熊本県立図書館蔵
御内意之覚
布田手永布田村居住
一領一疋
竹崎律次郎
右律次郎先祖は阿蘇家浪人ニ而律次郎曾祖
父竹崎太郎兵衛と申者玉名郡内田村ニ居住仕居
申候処宝暦九年十二月御郡代直触ニ被仰付
其後小田手永御惣庄屋並御代官兼帯被仰付
其子竹崎太兵衛右同手永御山支配役被仰付
其養子竹崎次郎八荒尾手永御惣庄屋並
御代官兼帯被仰付置候処文政十二年十二月
病死仕候右次郎八養子律次郎ニ而御座候処天
保元年五月養父跡地士ニ被仰付同九年寸志
之訳ニ而被対一領一疋ニ被仰付其後布田江居住
仕居烏乱者見締村請持並文武芸倡方且
袴野新堤配水方受込被仰付置候処病気
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差発難相勤御座候由ニ而右御役々並一領一疋
之御奉公共ニ御断申上度段願出相達候ニ付内
輪之様子承糺申候処相違も無御座様子ニ付
願之通被仰付被下候様
右律次郎養子
竹崎新次郎
三十四歳
右は生質廉直ニ有之筆算等相応ニ仕り
往々御用ニ可相立者ニ而尤芸之儀格別出
精仕所柄相門熟切ニ倡立数々相伝も相済
候棱々左之通
一 体術江口詰左衛門門弟ニ而嘉永六年十二月目録
相伝仕候直ニ所柄代見申付ニ相成居申候
一 剣術横田清馬門弟ニ而嘉永六年九月目録
相伝仕候
一 槍術富田十郎右衛門門弟ニ而安政六年八月目
録相伝仕候
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一 炮術財津勝之助門弟ニ而安政六年十月頬付
目録並炮火術目録相伝仕候
一 居合恵良左十郎門弟ニ而安政四年八月目
録相伝仕候
右之通相伝相済体術之儀は在中代見をも
申付ニ相成居相門倡方も手厚行届申付被付
旁ニ被対養父跡無相違一領一疋ニ被仰付
被下候様於私共奉願候此段御内意仕候条
宜敷被成御参談可被下候以上
安政七年二月 南郷 御郡代
御郡方
御奉行衆中
僉議
律次郎儀達之通ニ付一領一疋可被成御免哉
新次郎儀達之通五芸目録相伝相済居
右芸数ニ而は見合せも御座候間親同様
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一領壱疋可被召出哉
右僉議之通四月十三日達
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覚
布田手永布田村居住
一領一疋
竹崎律次郎
五十歳程
右同人養子
竹崎信次郎
右者父子進退別紙之趣ニ付見聞仕候処律次郎儀
病気差起御奉公難相勤由無余儀様子ニ
相聞信次郎儀は手全成人物ニ而筆算
相応ニいたし体術剣術槍術砲術居合
五芸共目録相伝相済居体術は所柄代見
をも申付相成居候由ニ而角場は居屋敷内ニ取立
置右五芸共相門中倡立手厚世話いたし候由
に而行状ニ付異候唱も相聞不申御赦免開は
所持いたし居不申由承申候以上
申
閏三月 河口源右衛門 印
※ 初めの方の記述に「病気差発難相勤」とあり、そのために手永の役々及び一領一疋の身分もお断り申し上げ、結果として養子の新次郎に跡目を相続させました。
わたしは病気については信じがたいと思っています。律次郎の病気は家督を譲るための方便ではなかったかと考えています。律次郎にはその動機が充分にあるのです。というのは律次郎が養子に入った竹崎家には病没した先代の嫡子、新次郎がいました。あまりに幼いのでその養育のために律次郎は養子に入ったのでしたが、よかれとおもって始めた造酒業がうまくいかず、また米相場に手を出して失敗したのが命取りとなって竹崎家は破産します。ために律次郎は行方不明となり、結婚2年目の順子は仕方なく父母のいる中山手永へ帰り夫の復帰を待ちます。
律次郎の消息がわかり順子が呼び戻され布田村で再起をはかるのは2年後のことでした。それからの苦節16年。夫婦して懸命に働き再起に成功したのです。この間に新次郎も一廉の人物に成長したので、もうそろそろよくはないかと間合いを測っていたのです。
新次郎に家督を譲った翌文久元年(1861)律次郎・順子は横島の干拓地へ農業をするために移住しますが、それは伊倉の木下家(律次郎の実家)から来た話でしたが、新次郎に「形をつけた後に」という思いが律次郎にはあったようです。それを果たした上での決断でした。
横島での夫婦の働きは、先にアップした「竹崎順子」に書いたとおり実に目覚ましい成功を収めました。
竹崎律次郎は布田時代に横井小楠の弟子になり、月3回ある講義の日は相撲町の小楠堂まで5里の道を往復していました。熊本の維新は明治3年に来たと言われますが、その時、小楠門下の人材がぞくぞくと登用され律次郎はその中心人物の1人で熊本の近代化に貢献しました。