ふわり・舞う・毎日

気持ちに余裕がないと、心の泉が枯れちゃうもんね。

またですか。

2010年03月09日 | 日常雑記
東京に住む友人から久しぶりのメールが届いた。
と思ったら、共通の友人(同級生)が薬物絡みで逮捕され、出所したという話だった。

「何やってるんだかなぁ、あの人」
もう10年以上も会っていないその同級生の事件に、私の感想はそんな感じだった。
そしてその話を別の同級生に教えたところ、

「悔しい」

という返事が来た。
彼はうつ病を患い、もう何年も病と闘っている。

「麻薬みたいな薬を毎日大量に飲んでいる身としては
何で薬なんか…と悔しさを覚える。
薬漬けでいつ、痴呆になるかとどきどきしてるのよ。まぢで。」
と、彼。
そのメールを読んで、私はふと、以前に勤めていた知的障害者施設のことを思い出した。

施設に勤めるまで、「知的障害」というものについての私のイメージは、
「言葉や物事に対する理解が良くないため、日常生活や他人との意思疎通に支障を来たすもの」
だった。
けれどもそれは、知的障害の一部でしかなかった。
知的障害=脳の活動になんらかの障害がある状態。
だから例えば、こんなことも起こる。

・痛みを感じる感覚が鈍い
→骨を折っていても本人は気が付かず、周囲が仕草の異変によって気が付く。
→重大な病気が見過ごされ、症状が表面化した時には手遅れになることも。
→痛いからイヤだ、という感覚にならないため、刃物のような危険なものでも平気で触ってしまう。

・褒められるのが「嬉しい」という感覚に乏しい
→子供などは「何かをする、褒められる、成功体験として記憶し次のステップへ進む」というのが成長にとって必要な流れだが、褒められることが嬉しいと思えなければ成功体験にもならないし、次のステップにも進みにくい。

・暑い、寒い、(汚れて)気持ちが悪い、という感覚が鈍い
→ケガや病気になりやすい環境になってしまう。

……などなど。
もちろん程度や出方は人それぞれなわけだけれど、総合的に言えば、本来生物として生きるために必要な危険回避能力や学習能力が足りない状態、だ。

生まれつきであったり、事故や病気など不可抗力によって障害を負ってしまったりすることは避けられないかもしれない。
でもわざわざ知的障害を負いたい、と思う人はほとんどいないだろう。

うつ病を患う彼は、症状が辛い時には仕方なく処方薬を飲み、軽い日には副作用の恐怖とも闘っている。
そんな彼からしたら、病気でもないのに危険な薬を服用する同級生の話は「悔しい」以外の何ものでもなかったに違いない。
ましてその薬は明らかに、人間の根幹である脳を確実に破壊してしまうものなのだから。



一時の現実逃避のために、一生苦しみ続けなければならないなら、辛くても今現実に向き合った方がよっぽどマシだ。

……などと書いていたら今日、またしてもミュージシャンが覚醒剤で逮捕されたとのニュースが。
「芸術家」がクスリでオカシクなっているのがカッコイイ、なんて時代は、1世紀以上も前に終わっていると思うんだけど、なぁ。