サングラハ第108号がでました!

2009年12月24日 | メンタル・ヘルス

 今回は大変お待たせしましたが、ようやくサングラハ第108号を出すことができました。

 充実の連載記事に加え、新しい連載も始まりました。

 まだお読みになったことのない方で試しに一度読んでみたいという方には、無料で見本をお送りします。

 下記の表紙にあるメールアドレスに、ご住所ご氏名(差し支えなければメールアドレスも)を明記してお申し込みください。





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持続可能な国づくりの会学習会案内

2009年09月04日 | メンタル・ヘルス
「持続可能な国づくりの会」学習会の大井玄先生の講演が都合により延期になり、私がピンチヒッターでお話をさせていただくことになりました。ブログ読者のみなさん、よろしければ、どうぞお出かけください。







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シビアな社会の中で優しくあり続けるためには

2009年07月15日 | メンタル・ヘルス

*今日、O大のチャペル・アワーの講話をしてきました。純粋な、優しい心をもった若者が学校を出て社会に入ると、しばしば折れてしまうのを見てきて、何とか賢く強くなってほしいと思い、現役の学生諸君にメッセージを送りました。100人以上のキリスト教とはこれまでほとんど無縁だったらしい学生諸君が、真剣に耳を傾けてくれました。「残念ですが、今日用事があって出席できないんです。後で、話の要点だけでも教えてもらえませんか」という学生もいたので、原稿を掲載することにしました。




 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。(マタイによる福音書10・16)


 前回もいいましたが、いうまでもなく聖書はキリスト教の聖典です。

 そのためにキリスト教徒でない学生のみなさんのなかにはしばしば、「聖書はキリスト教徒にとっては意味があるかもしれないが、キリスト教徒でない自分には意味がない」と思っていて、「キリスト教大学で義務だから」と感じながらしかたなく学んでいる人がいるようです。

 しかしちゃんと読んでもらうと、キリスト教徒であるないに関わらず意味のある、よりよい人生のヒントになる言葉がたくさん含まれています。

 せっかくキリスト教大学に来て、キリスト教の授業があるのですから、それを有効利用して、これからの人生のためになるヒントをしっかりと自分のものにしてもらうといいのではないかと思っています。

 さて、今日のこの箇所は、直接的にはイエスが弟子たちを宣教・布教のために外部へ派遣する時の注意の言葉です。

 しかし、基本的にはいつも自分を保護してくれ、少々の失敗など許してくれる家庭や、そこまで優しくはなくてもやはり生徒・学生を大切に育てようという基本姿勢のある学校から、やがてシビアな・厳しい社会に出て行かなければならない学生のみなさんにもヒントになることが語られていると思います。

 話に入る前に注意しておくと、いうまでもなく、「狼」とか「羊」とか「鳩」というのは喩えです。

 特に狼の名誉のためにいっておくと、動物行動学の学者が詳しく観察した本当の狼は人間が勝手に思い込んでいるのよりもはるかに平和な生き物であるようです。

 それはともかくとして、まず社会というのは「狼の群れ」のようなものだといわれています。

 それは、狼はいつも餌・食い物になる生き物を求めているということです。

 そこに「羊」のように優しいけれども弱い生き物が入っていくと、当然ながら「食い物」にされてしまう、というのです。

 もしその肉がまずくて食い物にもならないようだったら、当然見捨てられてしまいます。

 現代の日本社会は、みなさんもおわかりのとおり資本主義社会であり、利益追求が原理であり、利益をめぐって会社同士が闘っている競争社会です。

 そこに入っていく、具体的にいうと就職するということは、ほとんどの場合、利益追求に貢献することを求められるということです。

 (もちろん、多少条件は悪くても、あえて「非利益団体」に就職するという選択肢もないわけではありませんが。)

 基本的に利益追求のために存在している会社がみなさんを雇用する目的は「利益」です。

 残念ながら、みなさんの人格や生活や幸福は最終的目的ではありません。

 比較的社員を大切にしてくれる「いい会社」もありますし、なるべくそういう会社を選んで就職できることを祈りますが、いい会社でも会社の利益に反してまでみなさんを守ってくれるということはないでしょう。

 会社自体、他の会社と利益追求の競争をしていて、生きるか死ぬかの闘いをしているわけで、あなたが会社の利益に貢献するかぎりはいい待遇をしてくれますが、貢献できなくなってもあなたを待遇してあげるという余裕・優しさはあまりありません。

 特にこんな大不況の時代になってくると、ほとんど、まったくといっていいくらいなくなりつつあります。

 そういう意味で、イエスの時代だけでなく現代の日本もとてもシビアな・厳しい社会です。

 イエスは、そういうシビアな社会に入っていくに際しては、純粋で優しくて弱くてというだけではダメだといっています。

 「蛇のよう」な賢さが必要だというのです。

 聖書では「蛇」というのは世界の始めての人間であるアダムとイヴを誘惑して「知恵の木の実」を食べさせ、神から楽園を追放される原因を作ったずる賢い生き物として描かれています。

 イエスという人は、私たちに愛情豊かで純粋で、でも弱い人間になることを求めているという誤解をしている人がいますが、この箇所を読むとまるで違うことがわかります。

 この社会で生き延びるためには、蛇のようにずる賢いくらい賢くあっていい、それどころかそうである必要がある、といってるのです。

 学生のみなさんが仕事について話す場合、よく聞くのは「やりたい仕事」という言葉です。

 確かにどうせやるのならば自分のやりたい仕事であったほうがいいでしょう。

 しかし、そこで多くのみなさんが見落としているのは、雇う側・会社が「やらせたい仕事」は何か、ということです。

 雇う・雇われるという関係では雇う側が圧倒的に主導権をもっていることはいうまでもありません。

 そして、雇うには雇う目的、「やらせたい仕事」があるのです。

 会社がやらせたい仕事をやる人材を求めているのであって、自分のやりたい仕事をやりたい人間を求めているのではありません。

 それはシビアな事実です。

 会社のやらせたい仕事の目的は、基本的に「競争社会にあって競争に勝って利潤をあげること」です。

 そういう会社の「やらせたい仕事」が先で私の「やりたい仕事」はその後、あえていえば、後の後だという、そのシビアな事実をしっかりと認識するのが、賢さの第一歩だ、と思います。

 しかし、それだけではありません。

 会社がやらせたい仕事は何かをしっかりと見極めたうえで、自分のやりたい仕事とどう一致させることができるか、せめて妥協させることができるかをしっかりと見抜くのが、賢さの第二歩だ、と私は思うのです。

 これまた残念なことに、社会は私を中心に・私のために回っているわけでありませんから、必ずしも私の希望と社会の要求は完全には一致しません。

 それどころか、一致しないことのほうが多いようです。

 そのことをシビアに認識して、覚悟して、腹に収めて、どの程度一致させることができるか、せめて妥協できるかをシビアに見極める賢さが、ぜひ必要だと思います。

 しかし聖書の話は、そこで終わりではありません。大事なのはむしろその次です。

 「蛇」のような賢さをもった上で、しかし「鳩」のような素直さ・純粋さ・優しさをもち続けるように、といっているのです。

 鳩は古代ユダヤでも現代日本でも、平和の象徴です。

 平和ということは、ただケンカをしないという消極的なことではありません。むしろ、積極的に協力あるいは連帯していくということです。

 人間の本質は競争やまして闘争にではなく、協力・連帯・愛にある、というのがイエスそしてキリスト教の基本的な主張です。

 そして、イエスやキリスト教がいおうというまいと、事実、人間は、人と競い争っている時には決して心が安らかでなく、幸福ではありません。

 協力しあい連帯し愛しあっている時にこそ、安心感や幸福感を味わうことができるというふうに、もともと出来ているのではないでしょうか。

 強がったり、つっぱったり、すねたり、かっこつけたりしないで、そういう人間の本質を素直に認める必要がある、と思います。

 しかし、ここで分析・解明している時間の余裕がありませんが、さまざまな歴史的・社会的な事情があって、古代のユダヤ社会も現代の日本社会も人間の本質を実現した社会ではなく、むしろ人間の本質には反したような社会です。

 そういう社会の中にあって、人間にとっていちばん大切な素直で優しい心を決して失うことなく、しかもちゃんと生き延びていくには、相当に、ずる賢いくらい賢くある必要があるのですが、その結果、ひたすらずる賢いだけになって、肝心の素直で優しい心を失ってしまっては、いわば本末転倒です。

 意識的に「鳩のように素直でありなさい」「素直で優しくあり続けなさい」とイエスは命令形で語っています。

 そうしないと、たとえ社会での闘いに勝てたとしても、生き残れたとしても、決して人間として本当にいい、クォリティ・質の高い人生を送れないからです。

 クォリティ・オブ・ライフ=人生の質という言葉がありますが、クォリティ・オブ・ライフの高い人生を送りたいのなら、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」というのが聖書の勧めですし、私のみなさんへの勧めでもあります。

 昔々の映画に『カサブランカ』というのがありましたが、その中でハンフリー・ボガードという男っぽくて強い男優の主人公がいう名セリフがあります(*記憶違いを指摘してくださる方がありました。レイモンド・チャンドラー『プレイバック』に出てくるセリフだそうです)。

 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている意味がない」。

 私は、それに加えて、現代社会での強さは肉体的・筋肉的強さだけではなく、なによりも「賢さ」という心の強さ・メンタルタフネスであり、そういう強さがなければ生きていけない、けれどももう一方、確かに素直で優しい心を保ち続けなければ、生きている意味を感じられなくなる、といいたいと思います。

 さて、いかがですか、聖書には学ぶ値打ちのあるいい言葉がある、と思いませんか。




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いい人生のための黄金の法則

2009年06月25日 | メンタル・ヘルス

 しばらく記事を更新する時間の余裕がありませんでしたが、読者や教え子のみなさんがときどきのぞいてくださっているようなので、少し書かねばと思っていました。

 ちょうど昨日、O大学のチャペル・アワーでの講話のために原稿を書きましたので、転載します。


 求めなさい。そうすれば、与えられる。

 探しなさい。そうすれば、見つかる。

 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。

 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。

 まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。

 これこそ律法と預言者である。
                   (マタイによる福音書7・7―12)


 いうまでもなく聖書はキリスト教の聖典です。

 そのためにキリスト教徒でない人のなかにはしばしば、「聖書はキリスト教徒にとっては意味があるかもしれないが、キリスト教徒でない自分には意味がない」と思っている人が見受けられます。

 しかしちゃんと読んでいただくと、キリスト教徒であるないに関わらず意味のある、人生の道しるべになる言葉がたくさん含まれている、と私は考えています。

 今日の聖書の箇所にも、誰にでも意味のあることが語られていると思います。

 今日の出席者のみなさんのほとんどはクリスチャンではないと思いますので、クリスチャンでない人、誰にでも当てはまる「人生の法則」について紹介をしたいと思います。

 この人生の法則は、ただ法則であるだけではなく、「いい人生のための法則」であり、「黄金の法則」だと思うので、そういうタイトルをつけました。

 生きているといろいろ欲しいもの・得たいものがあります。

 いろいろある中には、できれば欲しいものから、できるだけ欲しいもの、なにがなんでも欲しいものまで、いろいろな願望の強さのグレードが違うものがあります。

 そして、そういうあらゆるグレードの願望が何もしなくても自動的に満たされるといいのですが、なぜか人生というかこの世というか、そういうふうにできていないようです。

 現代の都市に住んでいる人は、お店のドアなどが自動であるのに慣れているので、ドアは立っただけで開くような錯覚に陥りがちです。

 しかしいうまでもなく、よその家のドアはその前に立っただけでは開かれません。

 ちゃんとチャイムなどを鳴らして、インターフォンで用件を言わなければ開けてはもらえません。

 しかも、こちらの用件が相手にとっても用件つまり用のあることでなければ、門前払いをくわされることだってあります。

 探さなくても「いい人生」という表札がかかった家が向こうから私の目の前にやってきてくれ、その門の前に黙って立っているだけで、門が自動的に開いて、何が欲しいのか言わなくても察してくれて、欲しいものがぜんぶ与えられる、という具合にできているととても都合がいいのですが、とても残念なことに私たちの生きている世界はそういうふうにはできていないのです。

 いい人生を送りたいと思うのなら、まずいい人生を意識的に・能動的に・自分のほうから求めていかなければなりません。

 ただ受動的に待っていたり、さらには引いたり、引きこもっていたりしても、いい人生はやってはこないでしょう。

 求めなければ、得られない。求めて、はじめて得られる、というか得られる可能性がでてくるのです。

 いい人生の出前はありません。いい人生には自動ドアもなければ、入ったとたん「何がお入用ですか」と聞いてくれる親切な店員さんもいないのです。

 しかも、いい人生というのは、どこにあるのか、どういうものなのか、予めわかっているものではないようです。

 探さなければ、見つからない。探して、はじめて見つかるもののようです。

 もしいろいろある願望がぜんぶ満たされるのならば、求めなくても探さなくても自動的にいい人生がやってきてくれるかもしれませんが、ぜんぶは満たされそうもないとしたら、少なくともどの願望が満たされたらいい人生と言えるのか、自分の願望のいわばランキングをする必要があります。

 有限な人生で、これだけは実現したいという願望を自分で見つけ出すまで、自己探求をする必要があるのではないでしょうか。

 そして自分が与えられた有限な人生のなかでこれだけは実現したいといういちばん強い、ほんものの願望を見つけたら、それが得られるところに積極的に行って、その真正面の門のところにいって、門をたたくことです。

 しかも、遠慮がちに小さな音でたたくのではなく、大きな音で、門のなかにいる人にはっきり聞こえるようにたたくことです。はっきり聞こえたら開けてもらえる可能性が出てきます。

 たたかなければ、たたいても音が小さくて相手に聞こえなければ、開けてはもらえないでしょう。

 聖書は、門のなかにいるのは、「あなたがたの天の父」であるといっています。

 「天」というのは古代の神話的な表現で、現代的に言い換えると「宇宙」ということになるでしょう。

 「父」というのも父権主義的なイスラエルの文化の表現で、「いのちを生み出したもの」、私を含め「すべての生命を生み出したなにか大いなるもの」「サムシング・グレイト」と言い換えると、ユダヤ教やキリスト教文化のなかにいない日本人にも理解しやすくなるのではないでしょうか。

 いい人生という家のなかにいるのは、私たちのいのちの根源である何か大きなもの・大きな力であり、そしてその大きなものは、私たちの人生にとってもっとも必要なもの、ほんとうに人生のためになるもの、よいもの、ほんとうに欲しいものは何かを知っていて、求めれば、かならず与えてくれるのだ、と聖書は言っています。

 これは、宇宙は人生というものを受動的に待っていても私たちの願望すべてをかなえてくれるというふうに作ってはいないが、能動的に熱心に求めたらいちばん大切な願望をかなえることのできるチャンスは与えてくれている、というふうに読むと、だれにでも当てはまる、理解できる言葉になるのではないでしょうか。

 おもしろいのは、聖書はここで終わっていないということです。

 ここまで「自分が求めることと得ること」の話をしていたのに、突然のように「人にする」話になっています。

 実はここに常識とはちょっと違った聖書の英知があると思います。

 私たちは、自分が求めるだけで得られると思いがちですが、人間は社会的な動物であり、人といっしょに生きています。

 自分が一方的に求めるだけだと、しばしば他の人が求めることと矛盾・対立します。その人だって、自分の願望を求めているのですから。

 そうではなくて、人が求めているものを与えてあげると、願望が満たされた人は感謝して、返礼をしてくれます。

 いつもかならずではないにしても、よほどひどい社会でないかぎり、かなりの割合で、あげるとお礼がもらえるのです。

 ギブ・アンド・テイクという言葉がありますが、まず与える、そうするともらえる、という意味です。

 こういうたとえ話があります。

 人生は、すばらしいご馳走が用意されているパーティのようなものなのですが、手には長い長いナイフとフォークがしばりつけられていて、せっかくご馳走を切って刺して取っても、長すぎて自分の口には入らないというのです。

 そして、自分が食べられないでいる間に、他の人がご馳走を取ろうとしているのを見て、ご馳走を取られてしまうと思って、ナイフとフォークを振り回して邪魔をしようとして、ケンカになってしまうのです。パーティは台無しです。

 さて、パーティを台無しにしないためには、どうしたらいいのでしょう?

 そうですね、自分のナイフとフォークでご馳走を切って刺して、まず人に食べさせてあげるのです。

 そうしたら、相手も私にご馳走を食べさせてくれるでしょう。

 そうすると、お互いにおいしいご馳走を十分食べることができ、お互いに楽しんで、いいパーティの時間を過ごすことができるでしょう。

 ここから得られる英知の教訓は、まず、いい人生を過ごすには引っ込んだりしり込みしたり、ただ待っていたりしないで、積極的に・能動的に求め、探し、門をたたくことが必要だということです。

 それから、次のこれが「いい人生のための黄金の法則」だと私は思うのですが、人の求めているものを与えてあげることで、そのお礼として私の求めているものが得られるということです。

 この2つのポイントをしっかり実行すれば、法則的にいい人生になる、と聖書は言っている、と私は解釈しています。

 あなたは、どう思いますか、考えてみてください。


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第29期追加講座案内

2009年06月06日 | メンタル・ヘルス

     サングラハ教育・心理研究所
     第29期オープンカレッジ 追加講座 ご案内


 火曜講座:『大般若経・願行品』を読む

                            於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分)
                            火曜日 18時30分~20時30分 全4回
                            6月①9日②23日 7月③14日④28日


 玄奘三蔵の訳した『大般若経』は全600巻におよぶ長大な般若経典の集大成です。

 日本では、奈良時代以降、国を護る神秘的な力のある経典であり、さまざまなご利益のある経典として尊重されてきましたが、あまりにも長すぎるため、その思想的な内容については、ほとんど研究-解説されることもなく、一般の人にはまったくといっていいほど知られることもないままになっています。

 しかしその中に詳細に述べられている般若波羅蜜多すなわち分別を超えた智慧は、きわめて普遍的で深く、時代を超えた真理というほかなく、こうした経典が伝えられ遺されていることは、日本の文化にとってきわめて幸運なことだといっていいでしょう。

 今回は、『金剛般若経』(略して『金剛経』ともいわれる)に続き、『大般若経』にごく一部でも触れていただきたいと思い、大乗の菩薩が立てるべき31の「願」について述べた「願行品(がんぎょうぼん)を学ぶことにしました。

 「菩薩」という理想がいかに高いものであるか、深い感動をもって学ぶことができると思います。


テキスト『大般若経・願行品』、国訳一切経版のコピーを使います。

*講義の前に30分程度の坐禅を行ないます。坐禅のできる服装をご用意下さい。


●受講料は、一回当たり、一般3千5百円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●いずれも、申し込み、問い合わせはサングラハ教育・心理研究所・岡野へ、
 ・E-mail: okano@smgrh. gr. jp または ・Fax: 0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。



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疲労しきる前に休もう

2009年04月01日 | メンタル・ヘルス





 しばらく休養と次の仕事の準備のためにブログを休んでいました。

 次の仕事に関して読んだ、下園壮太『うつからの脱出――プチ認知療法で「自信回復作戦」』(日本評論社、2004年)にいわれてみれば当たり前だけれども、意外に気づいていない大切なことが書かれていました(p.6-7)。

 これだけではなく、この本はとても参考になりました。うつの予防にも治療にもとてもいい本だと思います。


 「軍隊に行軍というものがある。重い荷物を背負って、長距離を歩くのだ。当然、その間には休憩を取るのだが、どのような割合で休息をとればいいのかを米軍が研究した。
 一時間ごとに一〇分の休憩を入れる方法、三時間ごとに三〇分、五時間ごとに五〇分。どれも割合は同じである。
 しかし結局、一時間に一〇分のこまめな休憩を取るほうが、兵士の疲れの蓄積が少なく、結果的に長距離を歩けることがわかった。五時間歩いたあとで五〇分休憩をとっても、ほとんどの兵士が疲労を回復できなかったのである。
 つまり人間は、疲労が少ないときは少しの休憩で回復するが、いったん疲労しきると、少々の休憩では回復しないのである。」


 つまりそれに似て、いったん疲労しきって、少々の休憩では回復しなくなった精神疲労が「うつ」だというのです。

 2008年度の後半は忙しくて、ついそれに気持ちが追われて、疲れていてもずっと仕事を続けてしまい、心身ともにかなり疲れがたまってしまったようです。

 疲れきって「うつ」、というところまではいきませんでしたが、やや危なかったかもしれません。

 新年度は、少し意識してこまめに休憩を取りながら働こうと思っています。

 不況のさ中、つい「それどころではない」という気になりがちですが、休憩しないで疲れきってしまうと戦になりませんから、お互いに必要な休憩をこまめにとりながら、不況脱出までの長期戦をへたばらないように戦いましょう。

 関東地方もそろそろ桜が満開、ちょっと仕事を休んで花見というのもいいですね(画像は、福岡城址・大手門の桜です)。



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人生を投げ出さないためのコスモロジー

2009年02月04日 | メンタル・ヘルス

 1年に2度の大仕事、採点がようやく終わり、ほっとしています。

 特にこの後期(秋学期ともいう)は、受講者数がこれまでで一番多い1000人以上で、助手もつかない非常勤の仕事としてはもう限界です。

 4月からの新学期、これ以上増えないことを祈るばかりですが、増えたらどうしましょう?(ま、こればかりは予防志向というわけにいかないので、その時はその時の治療志向で対処することにします。)

 しかし、こんなに毎年増えるというのは、それだけ求めている若者が多いという証拠だと思うのですが、文部科学省以下各教育機関・関係者のみなさん、なんとかしませんか?


 さて、授業の感想をいくつか紹介します(事前の了承を得ています。改行は筆者)。


  高校生くらいから「生きる意味」「私の価値」などについてよく考えていました。しかし、いくら考えても答えが出る日はなく、「無」を感じたことも、「ただ生きているから」とあいまいな答えを出したこともありました。
 そんな時、先生の授業を受けて正直最初はキレイゴトを並べた授業ではないかと思ったこともありました。
 しかし、宗教を否定したり、今の学習のあり方に疑問をなげかけたり、先生の言っていることに上辺だけの言葉は一つもありませんでした。
 そして、宇宙と私は一体だと感じることができた時、今まで私が考えても考えても導き出せなかった答えに少し触れることができた気がしました。
 私は今でも自分が生きている意味を考えます。それは価値を上げたいからでも無情だからでもなく、宇宙に生かされている私は、宇宙が生んでくれた私には、何か少なからず使命があるのではないかと思えるからです。
 先生が初めにおっしゃった「この授業を受けていくと考えが変わる」という言葉通り、まんまとその通りになってしまい少し悔しいですが、また違った方向を見つけられてとてもよかったと思います。ありがとうございました。
                                        (O大1年女子)

 私はこの授業を受けてみて、最初、私は何やっても意味がない。楽しくない。どうでもいいという精神状態になっていました。しかし、先生の授業を毎回聞いていくうちに、世界には意味があり、今自分が考えていたことがバカバカしく感じました。
 変にツッパってみたりすることも遅れていて、ダサイと気づきましたし、この授業を受けていると、少し目の前が明るくなった気がしました。どうもありがとうございました。
                                        (O大2年、男子)

 この講義を初めてとった時、私もどちらかといえば、「何で人って生きているんだろう」と考えている側の人間でした。先生の「この講義の終わりにはきっと生きるのが楽しくなる」と言っていたのを半信半疑で聞いていた。 
 しかし、講義が終わると先生の言う通り、少しずつ自分の人生観が変わっていくのを感じた。先生の講義やブログを読んでいくうちに、先生は口先だけでなく本気で若者を中心とする私達に「生きる意味」を伝えたいということが心から伝わってきた。
 学生のうちにこの講義を聞けてよかったと思う。ありがとうございました。
                                        (O大1年、女子)

 半年間、先生の授業を受けていて驚きの連続でした。先生が宇宙の話をだした時に、どのように話が進むのだろうと考えていたら、「宇宙と私は一体です」とおっしゃって、とても驚きました。
 しかし、よく先生が教えてくださった現代科学のことを考えてみると、確かにその通りであると思いました。それと同時に不思議な気持ちになりました。
 今までは、宇宙と一体だなんて考えたこともなかったですが、宇宙と一体な自分は幸せだなと感じ、暖かい心が持てたような気がします。宇宙137億年の中の20年前から生きているということは、「自分が今、ここにいることには大いなる意味がある」と思って、毎日一生懸命に生きていこうと思いました。
                                        (O大2年女子)

 宇宙ができた時から、今の私までずっとつながっているという考え方は、すごくおもしろいと思った。130億年以上前にできた原子が今の私を作っていると思うと、私も宇宙の一部なのだなあ、と感動した。そして、私の生きる意味も、見つけられたように思う。
 今までの宇宙が選択した結果が私で、要するに、過去が今をつくってきたということだ。過去の宇宙が私の土台を作り、宇宙をもっと高いところに進化させる土台をつくったのだ。
 私の生きる意味は今までの宇宙がつくってくれた土台の上に、未来の宇宙の土台をつくることだと思った。過去が現在の土台であるとともに、現在は、未来の土台なのだ。私の土台をつくってくれた「何か」をうらぎらないためにも、しっかりと生きていきたいと思う。
                                        (O大1年男子)

 どんなに苦しいことがあっても、自分の人生を投げ出さないために、この新たなコスモロジーを指針として生きていくことが望ましい。
                                        (O大1年、女子)



 こんな感想文をもらってしまうと、また来年度も頑張るしかないな、と思います。

まだまだいい文章がたくさんありますので、徐々に紹介させていただきたいと思っています。

 年上の読者のみなさん、ぜひ、「〔自分と分離した他人である〕若者が何か言ってるけど、私には関係‐関心ない」というふうにでなく、「〔広く深いレベルでは自分とつながって一体である宇宙の現われとしてのいのちの〕次の世代が、元気になってきているようだ。よかった」というふうに関心と共感をもって読んでいただけると幸いです。



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コスモロジーはきれいごと?

2009年02月01日 | メンタル・ヘルス





 年度末、3校5クラスの答案・レポート合計1000通以上を読むことに忙殺されています。

 しかし、伝えたことをしっかりと受け止めてくれた文章を読むと、「かなりの労力だったけど、でもやはり教えてよかったなあ」という感慨を感じます。


 ところで、コスモロジーの話をしていると、初めの頃、よく「きれいごとに思える」という感想が出てきます。

 そういう時、ちゃんとコミュニケーションができるような心の絆ができている、あるいはできかかっている場合には、次のような対話をします。

 「『きれいごと』というのは、あまりきれいじゃない現実に合っていない、という感じかな?」

 「なるほど……。でも、これまで話してきた宇宙の137億年の歴史のおおまかなシナリオはおとぎ話・つくりごとだろうか? それとも科学的に推測されたほぼ『事実』だろうか?」

 「ほぼ事実だと思っていいとして、なかなか『きれいな=美しい』話だとは思わないかい?」

 「『きれいごと』と感じることは、よく考えると『美しい事実』に関する話だけど、スケールが大きすぎて、自分の生きている日常的な現実にはしっくりこない、というふうなことかな?」

 「自分の生きている日常的な社会の現実は、あまりきれいではない、美しくない、醜い、歪んでいる……というわけだよね」

 「で、ここからが考えどころなんだけど、大きくて、まっすぐで、美しい事実を見ているのと、狭い範囲の、歪んだ、醜い現実を見ているのと、どちらが気持ちがよくなりそうかな?」

 「気持ちがいいのと悪いのと、どちらが元気が出そうかな? あ、おなじようなことをいってるかな?」

 「元気があるのと元気がないのと、どちらが好きかな?」

 「元気があるのと元気がないのと、どちらが現実に耐えたり、現実を少しはましなものにする気になりやすいかな?」

 「もし元気があるのが好きで、そのほうが現実に取り組みやすい、と思うんだったら、まず大きくて、まっすぐで、美しい事実をしっかりと見つめるのが役に立ちそうだと思わないかい?」

 「おおきなきれいごとをしっかりと見つめて元気になってから、ちいさな醜い現実に立ち向かう、というのが人生を戦う戦略としてより有効だ、と思うんだけど、どうだろうね?」

 よかったら、時々、しばしば、ちいさなつらい現実ばかり見ているのを休んで、とてもおおきな、すばらしい、きれいごと=綺麗事=美しい事実を見る、見直すことをお勧めします。



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奇跡的大成功の連続の成果としての私

2009年01月19日 | メンタル・ヘルス

 久しぶりに、コスモス・セラピーの記事を書きます。


 宇宙137億年の歴史の中で私が誕生できる確率は、1億円の宝くじに100万回連続で当たったのとおなじくらいすごいことなのだそうです(遺伝学者木村資生氏のことば、村上和男『生命の暗号』サンマーク文庫による)。

 よく考えてみると、137億年間宇宙で起こったことが、ほんの一つでもほんの一瞬でも違ったふうに起こっていたら、今日ここに私はいないわけです。

 しかし、事実何年か前に誕生して、いまここで生きているわけですから、そう考えてみると、私が生きているのは奇跡的な幸運ということになります。

 それを「成功」と「失敗」という言葉で表現しなおしてみると、いっそう感じるものがあります。

 つまり私が生まれ生きているという件に関して、宇宙は137億年間1回の失敗もしなかった、すべて成功、成功、成功……の積み重ねで私が誕生した、ということになります。

 すべてがずっとうまくいったから、私は生きているのです。

 私という存在は、うまくいったことばかりの結果、大成功の連続の結晶です。

 なのに、ずっと成功が続き過ぎてそれが当たり前になっているためかもしれませんが、私たちは今日ちょっとうまくいかなかったから、今年ちょっと失敗したからといって、すぐに落ち込んでしまいがちです。

 しかし、137億年間成功し続けてきたのが私のいのちなのですから、1回や2回の失敗などなんだというのでしょう。

 そんなことは、もう毛の先よりもちっぽけなこと、限りなくゼロに近いことなのではないでしょうか?

 1回の出来事(失敗)/137億年間に起こってきたこと(成功)≒0

 そして、成功し続けてきた私のいのちには、これから何度でもうまくやれる、成功する潜在的力は山ほど秘められている、と信じてまちがいないのではないでしょうか?

 ……というふうに、うまくいったこととうまくいかないこと、成功と失敗を、宇宙137億年のスケールで見ることができれば、けっこう気が楽になる、元気になることができるのではないかと思いますが、いかがでしょう?

 ものごとの明るい面を見るのと、暗い面を見るのと、どちらがお好きですか?

 かつてご紹介した十円玉のワークのように、いいことを目に近づけて視界いっぱいにし、悪いことを遠ざけて小さく見えるようにしてしまう、というのは心のテクニックとしてとても有効です。

 ぜひ、自分が生きているということを宇宙137億年というスケールの中において眺めてみて、「私は信じられないほどの、奇跡的な確率で、大成功が重なった結果として、いまここに生きているんだ。すごい!」と思ってみて下さい。

 これはけっして現実性のない綺麗事の話ではなく、大きなスケールの現実・事実だと思うのですが、どう思われますか?

 ……といった感じで、1つの大学の心理学の授業で学生たちに生きる勇気づけのメッセージを贈りました。ブログ受講生のみなさんにも、お贈りしたいと思います。




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だれでもできる坐禅入門

2009年01月17日 | メンタル・ヘルス

*本講座は定員に達しましたので締め切らせていただきます。

 大学で教えている学生たちからの希望もあり、久しぶりにまったく初心の方のためのやさしい坐禅入門の講座を行なうことにしました。

 痛い思いや恐い思いをしないで、気軽に坐禅の仕方を覚えていただけるようにサングラハ式のソフトトレーニングでご指導申し上げます。どうぞ、お出かけ下さい。


 日時:2月15日(日)13時~17時

 場所:サングラハ教育・心理研究所 藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢駅北口から徒歩3分)





 参加費(資料代):学生1000円、一般2000円……当日でけっこうです

 定員:10名。  

 *坐禅のできるような緩やかな服装をご用意下さい(着替えスペースあり)。

 お申し込みは、メール:okano@smgrh.gr.jp か、ファックス:0466-86-1824 サングラハ教育・心理研究所宛で。



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第28期講座案内

2008年12月01日 | メンタル・ヘルス





 金融大恐慌の影響が、じりじり、じわじわと日本社会に迫り、拡がっています。にもかかわらず、政府・与党の対応はきわめて頼りない・不適切だと感じます。かといって野党なら安心して任せられる適切な方法を提示しているとも見えません。日本という国の混迷・迷走はいっそう激しくなっているようです。

 そうした中で、ストレスを抱え込み「どうにもならない」と思って行き詰ってしまう方が激増しているようです。こうした状況ですから、それはしかたないことなのでしょうか? 私たちは、必ずしもそうではない、と考えます。

 確かに外面の大きなことは個人ではすぐにはどうすることもできませんが、みんなで時間をかけて適切な方法で取り組めば解決可能だ、と私たちは考えています。

 そして、内面・心のことは個人がどうにか、あるいはかなりの程度どうにでも、できると思っています。といってももちろん、それにも適切な方法が必要です。

 個人の心の問題に取り組むための適切な方法として、今期は、手じかには論理療法、本格的には空思想の学びと坐禅による体験がふさわしいのではないか、と考え、28期のプログラムとしました。

 それぞれの学びを通して、ストレス状況の中にあってもへこたれない強く・賢い心を育てていただきたいと願っています。

 どうぞ、参加して、元気を取り戻して下さい。



 木曜講座:いやな気分の整理学――論理療法のすすめ

                          於 サングラハ藤沢ミーティングルーム(JR、小田急藤沢徒歩3分)
                          木曜日 18時45分~20時45分  全6回
                          1月①8日②22日 2月③5日④19日 3月⑤5日⑥19日
 

 本研究所主幹は、本年6月、『いやな気分の整理学――論理療法のすすめ』(NHK生活人新書)という本を出し、とても好評で十月下旬には四刷になりました。ある程度予測はしていましたが、予測以上にストレス・いやな気分に悩まされている人が多く、そうした方の需要にちょうど合っていたということなのでしょう。

 同じいやな・きびしい状況が、心の持ち方・考え方しだいで「耐えられない」ものにも「きついが、私なら耐えられる」ものにもなる、というのは半ば常識ですが、では実際にどういう考え方をどうして持てばいいのかは決して常識ではありません。

 論理療法は、どういう心の持ち方・考え方をすれば、いやな状況に流されていやな気分になってしまわないで済むか、とてもシンプルで順序立った、効果の高い方法を教えてくれます。

 本だけでもある程度は独習できますが、できれば直に学んでいただくほうがさらによく身につけていただけます。

 『いやな気分の整理学』(NHK生活人新書)をテキストに、ご一緒に学んで、タフな心を育んでいきましょう(藤沢ミーティングルームでお頒けできます)。

 
 金曜講座:『金剛般若経』を読む

                          於 不二禅堂(小田急線参宮橋徒歩5分)
                          金曜日 18時30分~20時30分 全6回
                          1月①16日②30日 2月③20日④27日 3月⑤13日⑥27日 
                           

 紀元一世紀前後、それ以前の派を「小乗」、自らを「大乗」と呼ぶ仏教の新しい潮流が興り、自分たちこそ釈尊の真意・深意を伝えるものだという自覚によって『般若経』と呼ばれる経典群が新たに多数書かれたといわれています。

 日本の仏教が「大乗仏教」であることは知られていますが、その教えの中身については必ずしもよく理解されていないようです。

 今期は、般若経典の中でも最も初期に属し、比較的短く、かつて『般若心経』についでよく知られていた『金剛般若経』(略して『金剛経』ともいわれる)を通して、大乗仏教の教えの基本を確認する学びを続けます。

テキスト:『般若心経・金剛般若経』(ワイド版岩波文庫)

*講義の前に30分程度の坐禅を行ないます。坐禅のできる服装をご用意下さい。


●受講料は、一回当たり、一般3千5百円、会員3千円、専業主婦・無職・フリーター2千円、学生1千円 それぞれに×回数分です。
 都合で毎回出席が難しい方は、単発受講も可能です。

●いずれも、申し込み、問い合わせはサングラハ教育・心理研究所・岡野へ、
 ・E-mail: okano@smgrh. gr. jp または ・Fax: 0466-86-1824で。
 住所・氏名・年齢・性別・職業・電話番号・メールアドレス(できるだけ自宅・携帯とも)を明記してください。

 

*火曜講座は、主幹のスケジュール過密のため、残念ながら、休止させていただいています。


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講話:けっしてくじけない心

2008年11月13日 | メンタル・ヘルス

 先日、大学の授業が終わって教室から出たら、廊下で前に授業を取っていた学生に会い、「二日に一度くらいはブログを見ています」と言ってもらいました。

 「今年の後期はとても忙しくてなかなか更新できなくて、失礼」と言い訳しながら、できれば忙しさに負けずがんばって更新したほうがいいな、と若干の反省をしました。

 そこで、少し前に書いた記事と重なるのですが、それをネタに先日O大学のチャペル・アワーで話した時の原稿を掲載することにしました。

 参考になればうれしいのですが。

            *       *

 今、日本も世界もなかなか厳しい時代になってきています。そこで、ぜひ必要なのは「けっしてくじけない心」だと思います。

 私は、集中講義も合わせると4つの大学で教えています。つまり、みなさんと同世代の若者とたくさんつきあっているのですが、個人的に話していてよく聞くのは、「落ち込む」「へこむ」「折れる」といった言葉です。

 あまり一般化しすぎないほうがいいのですが、傾向としていえば世代が若くなるほど、心理学用語でいうと「ストレス耐性」が低いように感じられます。

 しかし、これから残念ながら状況はますます厳しくなっていくかもしれませんから、ぜひストレスに耐えることのできる心の力を今からつけておいてほしいと思い、今日は、そのヒントになりそうな聖書の言葉を選びました。


 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。

 途方にくれても行き詰まらない。

 迫害に会っても見捨てられない。

 倒されても滅びない。

 いつもイエスの死をこの身に負うている。

 それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。

                (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)


 これは、キリスト教の大使徒パウロがコリントの信徒たちに送った手紙の中にある言葉ですが、読んでみると、彼がどんなことがあってもくじけない強い心をもっていたことがわかるのではないでしょうか。

 では、彼が実際にどのくらい厳しい・きつい体験をしてきているのか、同じ「コリント人への第二の手紙」の23節以下でより具体的に語っています。


 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……

 もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。

 苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。

 なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。
 だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。
 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

                    (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)


 これを読むと並たいていの苦労ではないことがわかりますね。

 しかしパウロは、それでもけっしてくじけなかったのです。「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。 倒されても滅びない」というのは、単なる強がりではありません。これは、ほんとうにすごいことですね。

 なぜ彼はこんなに強い心をもつことができたのでしょう。それをくわしく知るためには新約聖書の中のパウロが書いたとされる手紙をすべてしっかりと学ぶ必要があるということになりますが、今日は短い時間ですから、大切なポイントだけ学んでおきましょう。

 それは、この言葉の次にある「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである」という言葉が示していると思われます。

 ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。

 むしろ「ほんとうの人間」、志・使命のために生きて死んだ人のことだと思うのです。

 現代日本人の多くが、「人生は自分のため、自分が楽しむため、自分が幸福になるためにある」と強く思い込んでいるようですが、ほんとうにそうなのでしょうか。

 もしそうだとしたら、自分が楽しくなくなったり、幸福でなくなったりしたら、もう人生には意味がないということになります。そうなると、生きていてもしかたない、死にたいということになるでしょう。実際、少しつまらなかったり、きつい、つらいことがあったりすると、すぐ死にたくなる人、自殺願望を持つ人、実際に自殺をしてしまう人が多いようです。

 「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」という人生観は、一般的にいうととても当然のように思えますが、実はとてもストレス耐性の低い人生観なのです。

 もちろん、今楽しむことができ、幸福なのに、わざわざ苦しんだり、不幸になったりしなければならないなどとは、私も思っていません。できるのなら、悪いことをするのでなければ楽しむことはいいことですし、幸福を素直に喜べばいいと思います。

 しかし残念ながら、世界は私のためにあるわけでも私を中心に回っているわけでもありませんから、人生にはなぜか、どうしても苦しいことがやってきたり、不幸になったりすることがあるのです。

 そういう時にもくじけないためには、予めどんな人生観を持っておくといいでしょうか。「楽しくなくても幸福でなくても、それでも人生には生きる理由がある」という人生観を持っていると、当然ながら、苦しくても不幸でもしっかりと生き抜くことができます。そういう人生観はとてもストレス耐性が高いのです。

 「命」という漢字を考えてみましょう。これは「命令」の「命」です。それが示しているように、「命」には、原点・出発点からして、自分が生まれたくて生まれたのではなく、生まれさせられた、いわば「生きるように命令された」という面があるのではないでしょうか。

 また、それに関連して「使命」という言葉があります。「使わされた命令」とも読めますが、もうひとつ「命を使う」と読むこともできます。つまり、この言葉には、生きるということは「命を使うこと」であり、命を使うことは「使命を果すこと」でもある、という深い意味が秘められているのではないかと思います。

 それから、「使命」に似た「天命」という言葉もあります。命はまさに天から生きるようにと命じられて与えられたものです。そしてその命をどう使うか、天から命令が与えられている、というのが命の本質なのではないか、と私は思うのです。

 つまり、誰でも生まれてきた以上、天というか、大自然というか、宇宙というか、神というか、サムシング・グレイトというか、言葉はともかく、自分を超えた大きな何かから与えられた、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・私にできる仕事があるはずだ、と思います。

 そして大学とは、条件がいいとか。自分が好きとか、自分に向いているとかではなく、自分がやるべきこと・私にしかできないこと・ほんとうの意味で私にできる仕事が何かを発見するための準備期間なのではないでしょうか。

 そしてもちろん、イエスは自分の使命のために生きて死んだ代表的な存在の一人です。私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。

 新約聖書の最初のほうにある4つの福音書を読むと、それは、原理主義的なキリスト教のようにイエスを唯一絶対のキリストと信じても信じなくても、まちがいなく言えることだと思います。

 使命を自分が心から受け止めると、それは「志」ということになります。私たちが、自分がこの世に生まれてきた理由・使命を発見・自覚して、それを自分の志にしたら、人生でどんなことがあっても簡単にくじけたりすることはなくなります。人生は楽しみや幸福のためにあるのではなく、重大で困難な使命・志を果すためにあるのですから、困難・苦しみがあって当然ということになります。

 志に生きて、そして死んだ人を自分のモデル・理想にして、特にその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。

 自分の人生・生きることだけではなく、生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。 だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。

 それは、それでも、大いなるなにものかの意思は貫徹されるから、あるいは宇宙は進化し続けるからと言ってもいいでしょう。

 大いなる何かによって命を預けられた、そしてその命を使って使命を果すことにこそ命の意味・人生の意味がある、という人生観を獲得すると、どんなことがあってもけっしてくじけない強い心を持つことができる、きわめてストレス耐性の高いパーソナリティを形成することができると思います。

 これから厳しくなるかもしれない時代にあって、そういう人生観を持ったほうがいいか、それともやっぱり「人生は自分が楽しむため、幸福になるためにある」と思っているほうがいいか、どちらが、ほんとうに自分の人生のためになるか、せっかくキリスト教主義大学に来たのですから、いちどちゃんと考えてみる価値はあるのではないでしょうか。


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今日のことば 22: パウロの体験した苦難の数々

2008年09月10日 | メンタル・ヘルス

 原稿に追われ、その他いろいろな予期していなかった出来事が起こってきていて、なかなかブログの更新ができませんので、前回に関連した聖書の記事をご紹介しておくことにしました。


 繰り返して言うが、だれも、わたしを愚か者と思わないでほしい。もしそう思うなら、愚か者あつかいにされてもよいから、わたしにも、少し誇らせてほしい。
 いま言うことは、主によって言うのではなく、愚か者のように、自分の誇とするところを信じきって言うのである。多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。あなたがたは賢い人たちなのだから、喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。……
 もしある人があえて誇るなら、わたしは愚か者になって言うが、わたしもあえて誇ろう。

 彼らはヘブル人なのか。わたしもそうである。彼らはイスラエル入なのか。わたしもそうである。彼らはアブラハムの子孫なのか。わたしもそうである。彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う、わたしは彼以上にそうである。

 苦労したことはもっと多く、投獄されたことももっと多く、むち打たれたことは、はるかおびただしく、死に面したこともしばしばあった。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石でうたれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。

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 永遠にほむべき、主イエス・キリストの父なる神は、わたしが偽りを言っていないことを、ご存じである。

                    (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第11章16-31、聖書協会訳)


 使徒パウロは、あえて自分がどのくらいの苦労をしてきたのか、コリントの信者たちに神に誓って事実こうなのだと伝えています。

 このくらいの苦労をしてきた上で、前回のような言葉を語っていることを知ると、いっそうその重さがわかっていただけるのではないでしょうか。

 並みたいていの苦労ではありません。患難とか苦難という言葉で表現するほかないでしょう。

 しかしここでパウロは、自分はそれに耐えてきたと、単なる強がりをいっているのではありません。

 むしろ、自分は弱い、けれどもその自分の弱さの中にこそ神の強さが現われるのだ、といっているのです。

 手紙の最後のほうで、パウロはこうもいっています。


 私たちは、真理に逆らっては何をする力もなく、真理に従えば力がある。


 自力の強さの限界・弱さを知って、大いなるものの力に従い頼った時、人はほんとうに強くなれるというのです。



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今日のことば 21: 途方にくれても行き詰らない

2008年09月02日 | メンタル・ヘルス


  わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。

  途方にくれても行き詰まらない。

  迫害に会っても見捨てられない。

  倒されても滅びない。

  いつもイエスの死をこの身に負うている。

  それはまた、イエスのいのちがこの身に現れるためである。

                (新約聖書「コリント人への第二の手紙」第4章8-10節)


 キリスト教の大使徒パウロの言葉です。

 ここで語られている「イエス」は単なる歴史上の人物でも、単に原理主義的キリスト教で絶対視されている救世主のことでもない、と私は解釈しています。

 むしろ「ほんとうの人間」、志のために生きて死んだ人のことだと思うのです。

 もちろん、イエスはその代表的な存在の一人ではあります。

 私たちが、ただ楽にとか、楽しくとか、儲けて生きることだけでなく、意味を感じて生きて死ぬことを目指したいのなら、イエスの生と死は最高のモデルです。

 志に生きて、そして死んだその「死」を自分自身の覚悟として受け止めている人間は、どんな困難をも人生の課題・志を達成するための機会として捉えることができます。

 私の生と死を通じて、ほんとうの人間性・ほんとうのいのちが輝き出ることが人生だと思った人間には、敗北はありえないのです。

 だから、ふつうでいうともうどうにも「途方にくれても」、それでも「行き詰らない」、何度ダウンさせられても敗北しないのです。

 それは、それでも、コスモスは進化する、大いなるなにものかの意思は貫徹されるからです。

 人生の苦境にあるみなさん、そのことを思い出して、元気を出しましょう。




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今日のことば 20: 子どもたちが病気にならないように予防すること

2008年08月25日 | メンタル・ヘルス

 数日前から、ようやく本格的に『仏教とアドラー心理学』(仮題、佼成出版社より今秋刊行予定)の仕事(ワーク)にかかっています。

 構想はすっかり出来ていますし、ベースとして『サングラハ』に掲載した講義録もあり、夏休みの初め頃から、ぼつぼつ、断続的にやってはいるのですが、身の周りで優先しなければならないことがいろいろ起こり、なかなか集中できなかったのです。

 ホフマン『アドラーの生涯』(岸見一郎訳、金子書房、2005年、7400円)という分厚い伝記を参照して講義原稿の伝記的な部分に手を入れる作業をしながら、以下のアドラーの言葉を読んで、アドラーのアイデアがいかに先駆的であったか、改めて感心しています。


 「病気の子どもたちを治療することではなく、健康な子どもたちが病気にならないように予防することが、医学の論理的で高貴な挑戦である。」(アドラー「教育者としての医師」、1904年)


 これは、1904年、100年以上前の論文です。

 子どもたちの心の病・荒廃に対して、日本は100年以上遅れているのではないか、と思ってしまいました。

 相も変わらぬ、断片的な知識の詰め込み、受験競争、「意図しない、しかし必然的な結果」としての劣等感、自信喪失、落ち込み、社会への怒りと敵意等々を抱いた若者の大量生産……掛け声だけは「教育改革」……、あーあ。

 これは、翌1905年のアインシュタイン・一般相対性理論の持つ意味――エネルギー・レベルで見ると宇宙のすべては一体であるということ――が、日本の子どもたちに標準的な「普通教育」として伝えられていないことと対応しているように感じます。

 もっとも2500年前のゴータマ・ブッダの「縁起の理法」の教えが人類の標準的常識になっていないのですから、100年くらいの遅れなど、驚いたり、嘆いたりするには当らないのかもしれません。

 今度の本では、縁起の理法とアドラーの「共同体感覚」そして「勇気づけ」を統合的に理解し、現代人のための方便として使うといいのではないか、という提案をしたいと思っています。

 提案が日本の仏教界、心理学界、教育界などに本格的に受け容れられるには、まだまだ時間がかかりそうですが――前著『唯識と論理療法――仏教と心理療法・その統合と実践』への反応を見ていてもそう思われます――宇宙にはたっぷり時間があるので、焦らないことにしています。




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