岩野用水の取り入れ口は鶴場郵便局の真下にありました。この地点から岩野地区まで村落を通り山林を抜け、延々4Kmの水路が貫通しています。途中岩場を掘削して通したところがあり、難工事であったことがわかります。
今は非灌漑期なのでゲートの開度は維持用水を流すだけに調整されていました。
水路は釈迦院川左岸の法面に添っています。
ここが岩野地点、写真右側斜面の棚田に灌漑しています。
水路の終点付近に碑が建っています。この碑は大正4年御大典を記念して建立したと裏面に彫りつけてあります。台座にびっしりと文字がきざまれ、ところどろに判読できないカ所がありますが、つぎの様に書き付けたところがありました。
「起工ハ天保十二年ニシテ弘化二年ニ工ヲ竣ヘシカ其工事ノ困難ナリシコトハ今尚ホ形跡ニ徴シテ歴々視ルコトヲ得ルナリ、嗚呼氏カ刻苦督励ノ効ハ田地十六町歩産米三百二十石余且ツ水路の塘ハ年祢村中央道路トナリ・・・」
「氏ハ去リテ此ニアラズト雖モ、村民ハ毎年六月十五日ヲ矢嶋祭ト称シ酒饌ヲ供シ祭祀今ニ怠ルコトナシ・・・」
矢嶋忠左衛門が病死したのは安政2年(1855)でしたから大正4年(1915)までちょうど60年経っています。この間欠かさず矢嶋祭は執行されて来ただけでなく、平成の今日までそれが継続しているのに驚きます。こういう例は全国にも珍しいのではないか。