利己性(self-interest)は変わらない人間の本性?

2011年11月25日 | 持続可能な社会

 最近改めて「どう考えても新自由主義市場経済のグローバリゼーションは原理的にエコロジカルな持続性と一致しないんだけどなあ(でも、方向転換の必要を感じてない、またはしたくない人が多いのか、あまり変化の兆しが見えないなあ)」と思いながら、その関連で「自由主義経済の元祖アダム・スミスはどんなこと言っていたんだっけ」と、『世界の名著37 アダム・スミス』(中央公論社)のページをぱらぱらとくっていたら、次のような言葉があり、うーむとうなりました。

 さすがに古典というものは人間の姿を実によく捉えてい――る面があり――ます。

                 *

 いまシナの大帝国が地震のために、その無数の住民とともに陥没したと仮定せよ。しかして、かかる地球の一角に何ら関係のないヨーロッパの人道の士が、このおそるべき災害の報に接してどのように感じるかを考察してみよう。

 ひそかに思うに、彼はまずこの不幸な人々の災難に対して強い哀悼の情をあらわし、人間生活の無常なることや、瞬間にして潰滅しさる人の営みの虚しきことについて、幾多の憂鬱な想いにふけるであろう。

 また彼が投機的な人間であるなら、おそらくこの災害がヨーロッパの商業、ひいては世界の商取引き一般に及ぼす影響について多くの推察を試みるであろう。

 さて、すべてこうした哲学が一段落を告げ、こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事が全然突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こるもっともささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである。もしもあした、彼の小指を切り落とさなければならないとするなら、彼はたぶん、こよいは寝もやられぬであろう。
                    (アダム・スミス『道徳情操論』より)


 「シナの大帝国」を「東日本」と、「ヨーロッパの人道の士」を「東日本以外の市民」と置き換えれば、そのまま今の日本の状況の描写になりそうです。

 そして、もし人間の本性がこうでしかありえない、変化・発達不可能なのだとしたら、エコロジカルに持続可能な社会は不可能でしょう。

 市場はともかく、地球生態系には「神の見えざる手」は働きそうもありません……もっとも人類が滅んだ後なら、ふたたび人類を含まないエコロジカルに持続可能な生態系が復活するでしょうから、そういう意味での「見えざる神の手」は必ず働くのでしょうが。

 どう考えても、利己主義・エゴイズムを超えた意識の進化なしには、私たちの国も世界も前に進むことはできないと思われます。

 進化史の知識からすると、生物の種は進化の行き詰まりに達したとき、飛躍的な変容を遂げて生きのびるか、飛躍できなくて絶滅するか、のどちらかになるほかないようです。

 さて、みなさんはどちらの道を選択しようと考えられますか? それとも新自由主義市場経済のグローバリゼーションという方向のままでも、人間を含んだ地球生態系は持続可能だと考えられますか?

コメント (4)
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