南淵先生の墓

2008年04月18日 | 歴史教育




                   法隆寺・夢殿の桜



 少し前の話ですが……春休みはほとんど休みにならず、大学が始まったらまたさらに忙しいので、なんとか無理に暇を作って、4月5日から8日まで、京都・奈良に取材6割観光4割の旅行に行ってきました。

 2月のスウェーデン・フィンランド視察の後、「スウェーデン・フィンランドはすばらしい! それでも、やっぱり移住しようとは思わない。日本にとどまって、日本を緑の福祉国家にしたい」のはなぜだろう、と自分の心のうちを探っていました。

 そうしているうちに、どうしても京都・奈良に行きたくなった、というのも一つの理由です。

 特に、前から一度お参りしたいと思っていた、飛鳥の石舞台のさらに奥、稲淵にある南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の墓を訪ねてみようと思ったのです。

 請安は、聖徳太子の命を受けて、608年小野妹子に従って隋に留学した学問僧で、隋滅亡後も唐に留まって32年間も学び、太子の亡くなったはるか後640年に帰国した学問僧ですが、やがて事情があって中央政府から身を引いたようで、飛鳥の奥の小さな山村に引きこもって小さな塾をしていたといわれています。

 若き日の中大兄皇子や藤原鎌足や蘇我入鹿がその塾に通って、儒学やとりわけ唐の律令制について学んだと伝えられています。

 後に大化の改新で倒す側と倒される側に分かれる三人は、若き日には学友であったのです。

 馬を並べることのできるほどの道はなかったようですから、三人はのどかな田園風景の中、小さな山道を後先になって一列で請安先生の塾に通ったこともあったでしょう。

 しかし、行き帰り、中大兄皇子と鎌足が二人だけになった時には、蘇我氏打倒の策を練っていたとも伝えられています。

 そうしたエピソードにも歴史のドラマを感じるのですが、それだけでなく、山里の小さな塾で若き日の彼らが学んだことがやがて日本の古代律令国家の成立につながっていったということに、自分が今やっていることを重ねてしまうのです。

 ヴィジョンは、最初の学びはごくささやかなところでなされたとしても、それが一つの国のシステムとして実現された時、大きな出来事になります。

 律令国家における「班田収受」は、取り方によって「人民の支配と搾取のシステムの完成」と読めないこともありませんが、むしろ「日本国民と生まれれば、働きさえすれば食べていける――なにしろ男女を問わず生まれたらかなりの面積の田んぼをもらえるのですから――ある意味での福祉国家の成立」と解釈することもできます。

 私は、聖徳太子「十七条憲法」における「和の国」の理想をあるレベルで実現した、少なくとも実現を目指したのが律令国家だ、と解釈しています(これは事実かどうかというより、歴史という〈物語〉の解釈としてということですが)。

 明治維新前の松下村塾ももちろんですが、むしろ南淵請安のささやかな草葺(だったでしょう)の私塾にこそ、日本の国家理想の一つの原点があるのではないか、という思い入れがあったのです。

 訪ねてみると、村の中央の小さな丘の上、一本の大きな桜の木の下に、小さな祠があり、その横手にささやかな「南淵先生之墓」がありました。








 千数百年ひっそりと、しかし今も集落の人々によって大切に守り続けられているようでした。





 帰り道、「日本の棚田100選」にも選ばれているという稲淵の美しい棚田の菜の花を見ながら、妻と二人、「こういう奥ゆかしいところがいいねえ」と話したことです。





 いろいろ問題が山積しており、欠点も多い日本という国を、なぜ好きなのか。

 それは、親と同じく母国は選べないという理由だけでなく、日本の文化と自然のこうした奥ゆかしい美しさへの愛着なのだな、と改めて確認する旅でした。

 美しかった日本を、もう一度、もっと美しい国にしたい!



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