般若経典のエッセンスを語る34ー精進が完成するように

2021年08月15日 | 仏教・宗教

 今日は、「終戦記念日」です。筆者は、「敗戦記念日」と呼んだほうが適切だと考えていますが。

 1945年8月15日の敗戦は、明治維新以来、「富国強兵」「欧米列強に伍す」「追いつき追い越せ」をスローガンに努力した大日本帝国が挫折したことを意味すると思われます。

 以後、日本国は、「強兵」は放棄し勤勉な国民性を活かして「富国」に向かい、経済復興、経済成長、ジャパン・アズ・ナンバーワン、一億総中流……に達した後、バブル崩壊、格差社会、少子高齢化社会、地方の衰退などなどの問題を抱え、直近はコロナ感染の拡大をコントロールしきれず、そしてきわめて広範囲の記録的大雨による災害がまだ続いています(雨が早く止むこと、災害がなるべく少ないことを祈っています。被災者の方に心からお見舞い申しあげ、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします)。

 日本はこれからどうなるのだろう、よりよい国になるのだろうか、という不安を抱いている方も少なくないと思いますし、筆者も深く危惧しています。

 そうしたなか、他の仕事に手を取られていたことと、夏の暑さにかなりまいりかかっていたことで中断していた「般若経典のエッセンスを語る」の掲載を再開することにしました。

 一切衆生・生きとし生けるものすべてが幸せである「仏の国土」のようなすばらしい国に日本をすることができるのか、大きなヒントが「般若経典」にはある、と考えているからです。

 夏バテ気味なので、次々と書き続けることができるかどうか、あまり自信がないのですが、ともかく再開することにしました。

 続けて読んでくださっていた読者のみなさん、お待たせしました。この後も、原稿の進み具合がまどろっこしいかもしれませんが、気長にお付き合いいただけると幸いです。

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 第四願は六波羅蜜の第四「精進」に関する願、「精進成就解脱具足」で、「精進が完成し輪廻からの解脱が得られる」ようにという願である。

 

 ……菩薩大士が精進波羅蜜多を修行していて、もろもろの衆生が怠惰で精進しようとせず、三乗を捨て人間界・天界の善業も実践できないのを見たならば……「私は渾身の努力をし身命を顧みず……我が仏国土の中にはそうした怠惰なもろもろの有情たちがおらず、すべての有情が熱心に精進して善い生存形態や三乗の原因になることを実践し、天界や人間界に生まれて速やかに解脱が得られるようにしよう」と。……

 

 『大般若経』の他の個所で六波羅蜜は相互に促進し合うことが述べられている。なかでも「精進」は、特定の何かをするというより、他の五波羅蜜すべてを実践するうえでの基本姿勢だと言っていいだろう。自らの覚りと衆生の救済に向かって、ひたすら一心に渾身の努力をしていくという心の姿勢である。

 人間は、何もしないでいると確かに当面は楽だが、やがて衰えていく。長期入院しリハビリが十分でない患者が驚くほど短期間に衰えていくことは、身近で体験した人なら誰でも実感する事実である。

 人間は、単に現状維持するだけでも一定程度は動いている必要があるが、まして成長・成長を目指すのであれば、負荷をかけてトレーニングする必要がある。

 スポーツや体の健康維持については、多くの人が実行するかどうかは別にして、それは認めるだろう。しかし、心の健康維持や強化や向上にもトレーニングは必須であることは、やや忘れがちであるように見える。

 しかも、凡夫は自分しかも現状の自分を実体視しているために、今の自分を楽にしたり楽しくしたりすることが自分にとっていいことだ・自分の得だと考えがちである。

 しかし、怠惰という業が積み重なると必ず身心を衰えさせる。人間の身心は無常なるもので変化するものであり、その変化はプラスとマイナスのどちらにも向かいうるのであり、怠惰は何もしないことをすることで自分をマイナスに向かわせるのである。

 私たちが、個人として人間なみの水準やさらに天界というほどの高い水準へと向上し、いっそう高い心の自由の境地・解脱へと人間成長を遂げ、社会としては貧困も飢餓も憎み合いも紛争・戦争もない美しい国を創り出したいのなら、精進という姿勢は必須である。

 多くの人が、自分が楽をすることや楽しむことが人生だと思っている――個人主義と快楽主義――かぎりは、個人も社会も現状維持さえ困難であり、それどころかむしろ劣化していくだろう。日本という国は、ここのところ残念ながら個人主義と快楽主義による劣化のプロセスに入ってしまっているのではないか、と筆者は危惧している。

 すでに長く実践してきて精進の個人と社会にとっての意味を深く体験的に知っている菩薩は、人々が目先の楽さや楽しみに溺れてやがて結局は衰え堕落していくことのないよう、まず自らが「精勤して身命を顧ず・渾身の努力をし身命を顧みず」という姿勢の手本を示して、人々を精進へと促すのである。

 そして、もちろん人々が共に住む美しい仏国土は、菩薩だけで創り出すことはできない。リーダーとしての菩薩と人々が共に労を惜しまず、時には身命も惜しまないほどの渾身の努力をする必要がある。

 因みにこの「精進」という徳目は、ただ出家した人のものだっただけではなく、その教えが日本人の勤勉さを育んできたことも指摘しておきたい。

 今、私たち日本人は、この精進という心の姿勢を勤勉さという以上に『大般若経』の語っているより深い意味で再発見・再獲得する必要があるのではないか。もしそれができれば、日本は劣化ではなく向上のプロセスに入ることができるだろう、と筆者は考えている。

 

*連載の番号を間違えました。35→34でした。お詫びして訂正します。

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