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馬門石の産地を訪ねて 宇土市網津町馬門

2020-03-20 21:42:53 | 日記

 馬門石(まかどいし)を産することで知られる馬門地区には古い神社が三社あり、地元の人は三社参りと称して何かに付けこの三社にお詣りするそうです。

 その一つは年神を祀る大歳神社、この神様は穀物の神。今一つは赤石神社で御祭神は大山祗神(おおやまつみのかみ)、これは山を守る自然神ですが、ここでは馬門石を切り出す石工たちの安全を守る神として尊崇されてきたといわれます。残りの一つは牧神社で御祭神は事代主神(ことしろおおかみ)。この神は神話に登場する国生みの神様で、ここでは「牧」を守る神とされています。

 地図上に赤丸で囲った「笠瓜」という集落を含む一帯は古くから「牧」のあったところで、8世紀の初めには宇土郡大宅郷に「牧」が開かれたと続日本記に記述があり、時代によつて盛衰はあるものの途切れることなく江戸期まで存続したと宇土市史にあります。最も栄えたのは中世期で千町歩の規模だったと言われ、宇治川の合戦で佐々木高綱が手綱を取って一番乗りを果たした名馬「池月」はこの「牧」の産だったと言われています。尤も同様の伝説は他所の「牧」にもありますが・・。藩政期は200町歩で常時100頭ほどの馬が飼育されていました。


なに憚ることなく洗濯物を干してあるのが、いかにも田舎の風景ですね。


 馬門石で建てられた小屋。家の前で畑仕事をしているお婆ちゃんに聞いたら祖父が明治時代に建てたと言われました。屋根は戦後葺き替えたもので当初は瓦葺きだったそうです。柱、壁の部材が馬門石でかすかにピンク色をしています。


正式の社名は大歳神社、集落の入り口にあります。鳥居が馬門石でできています。


赤石神社。ここも石材はすべて馬門石。



牧神社。馬門集落から歩いて7、8分の山中にあります。鳥居、石段、灯籠、玉垣など全て馬門石です。


 牧神社の本殿の前に小さな石製の箱様の物が置かれているのに目がとまりました。これは古墳に埋葬する石棺のミニチゥアだとすぐに気づきました。
 宇土市は平成16年度の市の事業として馬門石製石棺を古代船に載せて大阪湾まで運送するという一大イベントを実施しました。当時各方面から大変注目されたイベントでしたが、右端の写真は石棺を修羅に載せて運び出す場面で位置は大歳神社の前辺りです。ミニチュア石棺が右石棺と相似形であることが判然とします。 

※・・高槻市にある継体天皇陵から出土した石棺が馬門石製であることから、古代人は6トンもある石棺をどうやつて800㎞も運送できたのか、その謎を解くために実施されたイベントでした。

大王の棺 宇土市デジタルミュージアム

 


こういうお宅もありました。


 これは市中心部にある船場橋です。欄干部に馬門石が使われて、とても奇麗です。

 

笠瓜集落を訪ねて

 地図で見ると笠瓜集落は馬門集落のすぐ上に位置し、嘗ては人の通る道があったが今は自然に戻ってしまって通行不能になっています。それで一旦57号線に出て長浜町から山道を登りました。

 地元の人は「笠瓜」を「かすり」と呼んでいますが、「かさうり」が訛ったものでしようね。集落の中ほどに古びた井戸があり、覗いて見たら2メートルばかりの深さで水が湧いており、手入れをすればすぐにも使えそうな井戸ですが、この井戸には景行天皇伝説が伝わっています。
 不知火海から永尾神社の辺りに上陸された景行天皇は御輿来海岸へ抜ける途中この地に立ち寄られ、里人へ一杯の水を所望された。里人はこの井戸の水を汲んで差し上げ、同時に竹の皮で製した笠に瓜を載せて供応した。天皇がここは何という所かと訊ねられたので、里人は未だ地名はありませぬ、と答えた。それでは「笠瓜」とせよ、と仰られたので「笠瓜」という地名になったと伝わっています。

 上記の話をしてくれたおばあちゃん。87歳(右)、90歳(左)、5戸に減ってしまって住民は年寄りばかりで、やがて廃村になると、そのことを嘆いておられた。ここは古い時代から「牧」のあったところで、住民は馬の世話をする職の人たちの子孫ではないかと水を向けても、そんな話は聞いてないと、はっきりしない返事。墓地を見たら「牧本」姓が多く、やはり「牧」との関係は濃厚だと思った。


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