遊工房さん私の原風景の画像とその記事を探してコピーしましたので一緒に載せていただいてもいいでしょうか。よろしくお願いします。
2007.9.24 記
平和を願いつつ・・・・6歳の女の子の体験談
総裁選もお決まりコースで終わり、信頼回復とか、安定性、癒し系等と新総理に期待をしているようだが、どのように変わるというのか。不安を抱えての出発である。国民には何の権限もない総裁選演説など意味があったのだろうか。
とにかく我々は平和を願うばかりである。・・・というわけで平和への願いを込めて私の体験談を書きたいと思う。
…戦時中・戦後あの頃の私… (NO1)
こんな言葉を聴いたことがありませんか…「ほしがりません勝つまでは」 私たちの合言葉だった。
小学校入学前の年まで戦時中は川崎の溝口に住んでいた。川崎には軍事工場があったため、敵機に狙われることが多く日夜空襲警報が鳴りひびき、防空壕と家を行き来する日々だった。
ある日の夕方いつものように警報がなり、近くの防空壕に飛び込んだ瞬間、ものすごい爆音とともに防空壕が揺れた。いつもの焼夷弾とは違う爆音だった。この防空壕は家の近くにある小高い山のすそに穴を掘り30人ぐらいが入れるように作られていた。山の周りにはいくつかの同じような防空壕があった。
私たちが避難しているすぐ後ろの防空壕に爆弾が落ちたのだ。
「山が崩れるよ~…」と叫ぶ声。周りの壁土が落ちてくる。そんな中で本当に恐怖を感じると泣くことも涙も出てこないのだ。 ただ息を止めてじっと母の体にしがみついていたことを覚えている。
翌朝裏山に行くと防空壕はすり鉢のような大きな穴があいていた。そこに避難していた多くの人たちが亡くなってしまった。その中には昨日まで一緒に遊んでいた翔子ちゃんもいた。火山噴火の跡のような防空壕を見て、「次は自分たちだ…」 と思った母はすぐ山梨の父方の親戚を頼って疎開をすることにした。
田舎に疎開したお陰で家族は生き延びることができた。しかし今までの住んでいた家とは大違いで鶏小屋のすぐ横にある物置のような所で、6畳一間に母と3人の子供、そして少しばかりの家具があった。鶏の泣き声とにおいに困惑したが、あの敵機来襲の音、焼夷弾から逃れる怖さを考えると鶏の泣き声や匂いなど比較の類ではない。
お風呂は家の外にドラム缶を置いて川の水を汲みこんで沸かすのである。川の水を貯めたり燃木を探すのは子供の仕事であった。キラキラ光る星空を眺めながらの入浴、今露天風呂に入るとあの頃のことを思い出す。ドラム缶のお風呂も週1回ぐらいで後は近所に「もらい湯」をした。
甲府が大空襲にあった夜、私は疎開先の山の中腹から甲府方面の空が真っ赤に染まっているのを見た。その日甲府市内は全焼したのであった。翌日夜が明けると母は食料をあるだけ背負って、親、姉妹を探しに行ったのである。歩いていく途中道路には死人が横たわり、傷つき血を流しながらうづくまっている人、川には風船を膨らませたような死体が一杯浮かんでいたそうだ。燃えさかる熱さを逃れみんな川に飛び込んだのだ。
昭和20年7月6日甲府大空襲の跡(甲府歴史資料館より)
母の実家はもちろん跡形もなく焼け野原になっていた。どこをどう探せばよいのか途方にくれていた時、死体はトラックに積んで太田町公園に運んでいる事を耳にし、すぐ駆けつける。その光景は話では到底言い表せないと後に母は話してくれた。山のように積まれた死体を覗き込んで捜すなどという死体の数ではなかったという。
半分諦め掛けて実家の跡地に戻ると、泥の中から這い出してきたような姿の親、姉妹がいた。どこをどう逃げ回ったのか火に追われ市内から遠く離れた田舎の田んぼの中に逃げていたそうだ。
甲府の大空襲の光景を見た母は、その後ずーと後まで寝ているとき魘されるのである。音として書き表せないような振り絞った悲痛な声を出していた。心の傷跡の大きさを考えるとそれを乗り越えてきた私達より上の世代の人たちの力強さと忍耐力と頑張りに頭の下がる思いがする。
終戦の年、私は尋常小学校に入学する。3年生ぐらいまで疎開っ子としての田舎での生活が続く。子供にとっての戦後の苦しみはやはり食べ物であろう。お弁当はサツマイモかトウモロコシの粉で作ったお焼きなどで、銀シャリのおにぎりなどは夢の夢である。釜のふたを開けると麦や刻んだ芋ばかり、お米も日用品もすべて配給制なので不足し、母は自分の着物とお米と物々交換をするのである。
しかしどんなに苦しい時でも子供は遊びは得意、大人は生きることに精一杯で子供の相手などしていられない。川で泳ぎ、土手を転がり、山中を駆け回る、お腹がすくと他所の桑畑に入り桑の実を食する。土手に生えているイタドリという草の茎を食べたこともある。手や口の中を紫に染めて遊びまわった。
今も麦飯は私は苦手である。あの当時、麦ばかりのご飯を食べ続けたから……あの時代を過ごしてきた私には腹八分目(健康にはいいというが)はどうも通用しない、食べ物がある時にはお腹一杯食べておくことが自然と身についてしまい、いまだに食べ過ぎる傾向にある。そして早食いでもある。
私は今まで戦争について書いたり話したりしたことがなかったような気がする。子供の目で見た戦争の悲惨さを書いてみた。
世界のどこかで常に弱いものが犠牲になっている今日この頃、戦いはやめてほしいと願わずにはいられない。人間一人の命は権力者であれ孤児であれ同じ重みがあるということを忘れてはいけない。イラク問題・テロとの戦い 理由はいろいろあるだろうが、 一人々が自分の大切な家族にあの悲惨な思いをさせてはいけないと思えば、戦争など起こるはずがない。戦争は二度と繰り返してはいけない。
書きたいことはいっぱいある……例えば防空壕での酸欠事件・ 大家のおにぎりが消えた・ ジープとガム 次回にまた書こうと思っている。