矢嶋鶴子は嘉永7年(1854)5月21日中山手永惣庄屋役宅において56年の生涯を閉じました。墓は杉堂村城ガ峰に夫忠左衛門の墓に並んで建っています。
杉堂の城ガ峰にある矢嶋家墓地には一族の墓20数基がありますが、近隣に血縁の方がないのかお詣りの跡がなく、墓域は益城町の管理になっているようです。
矢嶋忠左衛門之配三村氏碑陰の記 文 横井小楠
此棺ハ益城郡中山ノ御惣庄屋矢嶋忠左衛門ノ配三村氏ヲオサメシモノナリ。三村氏名ハ鶴、和兵衛某ノ女、寛政十年(1798)三月朔日ニ生マレ、文政二年(1819)矢嶋氏ニ帰シ、嘉永六年(1853)五月廿一日春秋五十六歳ニテ終リヌ。
此人貞正ノ生マレニシテ、義理ニ明ニ、禍福・利害ニ移サレズ、又能ク憐深ク、人ヲアハレムヲ以テ心トセリ。家ニアリテ、能ク祖父母ニ仕へ、兄妹と同ジク賞セラレテ、銀若干ヲ給ハリヌ。
既ニ嫁シテ家貧シク、農事ヲ勤メ、蚕ヲ養ヒ、人ノ堪ヘヌ業ヲ尽シ、舅姑ニ仕ヘヌ。ヤゝユタカナルニ至リテ、衣服・飲食ミズカラノ事ハ極メテ倹素ナレドモ、理ニ因テ財ヲ出スハ、聊カモ吝カナル事ナシ。二男七女を生ミ、子ヲ教ルニ、必ズ真心ヲ磨キ、行実ヲ尽ヲ以テココロトセリ。
病テ牀ニ在コト、殆百五十日ニ及ビ、疲労日々ニ進メドモ、精神平生ニカハラズ、折リニフレ、事ニ就キ、子ヲ教へイマシムルコト至レリト云フベケレバ、其子ノ母ヲシタヒ、忘レヌ餘リニ、世替リ時移リ、山崩レ地折ケ、シルシノ石モ無クナリテ、此棺ヲ発カム。人ノアハレミテ、ウヅミ給ハンコトを希テ、余ニ乞フテソノアラスジヲ記セシム。
余トイフモノハ、熊本ノ横井時存ニシテ、其子ノ矢嶋源助ガ師トシ、友トスル人ゾカシ。
※ この「碑陰の記」は鶴子墓のそばに建てられたが、今は失われて行方不明となっている。
発 病
母が死んだのは、父より1年半前でした。母の病気は随分前からだったでしょうが、私共の眼にも、身体がお悪いと見えはじめたのは、亡くなる前の年(嘉永6年)の11月の事でした。裏の畑に大根がよくできたのを、客のいないうちにと、男衆を連れて大根引きに行って帰って、沢庵漬けにするもの、切干しものと、それぞれ命じて、手数をすませた後「ご飯にしましょう」と言うたときの母の口もとが変でした。これからが始まりでした。此日はよほど寒かったので、背戸にでて長い時間働いた中に、芯から冷えきったようでした。手ぬぐいを襟に巻いて帰った時の言葉は充分ではなかったようでした。しかし暖まればすぐに、それは治まりました。『矢嶋楫子伝』
診 断
熊本一の名医と言われていた蘭方医の寺倉秋堤が招かれて診察しました。「鵙も48鷹の中というのですから、この病気も中気の中だと申してもよいでしょう。」と言いました。面白い診断の弁ですね。この寺倉秋堤は熊本における種痘の開祖といわれる医者で小楠と交遊がありました。後に熊本医学校の教頭を務めた人です。
戒 名
人々の懸命の看病も甲斐なく遂に矢嶋鶴子は死去します。
旧暦5月21日といえば梅雨真っ盛りのころです。葬式には城下から僧侶を招きました。僧侶は道々馬上で戒名を考えて来たものらしく「梅霖院妙晴釈尼」と紙の上に書いて示しました。これを見た長女にほ子の夫三村章太郎が「坊さまは雨の中を来たので、降ったり晴れたりしている、梅林院妙香釈尼としていただけないか」と希望を言うと僧侶も、それに同意しました。これで決まったかと思いきや、墓石に刻まれている戒名はまた異なっています。そこには「梅林院清香信女」とあります。
三変した戒名