natu blog

写真付きで日記や趣味を書く日々を過ごしながら・・・

日帰りは疲れる~~

2013年08月20日 | インポート


山梨に日帰りで出かけた。朝早く食事なしで出かける。特急あずさに乗るのは久しぶりである。いつもは2、3回の乗り継ぎで旅費を安くあげるのだがこの暑さで日帰りとなると特急に乗るしかない。

爺の甥の一周忌で昨年50歳という若さでガンでなくなったのである。甥の子供の長女は父親が勤めていた銀行に就職し長男は大学生で家族は東京暮らしだが、長男を亡くした義妹は山梨で一人暮らしである。東京で一緒に暮らす気はないと言い張っている。

でもひとり暮らしはさみしいと嘆いていた。もう田舎には嫁さんも孫たちも帰っては来ないだろうがあの広い土地や屋敷を守っていくのも大変なことである。

義妹「姉さん また兄さんに9月頃来て欲しいのだけどいいかしら?」

私「いつでもどうぞ!一週間と言わずに半年でも一年でもいいのよ・・・」とその声に義姉は苦笑気味だった。ちょっと言い過ぎだったかも・・・・・・

会食を終えて東京に帰るその義姉と甥の運転で爺と私は上野まで一緒に帰ってきた。途中すごい渋滞で車の中では姉の昔話を聞きながら長時間が過ぎていった。爺のすぐ上の姉なので小さい頃はよく一緒に遊んだようであの頃の可愛い弟の姿がそのまま残っているようだった。

爺の姉妹にはいつまでも優しい可愛い弟なのである。なぜなら一緒に暮らしたのは子供の頃で爺は大学は寮生活でそれ以後は一緒の生活はなかったからあの頃の真面目で可愛らしい事しか記憶にはないのだ・・・・・・だから滅多なことは話せない感じである。


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静かなお盆だった

2013年08月15日 | インポート
今朝の朝顔の色はこれ が一番気に入った。

                   

今年のお盆は息子たちは誰も来なかった。来ると大変だが誰も来ないとやはりさみしいものだ。息子たち家族も子供中心の楽しみ方をしているのだろう。

静かな盆を迎えてすることは趣味の洋裁ぐらいである。同じようなものを何枚作っても仕方ないが、何かしていないと落ち着かない貧乏性だ。

暑さで外出はしたくない。

今使っている文鎮でも載せよう・・・・18年前作ったもの(1995年)牛革で縫い合わせるのだがこれは斜めに針を入れて手縫いをするのである。
穴あけも中身は鉄の塊なので微妙な縫い合わせで苦労したものである。もう一つは白のヤンピーで縫い合わせている。

いま布を押さえるのに便利で使用している。こうして使いこなしていると革は手油でいい味が出てくる。

                       
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蚊の攻撃に耐えかねて・・・・

2013年08月13日 | インポート
毎日水やりのたびに痒い痒いとヒーヒー言いながらキ●カンを手放せない私の姿を見て爺がホームセンターから買ってきてくれた。

網付きの帽子 これ↓

                   

蚊を寄せ付けないスプレーと腕輪は用意してあったのだが、最近は蚊のヤツも学習して顔や首を狙うのである。

このシワだらけの顔が赤く膨れ上がるのを見て流石の爺も可哀想だと思ったのかこの帽子を買ってきてくれた。

早速夕方この帽子をかぶり冬用のハイソックスを履き、この30度をこす暑い中で長袖二枚を着て腕輪を付けての水やりを始めた。

「大げさすぎるなぁ~」と笑いながらそのスタイルがお似合いだよと言って写真を撮り始めた。

                   

おかげで今日は一箇所も刺されずに済んだ。庭の葉の裏に空蝉を見つける。

             


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原風景の記事

2013年08月10日 | インポート
遊工房さん私の原風景の画像とその記事を探してコピーしましたので一緒に載せていただいてもいいでしょうか。よろしくお願いします。

2007.9.24 記

平和を願いつつ・・・・6歳の女の子の体験談

総裁選もお決まりコースで終わり、信頼回復とか、安定性、癒し系等と新総理に期待をしているようだが、どのように変わるというのか。不安を抱えての出発である。国民には何の権限もない総裁選演説など意味があったのだろうか。
とにかく我々は平和を願うばかりである。・・・というわけで平和への願いを込めて私の体験談を書きたいと思う。

     

               …戦時中・戦後あの頃の私… (NO1)

こんな言葉を聴いたことがありませんか…「ほしがりません勝つまでは」 私たちの合言葉だった。

小学校入学前の年まで戦時中は川崎の溝口に住んでいた。川崎には軍事工場があったため、敵機に狙われることが多く日夜空襲警報が鳴りひびき、防空壕と家を行き来する日々だった。

 ある日の夕方いつものように警報がなり、近くの防空壕に飛び込んだ瞬間、ものすごい爆音とともに防空壕が揺れた。いつもの焼夷弾とは違う爆音だった。この防空壕は家の近くにある小高い山のすそに穴を掘り30人ぐらいが入れるように作られていた。山の周りにはいくつかの同じような防空壕があった。

私たちが避難しているすぐ後ろの防空壕に爆弾が落ちたのだ。
「山が崩れるよ~…」と叫ぶ声。周りの壁土が落ちてくる。そんな中で本当に恐怖を感じると泣くことも涙も出てこないのだ。 ただ息を止めてじっと母の体にしがみついていたことを覚えている。

翌朝裏山に行くと防空壕はすり鉢のような大きな穴があいていた。そこに避難していた多くの人たちが亡くなってしまった。その中には昨日まで一緒に遊んでいた翔子ちゃんもいた。火山噴火の跡のような防空壕を見て、「次は自分たちだ…」 と思った母はすぐ山梨の父方の親戚を頼って疎開をすることにした。

  

 田舎に疎開したお陰で家族は生き延びることができた。しかし今までの住んでいた家とは大違いで鶏小屋のすぐ横にある物置のような所で、6畳一間に母と3人の子供、そして少しばかりの家具があった。鶏の泣き声とにおいに困惑したが、あの敵機来襲の音、焼夷弾から逃れる怖さを考えると鶏の泣き声や匂いなど比較の類ではない。

お風呂は家の外にドラム缶を置いて川の水を汲みこんで沸かすのである。川の水を貯めたり燃木を探すのは子供の仕事であった。キラキラ光る星空を眺めながらの入浴、今露天風呂に入るとあの頃のことを思い出す。ドラム缶のお風呂も週1回ぐらいで後は近所に「もらい湯」をした。



 甲府が大空襲にあった夜、私は疎開先の山の中腹から甲府方面の空が真っ赤に染まっているのを見た。その日甲府市内は全焼したのであった。翌日夜が明けると母は食料をあるだけ背負って、親、姉妹を探しに行ったのである。歩いていく途中道路には死人が横たわり、傷つき血を流しながらうづくまっている人、川には風船を膨らませたような死体が一杯浮かんでいたそうだ。燃えさかる熱さを逃れみんな川に飛び込んだのだ。


       昭和20年7月6日甲府大空襲の跡(甲府歴史資料館より)

母の実家はもちろん跡形もなく焼け野原になっていた。どこをどう探せばよいのか途方にくれていた時、死体はトラックに積んで太田町公園に運んでいる事を耳にし、すぐ駆けつける。その光景は話では到底言い表せないと後に母は話してくれた。山のように積まれた死体を覗き込んで捜すなどという死体の数ではなかったという。

半分諦め掛けて実家の跡地に戻ると、泥の中から這い出してきたような姿の親、姉妹がいた。どこをどう逃げ回ったのか火に追われ市内から遠く離れた田舎の田んぼの中に逃げていたそうだ。

甲府の大空襲の光景を見た母は、その後ずーと後まで寝ているとき魘されるのである。音として書き表せないような振り絞った悲痛な声を出していた。心の傷跡の大きさを考えるとそれを乗り越えてきた私達より上の世代の人たちの力強さと忍耐力と頑張りに頭の下がる思いがする。

終戦の年、私は尋常小学校に入学する。3年生ぐらいまで疎開っ子としての田舎での生活が続く。子供にとっての戦後の苦しみはやはり食べ物であろう。お弁当はサツマイモかトウモロコシの粉で作ったお焼きなどで、銀シャリのおにぎりなどは夢の夢である。釜のふたを開けると麦や刻んだ芋ばかり、お米も日用品もすべて配給制なので不足し、母は自分の着物とお米と物々交換をするのである。

しかしどんなに苦しい時でも子供は遊びは得意、大人は生きることに精一杯で子供の相手などしていられない。川で泳ぎ、土手を転がり、山中を駆け回る、お腹がすくと他所の桑畑に入り桑の実を食する。土手に生えているイタドリという草の茎を食べたこともある。手や口の中を紫に染めて遊びまわった。

今も麦飯は私は苦手である。あの当時、麦ばかりのご飯を食べ続けたから……あの時代を過ごしてきた私には腹八分目(健康にはいいというが)はどうも通用しない、食べ物がある時にはお腹一杯食べておくことが自然と身についてしまい、いまだに食べ過ぎる傾向にある。そして早食いでもある。

私は今まで戦争について書いたり話したりしたことがなかったような気がする。子供の目で見た戦争の悲惨さを書いてみた。

世界のどこかで常に弱いものが犠牲になっている今日この頃、戦いはやめてほしいと願わずにはいられない。人間一人の命は権力者であれ孤児であれ同じ重みがあるということを忘れてはいけない。イラク問題・テロとの戦い 理由はいろいろあるだろうが、 一人々が自分の大切な家族にあの悲惨な思いをさせてはいけないと思えば、戦争など起こるはずがない。戦争は二度と繰り返してはいけない。

書きたいことはいっぱいある……例えば防空壕での酸欠事件・ 大家のおにぎりが消えた・ ジープとガム 次回にまた書こうと思っている。

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タイム-スリップ

2013年08月08日 | インポート
これはテレビで見た花火である。花火の上手な撮り方という番組があり私の持っているような格安のカメラなら連写をしておけばその中のい1枚ぐらいはいいものがあるという。

              

9時半の予約でへヤーカットに行ってきた。

担当美容師さんに「ベリーショートカットでお願いね!」と頼むとまたベリーですかと笑いながら私のファイルを持ってきた。

数年前のベリーショートの写真など4、5枚貼り付けてあった。その中から一枚選んで注文する。

美容師「ナツさんはそのうちに坊主にしてくれといいそうですね」・・・一度はしてみたいという願望はあるが・・・・

美容院から出てご当地ブティック(安物店)で洋服を見ていると突然「それ似合いませんよ」と声をかけられる。振り返るとそこには以前我が家に通ってきていたレザークラブの仲間がいた。何年ぶりだろ懐かしい!!

店の中での長話はできないので近くの喫茶店に行き一時間ぐらいおしゃべりをした。43歳の一人娘がまだ結婚しないで一緒に暮らしているが喧嘩が絶えないと言って嘆いていた。17、8年前物作りを楽しんでいた頃は娘さんにもいくつか縁談の話はあったが望みが高くて嫁に出せなかったのを思い出した。

あの頃思い切って嫁に出しておけばよかったと反省気味だった。あの頃は婿探しだったようである。

以前の仲間が今年年賀状を出したが返事がないので元気なのかな?と心配していたよ。同じ地域に住んでいるが去年から顔も見ないのでDさんも心配していたという。そういえば二年続いて喪中だったので年賀状を出していなかったのだ。それに今年は家出中で尚更年賀状どころではなかった。。。。と大笑いしながら状況を話した。

久しぶりにタイムースリップして華やいだあの頃に戻れた感じだった。

先日帯のリメイクで作ったバッグを失敗したので、もう一度物入れを作ってみた。残り物を使って二色使いの手紐で重みに耐えられるように頑丈に作ってみた。

              
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