご存知のとおりです。
雨が降るから私たち陸上の生き物が生きることができる。だから、基本的には雨が降るということは私たちにとって、いいことであり、ぜひ必要なことなのです。
神あるいは大自然あるいはサムシング・グレイトが雨を降らせてくれるのは、時には懲らしめのこともありますが、基本的には私たちにとって大きな恵みというほかありません。
雨が降ってうっとうしいと感じることのある梅雨時ですが、そういうふうに考えると、「雨が降るのはいいことだなあ」とポジティヴに考えることができるのではないでしょうか。
こういう考え方には慣れていない人が多いでしょうから、急には無理かもしれませんが、「雨が降るのはいいことだなあ」と考え、そして感じる練習をしてみてください。
それから、恵みの雨を降らせる大いなる何ものかのことも感じてみてください。
そうすると、きっと自分の人生に対してとてもポジティヴになれると思います。