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久太夫、小野寺十内、堀部弥兵衛、間喜兵衛、早水藤左衛門
一.下之座、磯貝十郎左衛門、近松勘六、冨森助右衛門、潮田又之丞、赤垣源蔵、奥田孫太夫、矢田五郎右衛門、大石瀬左衛門 磯貝十郎左衛門ハ上ノ座ノ筈御座候へ共早水藤左 衛門と申合入替被申候由
一.右十七人之衆何も知ル人ニ被成候而毎度罷出咄など仕候而次第心安成
申候、我等心底ニハ扨も扨も古今不承候忠孝之武士天下ノ大小名之
家ニ武功有之名高キ者の子孫何レ之家ニも有之事ニ候当御家
ニも何も大小身共其子孫多有之候、十七人万一御赦免ニ而御預り
被成候御衆様へ被下置候刻たとへハ御家ニても何かしの武功ニ似たる
事ニて候間官禄も其仁ニ応ジ可被仰付候へ共今度之一巻之衆ハ何レ之
御家ニも類も無之事ニ御座候得ハ被召仕候様子も定而無類之様体
ニ而可有御座候誠以天下ニくらべ物之なき武士と申事ハ冥加ニ被叶
たる衆中と存夜白ニハかけ随分心之及ハ馳走仕度或時冨森助右衛門へ
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申候ハ拙者儀旦那代々召仕候もののせがれニ而殊ニ末子ニ而御座候処かち
き奉公ニ罷出候処即刻江戸定供被召連段々取立小知をくれ被申候
其後加増をも被申付物頭並ニ被申付近年ハ年寄申候故供使番抔
もゆるし被申ゆるゆると町屋ニ召置申候、然ル處今度各々様ニ罷出得
御意候様ニ申付候、わかき時分より一二年已然迄駕之あけたて被申
付候而相勤申候故江戸表之儀あらまし存候、京、大坂道中筋之儀
も能覚申候、第一居屋敷ニ詰居候而ハ門之出入も不任心底之儀も有
之候得共町屋ニ召置夜白ニかぎらず何方へ参候事つかへ不見
何方様之御事ニ候得ハ越中守為ニ成らぬ儀は可被仰聞様も無御座候何そ
被仰聞置度儀なと可有御座候得共私之身之為ニ成らぬ儀なとと
御遠慮思召被仰聞度事なとも御控え扣被成候様ニ見及申候、今度
各様之御忠義之御心底乍慮外奉察候へハ私之身命をおしミ
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申事日本国大小之神をかけ奉り毛頭無御座候心安思召被下候事
武士之冥加ニ叶たると奉存候、尤貴様御一人ニかぎり不申右之趣ニ
御座候得ハ十七人之御衆不残御同然ニ奉存居申候間、御一人御一人ニ申達候
儀も何と哉覧いな物ニて候私之心底之趣具ニ被仰通被下候得と
申候へハ扨々御深志成ル儀共何方へ申聞候ハハ別而忝かり可申とて
被申通候哉其後段々礼を被申候事
一.内蔵助被申候ハ我等事わかきもの共其外何方へ別而御深志之儀共於
私も扨々忝存候誠ニ誠ニ御心安ク存居申候少これへ寄被成候得御咄申
事共御座候と被申候故我等申候ハ御心安思召候而御咄被成候事御座候由
先ハ奉存候とて側へ寄申候其時内蔵助被申候ハ別之儀ニ而も無無御
座今度之一巻之事ニ付定而よりより御傍輩中御評判迄と奉
察候是ニ居申もの共大形小身成ルもの共迄ニ御座候今少大身
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なるもの共も加り可申事と可思召段御恥ケ敷存候いかにも大身成者
ともも加り申候得共何も了簡を替へ申候故、不及力候、先奥野将監と
申者ハ千石取番頭仕居申候今度赤穂ニ而何角と私と両人申合セ
御目付荒木十左衛門様江書付をも差上口上ニ而も申上候儀御座候江戸へ
御帰座已後即刻土屋相模守様江委細被仰上候間左様相心得候へと
私並将監方へ十左衛門様より御書被成候故両人共ニ江戸へ又御礼ニ罷越
申候右之通ニ而名も御老中様方御存知之将監其外佐々小左衛門と申者
三百石遣城代を申付吉田忠左衛門より高座ニ召仕候いや此小左衛門ハ若き時分
御当家へ居申たる様承候つるが覚申さぬかと被申候故我等申候ハ何と
哉覧(やらん) 名ハ承たる様御座候得とも慥ニ覚不申候、惣体当越中守入国前
幼少之時分段々暇を遣申或ハ暇をも候いたる者共御座候其内ニ而御座
候哉、しかと覚不申由申候、其外三百石郡代吉田忠左衛門より上座之由、内蔵助被申候佐々小左衛門 其外佐藤三百石足軽頭
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伊左衛門、近藤源助郎三百石同役、小山源五左衛門三百石同役、河村傳之丞三百石同役、 なとと申候者ハ知行も
多く遣し足軽も預置是ニ居申候原惣右衛門などよりハ上座ニ申付置候
剰右之内ニハ私之すらき御座候ものも御座候いかにも加り申候得共了
簡を替へ申候得ハ不及力候と咄被申候故我等あいさつニハ段々委細ニ
御心安思召被仰聞候事別而忝存候、定而右之御衆御了簡を御替
被成候事も何とそわけも可有御座候得共今度各々様之被成様ニ而ハ
何之被仰分も唯今ニ成候てハ御座有間敷と存候それにつきても今
度何方様之御仕方とかく可申上様も無御座傍輩共と打寄ケ如度
々之奉感候惣体身おもく御座候ものハ小身ものより身命を捨兼申と
古今申伝候定而聞及可被成候、肥後之先国主加藤主計頭清正公ハ
秀吉公御代度々之武功ニ而後ニハ肥後半国後拝領被成候、其刻
同国天草合戦之砌木山弾正と申ものと鑓を合セ被申候事清正公
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一代之男道をおためし被成候と常々御自慢ニ而御咄被成候と古キ侍共
申伝候、其外古今之咄とも承伝候ニも扨も扨も今度之何方様之御
仕方乍憚とかく可申上様も無御座候皆共儀も小身ニ而不自
由成ル事のミニ御座候へ共右之通之昔語を承小身なるもたの
しミに存候而傍輩とも之大身成ルもの共之前ニ而もおもふ事のミ
咄ちらしたのしミい申候とあいさつ仕候、右之内ニ内蔵助叔父有之
由ニ御座候事
一.助左衛門被申候ハ何も十七人之者共拙者へ頼申度事御座候別之儀ニ而も
無御座皆共儀今度之仕合ニ而は定而ざんざいニ可被仰付候■所柄成
とも能ク御座候へかしと願居申候然ル所ニ此間之世上之批判なと何方様
の御咄なと承早おごりつき万一切腹なと結構ニ可被仰付哉、左様之
刻は御屋敷ニ而なとも可被仰付哉なととおこりつき申候万一左様之
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節は拾七人共ニそれぞれに宗旨も替り申候得ハ寺々之坊主共又ハ一類
共なとも死がゐなと被為拝領候様ニ願申事も可有御座候国ニ被遣
不被下泉岳寺中ニ穴地有之所に十七人共一ツあなに御うづめ
被下候様ニと何も願申候此段拙者ニ承置くれ候へと被申候故拙者申候ハ扨々
御尤至極なる御願い共奉存候被仰聞候通得其意申候左様之節ハ
成ル程如御願ニ可仕候併それニ及申間敷候行末永クゆるゆると御心安
得御意候様成行可申と返答仕候而罷立涙をながし尤成る
願と存即刻大目付永瀬助之進へ申達候得ハ助之進も尤成ル
事と感被申候事
一.其後又吉田忠左衛門被申候ハ助左衛門を以何も十七人之もの共御頼申候事御心
よく御請合被成被下候由何も別而忝奉存候就夫私ハ又其上ニ御無
心御座候金子少所持仕居申候此事もいな物を所持仕候と可被思召候へ共
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持来候故捨も不仕召置申候是を進可申候間白布二重ニ大風呂敷ニ被仰
付四方ニつかりを御付させ死かゐの見へ申さぬ様ニ其ままくくり寄せ候様ニ
仕度候如御覧年寄大がらニ御座候得ハ一入見苦敷可有御座被存候
由被申候我等申候ハ委細承届申候従 公儀被 仰出次第ニ而御座候得は
いか様ニ可有御座難斗兼々役人共打寄いく通ニも用意仕
何のつかへ無之様ニ仕置申候、若右之通被仰付ニ而御座候ハハ如御望
可仕候間金子を御渡シ被成候ニハ及不申候成ル程御尤成ル御願共得其意
申候助左衛門殿へ申候様ニ夫ニ及申間敷候、行末永くゆるゆると御心安ク
得御意候様成行可申と申候而立申即刻永瀬助之進江申達置候何
も何も尤成る事共と涙をながし申候事
一.右之通何も拙者事心安ク被存何やかや頼被申候ゆへ永瀬助之進をハ
大目附役ニ而少ふしんニ被存候体ニ候故拙者助左衛門へ咄申候様子
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不残咄聞かせ候得ハ扨々尤成リ我等存寄共誠ニ何もハ摩利支天と
存候助之進ハ御用ニ付堀部弥兵衛ニハ折々呼立咄申候事共有之候
然ル衆いな事と可被存候助之進心底も誓言ニ而我等同意存
候段何方へ申達くれ候得と被申候故助左衛門なとニ咄申何も承被申候
扨々忝次第助之進殿御出之砌もわけて御礼申候事もいかが
敷存候何も別而忝かり申段宜申くれ候へと被申候尤其段
助右衛門へも即刻申達候事
一.或時助左衛門と咄居申候所ニ原惣右衛門何をか咄候哉とて被参候其時助
右衛門被申候ハ赤穂ニ而大野九郎兵衛を惣右衛門追立申様子御聞被成
候得と拙者へ被申候故所望仕候へハ扨々むさと仕たる事を助右衛門申候
とて笑被申候故我等申候ハ御心安ク得御意候私ニ御座候へハ不苦事ニ
存候是非共御咄候得承度と申候得ハ惣右衛門被申候ハ助右衛門則是ニ而承
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申候今度赤穂ニ而私事ハ内蔵助とむかふさすニ成候而諸事相談仕たる
事御座候、内蔵助存寄と致相違候九郎兵衛ニ付先刻より段々承候へハ御自
分之思召寄ハ内蔵助殿とハ替り申候何も是ニ居申もの共不残内蔵助
殿之思召寄と同意之者共ニて候御了簡替りたる事ニ候へハ是ニ御座
候事御無用ニ存候早御たち候へと申候而たたせ申候此外別ニ替る事も無
御座候、其時九郎兵衛私申ごとく立候故其通ニ而御座候、若シ立兼候へハ
私ハ其時果申候、左候へハ今度之一例之志立不申候、以後能ク了簡仕
候得ハ扨々うつけをつくし申と存候由被申候得ハ助右衛門被申候ハ其時之
様子中ミ何の様成事ニ而ハ無御座とて笑被申候事
一.或時矢田五郎右衛門被申候ハ傳右衛門殿ハ御道具数寄ニ而御目利と承申候と
被申候故いかにもわかき時よりすき申宇目利仕候へ共大形はづれ候
とて笑候へハ五郎右衛門被申候ハいや御尤至極ニ存候ハ私事目利不調法ニ
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