二本木神社がいまのところに遷座したのは明治39年10月のことです。どこから遷って来たのか、それは同じ町内のどこかとなりますが、その場所ははっきりしません。ご祭神は健磐龍命(阿蘇神社)です。神社の基本情報はこれくらいにして、稲田栄作について述べようと思います。
鳥居の向かって左側の柱の中間部に文字のようなものが見えますが、稲田栄作と刻んであり、また、右側柱の背面高所には「妻ハツ結婚50年記念」と刻まれています。つまりこの鳥居は稲田栄作という人物が妻ハツとの結婚50年を記念して寄進したものということになります。
では、稲田栄作とはいかなる人物か、以下の文章を読んでください。
「戸浪さん その頃六十才位のお爺さんが一年生と一緒に勉強しておられた。この人は稲田栄作という人で字が読めない為に苦労したから今から六十の手習いをしょうと、学校にお願いして入学されたそうであった。そして新聞も読めるようになり、お礼にといって学校に図書室を寄付された。今の給食室のところに終戦まであったが、今は取り壊されて無い。其の上二本木神社に鳥居を寄進されたが字の読めるようになった事がどんなに嬉しかった事か、想像される。私は偉い爺さんだったと今も思っている。」(「わたしたちの古町」古町小学校編・1976年)
これは上記本に記載されている古老たちによる「座談会」から引用したものです。この記事によると、戸浪さんという古老は子供の頃に稲田栄作を見知っていたことになります。彼の言う「その頃」が明治何年のことなのかはっきりしないのが今となっては惜しまれます。
さて、これだけではまだ稲田栄作の全体像は浮かんで来ませんね。ここで「熊本の遊びどころ・二本木遊廓」の記述を引用することになります。
一 楽 同亭は一流の大店にして稲田栄作氏之を経営し其孫女とし子女将たり、諸事親切を旨とし能く勉強すとなん。
新一楽 同楼は一楽亭の支店にして稲田とし子女将の支配にして愛嬌と親切を以て評判宜し。
稲田栄作氏は上記2店で娼妓35人を抱える遊廓の経営者だったのです。学校関係の文書に遊廓経営者とは流石に書けなかったのですね。ここで氏について少し立ち入った考察をしてみます。
はじめに明治39年に結婚50年とありましたね。ここから逆算すると氏が結婚したのは安政3年(1856)であり、その時の年齢が20才だと仮定すれば生年はさらに20年を遡って天保7年(1836)となります。これは西郷や桂とあまり差のない年代ですね。氏もまた幕末動乱期の人です。しかも氏の場合は無学文盲の徒として生きたわけで生きるための格闘は厳しいものがあったはずです。しかし氏は困苦の末にそれを乗り越え二本木遊廓にたどり着いたことになります。氏もまた一個の英雄であったと私は思う。
こういう人物は信用できるし尊敬にあたいします。また親しみをも感じます。「私は偉い爺さんだったと今も思っている。」と座談会で発言された戸浪さんの真意もそこにあったのではないでしょうか。
二本木遊廓で名を遺した人物は中島茂七と稲田栄作になるようです。