山本七平『「空気」の研究』に大きな示唆を受けて、これから「持続可能な国づくり」についての広報戦略をどうするか考えています。
日本人が論理ではなく「空気」で動くということは、長い伝統によって根付いた国民性ですから、今日明日に変えることはもちろん不可能でしょう。
では、すでに始まっており、これからますます深刻化すると思われる環境の悪化――奄美大島の「記録的豪雨」は「今回不幸にしてたまたま」ということではなく、この夏の「記録的猛暑」と同じく、まさのその一つの表われだと思われます――とそれによる社会・経済の混乱に適切な対応ができる可能性はゼロなのかというと、かならずしもそうではない、と考えられます。
適切な対応ができるような「空気」が醸し出され、それを適切な方向へリードできるリーダーがいれば、日本人は適切な対応をできる大きな力をもった国民でもあるようです。
ですから、「空気」が醸し出されさえすれば、また一丸となって戦えるでしょう。
山本氏も、日本人が「空気」で動くことがいつもマイナスではない、どころか明治維新と戦後の奇跡の経済復興を遂げるという大変なプラス面があったことを公平に指摘しています。
「空気」とは何かについて述べている個所を見ていく前に、その部分を見ておいたほうが、あわてて「じゃあ、日本はもうダメだ」と絶望し諦めてしまわないで済むかもしれません(『「空気」の研究』に収録されている「『水=通常性』の研究」より引用、p.152-4、改行は筆者)。
幸か不幸か、確かにわれわれは、一つの力(エネルギー)に支配されている。これは否定できない。では一体、昔も今もわれわれを支配している「何かの力」とは何なのか? その力に抵抗することは不可能なのか?
確かに「何か」と言っている間は不可能である――というのは、実体のわからないものには対抗はできないから。従ってもし……多くの人がさまざまの〝問題〝で感じている「何かの力」に本当に対抗し、この呪縛のような力から脱却することを望むなら、その「何か」を解明して、再把握し、これに対処する以外に方法はない。
そしてその「力」は外部か来るはずはなく、われわれの内部すなわち日々の生き方の規範の集積の中に、いわばその通常性という無意識の規範の中にあるはずである。というのは無意識でないならば、われわれがそれに自滅するまで支配されることはあり得ないからであると同時に、これが一つの力である限り、それは必ずしもマイナスにのみ作用するとは限らず、その力はプラスにもマイナスにも作用しているはずである。
そしてプラスに作用した場合は、奇跡のように見えるであろう。明治の日本をつくりあげたプラスの「何かの力」はおそらくそれを壊滅させたマイナスの「何かの力」と同じものであり、戦後の日本に〝奇跡の復興〃をもたらした「何かの力」は、おそらくそれを壊.滅さす力をもつ「何かの力」のはずである。
その力がある方向に向くときに得た成果は、その力が別の方向に向いたときには一挙に自壊となって不思議ではない――その力をコントロールする方法を持たない限りは。
ではここで、われわれはもう一度、何かを決定し、行動に移すときの原則を振りかえってみよう。それは「『空気』の研究」でのべたとおり、その決定を下すのは「.空気」であり、空気が醸成される原理原則は、対象の臨在感的把握である。そして臨在感的把握の原則は、対象への一方的な感情移入による自己と対象との一体化であり、対象への分析を拒否する心的態度である。従ってこの把握は、対象の分析では脱却できない。
日本人が「空気」によって動くことで発揮する力を、どうしたら適切にコントロールできるかということがテーマであるわけですが、そのためにはまず「空気とは何か」を「解明して、再把握」することが必要だ、と山本氏は言っています。
そして、上記引用の最後のところでまとめを述べています。本ブログでは、今後、その内容を見ていきたいと思っています。
しかし、重い内容であることと、筆者の多忙のためとで、やや時間がかかり、断続的になると思いますが、問題意識を共有していただける読者には、ぜひ辛抱しておつきあいいただきたいと願っています。