享保四年九月十三日
一、相良遠江守様御手船今月十六日大坂え指し登せられ候に付八代郡植柳村のもの共五人水夫に御雇い成られ度由球磨小屋在番衆より高田理右衛門へ申来たり候間差し上せ当十二月中に罷り下り申す筈に候 理右衛門五人之もの共邪宗門転び類族にも之れ無く候差し登せられ下され候様にと理右衛門書付御郡奉行衆より相達され候に付御家老中へ相達し願いの如く埒明き候事 御奉行方逗留中念を入れ候様に堅く申し聞かせ遣はされ候様にと沙汰しめ候事
これは隣国人吉藩から水夫を5人ばかり操船のために雇いたいという依頼文書である。大名間のこのような人員の貸し借りは広く行われていたようである。大坂へ船を出すというのは米の輸送と考えてよいであろう。
※高田理右衛門というのは八代郡高田手永の御惣庄屋である。決裁の流れは「御惣庄屋」→「郡奉行衆」→「郡方」→「家老」