古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

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相良道(とのさま道・あぜち道) 林道 坂本山江線

2018-05-28 12:32:37 | 一向宗

 相良氏は13代当主長毎公の時から18代当主義陽公までの約80年間に亘って八代を統治した。城地は球磨川右岸古麓にあり、その東側の山岳地帯、主に尾根沿いの山城として築かれた七つの城塞は、名和氏時代の五つと、相良氏時代の二つに色分けできる。
 相良氏は16世紀初頭、名和氏との覇権争いに勝利して八代に城地を得、球磨・芦北・八代の3郡の覇者となったが、名和氏は滅亡したわけではなく宇土に城を構え失地回復の機会を狙っていたので、両者は常に緊張関係にあった。
 相良氏は八代で事が起った時に素早く軍勢を人吉から呼び寄せる必要があり、人・馬・荷駄を通す規模を有する軍用道路がどうしても必要であることから相良道は建設された。
 その総延長は正確には分からないが40Kmは越えていたであろう。40Kmの山道を一日で踏破することは出来ない。そのために山中の中間点に休泊所を設けていた。その場所は下の地図で説明すると、郡境にある「水無越」の球磨郡側のすぐ下に「あぜち谷」という適地があり、そこに「ゼンカク屋敷」があったと伝えられている。その屋敷跡を写真に撮った人があるというので、いつかここにアップしたいと思っている。

 この地図は郡境に立ててある看板を写真に撮り少し手を入れて仕上げたものであるが、同様の地図を一般人はどこからも手に入れることはできない。国土地理院の5万分の1地図も、途中までしか記載がなく、それは道路管理者が地図に書き込むことを望まないから・・ということであった。
なぜ望まないのか、観光客が押しかけて交通量が増えれば道路維持費用がかさみ、とぼしい財源の中からあらたな予算化はきびしい・・ということであった。
 さて、
この道路の正式名称は「森林基幹道 坂本山江線 建設初期のころは(ふるさと林道と称していた。)」と云う。27年の歳月と60億7千万円の事業費を投じて平成20年度に完成した林道である。坂本町大門を八代市側の起点とし、球磨郡山江村水無にいたる総延長27.9Km、幅員5mの実に立派な舗装道路であるが、 この道路の面白いところはその前身が戦国大名相良氏が八代、人吉間を最短でつないだ軍用道路の一部であるところにある。特に一部というのは郡境の「水無越」より人吉城までの区間及び八代側の大門から古麓の8丁山までを含まないからである。
 私は若いころ坂本村に居住していたが、荒瀬ダム右岸の山の尾根、坂本駅裏の山の尾根などを険阻な山だなあと思って眺めていたが、その尾根に相良氏の軍用道路が通じていたなど想い及ばぬことであった。
 ここから先は私の推測に過ぎないのだが、この道は大門に下りるのではなく藤本、松崎等を左に見下ろして一旦油谷川へ下りた後は、中谷川、深水川、釈迦堂川と下りては上りを繰り返して8丁山まで尾根道を一直線にたどったのである。
 この道は徹頭徹尾山岳道であり、村里へ下りるのは川を越すためにやむを得ず下りるのであった。そうした方が最短コースになるということもあろうが、行軍を敵にさとられてはいけないという用心もあったことだろう。
 この道が八代、人吉間をつなぐ軍用道路、連絡道路として機能したのは前にも述べたように相良氏が八代を統治した80年間であり、それ以後は次第に廃道へと向かう。江戸時代に入って一時期参勤交代の道として使われたこともあるが、寛文年間に球磨川の開鑿による舟運が開かれると往路は舟運、帰路は佐敷、一勝地道となり相良道は主要道としての役割を終えることになる。

坂本駅裏の尾根ここを相良道が通っていた。

左に見えるのは鮎帰大平発電所である。この道が肥後峠とは別ルートであることが分かる。

12%の急坂である。その先下り。

こちらは上り急坂。やがて郡境の「水無越」に至る。