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と奉存候と申候事
一.次之座ニ而助右衛門被申候ハ吉弘加左衛門殿之御先祖之御咄承申候と被申候故我等
申候ハいかにも大友之内ニ而吉弘加兵衛と申者秀吉公の時代九州合戦
之刻打死仕候石垣原之合戦と申候豊後言葉ニ而子供迄も其後
小歌にながい刀をしやふとぬいて切てさるけハゑれゑれ皆はいま
わるうたい申申候と申伝候就夫加左衛門を若キもの共心安咄申もの共
ううゑれゑれとてなぶり申と咄笑申候得ハ助右衛門被申候ハあれニ居申候矢田
五郎左衛門も加左衛門殿御先祖ニまけ申間敷候三河記なとニも御座候矢田作十郎
と申かくれなきものニ而御座候と被申候いかにも承及申候と申候後ニ承候得ハ
大村因幡守様か御出被遊 太守様へ今度之十七人何もの御咄被成候処ニ
矢田五郎左衛門先祖作十郎事三河ニ而三人之内弐人之子孫ハ唯今御旗本
ニ而御鉄砲頭被仰付候由名ハ失念仕候其内ニても作十郎ハ就中すくれたる
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武功之仁と御咄被成候由承申候堀部や兵衛事も御咄被成今時之聞番之様
成ルものニてハ無御座などとの御咄乗仕此方之聞番衆も承笑申と承候事
一.或夜堀部弥兵衛ねいり被申候而矢ごへをかけ被申候夜八ツ時分ニ而も加有之候
拙者もねずの番ニてい申候何もきもつぶし申候故我等申候ハ定而弥兵衛
ニ而可有之ハ見候而被参候得と坊主ニ申候得ハ其儘参候而いかにも弥兵衛殿
にて御座候と申候其時拙者申候ハ何も之内之弥兵衛ハ老人ニ而有之故ワか
き衆ニおとり申間敷との常々のたしなミふかくね入り候而も矢こゑ
を懸けられ候事扨々感入たる事とほめ申候常ニも食後ニ咄い申候得ハ
御覧可被成候老体ハ足スクレ申候てえんがわに出被申あなた此方とあ
りき足をからし申とて笑被申候事能ク得候つる其後夜四ツ過之比
瀬田又之丞ねいり候てはぎり被仕候を去ル仁参候而おこしはぎしりを
つよく被成候か御気色なと悪敷候哉と尋被申候由已後拙者ニ又之丞
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被申候ハ先夜誰殿之被入御念候而御心を被付下候私くセニ而ねいり候而間に
はきり仕候扨々被入御念忝存候へ共扨々迷惑仕候と被申候故拙者も笑候而
それハ念入すごし御目ざめ御迷惑可被成と申笑候惣体万事念を入
勤申様ニ毎度毎度何も承申事ニ候へ共事ニよりたる儀と存候名も
又之丞被申候而承候得共わざと書付不申ハ能々万事ニ能ク心付候而御了
簡可有候事と書付置候
一.何も度々被申候内蔵助も拙者ニ被申候ハ何も様ニ度々御断申候ハ如御存゜
知牢人ニ而居申かろき料理迄ニ而暮申候処ニ結構成ル御料理数々
頂戴仕殊之外御かへ候而此間之麁飯ニいわし恋しく覚申候何とそ
御料理かろく被仰付被下候様ニと被申候我等申候ハ誠ニ左様ニ可有御ざ候
私共も逗留中御相伴之料理を次ニ而給申候が少シ御かへ申様ニ覚申候
御尤ニ存候随分御このミ被成候得かろき料理可申付候併采数等之儀ハ
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ぐれ被成候御実儀故と申候得ハ何もそれハ誠ニ左様と被申何も喜兵衛
方を見被申候故我等も見申候得ハ能ク申たると存知られたる顔色
ニ而わらゐわらゐ拙者方へむき何も共物ハ不申忝と斗の様子ニ而おりいり
たるぢき被仕候夫故終ニ咄も不仕しかと言葉もかわしたる事終ニ
無之所に最後の時ニ側ニより何ぞ御口上之御用可承と申候得ハ懐
中より辞世書たるを給候 辞 世 間 光延
草枕むすふかりねの夢覚(さめ)て常世にかへる春のあけほの
一.御老中秋本但馬守様御内ニ中堂又助と申間喜兵衛聟居申由ニ付侍
を以此辞世喜兵衛娘右又助妻ニ見せ被申候へ定而所望ニハ可被存候得共
是ハ拙者ニくれ被申候事故其段ハ御断申とて遣見せ候ヘハ又助方より即刻
礼ニ状くれ被申候其儘状も召置候御覧可有候事
一.吉田忠左衛門被申候ハ私ハ今度裏門より入申候大形隠居我ハ奥座敷
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うらの方ニ立申事世の常ニ御座候故幸と被存候而吟味仕候処ニよし垣有之
雪隠之様成所ニ人おと仕候故おしやぶり参候へハ何ものか其儘座敷江
はいり申候もの御座候大形ハ台所より仕込申かこゐの様成ル所を両方より
セりこみ候処ニ三人居申皿或ハ茶碗すミなとニ而なげ打仕候故其儘
間十次郎鑓つけ申候上野介殿の前に両人立帰さがりふセき申もの
殊之外能ク働申候両人共ニ果候而上野介殿も脇差ぬきふり廻り被申
候處を十次郎鑓をつけしるしをあげ見申候得ハ古疵之様子白小袖
上野介らしく吟味仕候得ハ上野介殿ニ極り申候寝間と見へ申候処を見
申候得は刀斗御座候而ふとんもあたたかに唯今迄寝候而被居候様に
見へ申候扨左兵衛殿も長刀ニ而出合被申候得共手負其儘長刀を捨退
被申候後ニ夜明候而長刀見申候ヘハ金具ニ定紋つきこしらへ結構ニ御座候
扨ハ左兵衛殿と存候惣体手むかひ仕候ものハ打捨迯落或ハかまハぬ
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ものハ其儘召置候様ニ兼而内蔵助申付置候故其通ニ何も心得
居申候扨上野介殿討取候故別ニ望無御座何も相図の笛をふき
惣様集申候刻わかきもの共其外早水籐左衛門なとハ弓ニ而長や長や
人の居申そうなる所ニ而上野介殿打果立退候か出合申さぬか申さぬかと高
声ニ而申候得共一人も出合不申候家老之小屋と相見へ門之脇ニ有之
路次口之座みじかく上をのね板ニ而つぎたる所一尺斗見へ申内之あ
かりもあんどんのひかりとは見へ不申らうそくと見へ申候早水籐左衛門と
名乗かけ二筋迄矢いこみ候へ共物音なく候故何も立退候と咄被申候
是ニ而存出シ候故喜加へ申候熊本ニ而先年手取ニ火事有之候刻同名
角之丞屋敷之中程ニ沢村二代目之宇左衞門殿やねニ上りい被申候処ニ田中
次太夫ハ心つきたる物ニ而水をのまセ申候が肥前やきのかやうかやうのそめ
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つけニ而有之候由次太夫ニ尋候得ハ少も覚不申と被申候定而宇左衛門殿心に
いそかしき時ニ慥ニ茶碗のそめつけもらふまて覚候との事ニ而可有候
右之忠左衛門咄ニのね板ニてつぎたる様子あんどん、らうそくのひかり迄
見ワけたるとの心ニ而拙者へ咄被申候と存一入感シ入申候急成時或ハいそ
かしき時などてハ平生之心懸萬事ニ気をつけ可被申候事と書加へ置候
一.右之通いつれも咄い申我等申候ハ上野介殿御仕廻ニ被成候而別儀も無御座之ゆへ
それより無縁寺へ御立退被成候得共住僧内へ入レ不申候故それより泉岳
寺へ御座候間誠ニ段々御心遣共御尤奉存候夜明殊ニ十五日之事ニ御座候ヘハ
一入往来之人も多ク御屋敷へ之辻番なども道すから多ク御座候へハ
見とかめ何角と申候而も様子ニより御障も入可申ニ何之つかへなく上野
介殿しるし迄御持参被成候事ハ誠ニ御忠義不浅偏ニ天道之御
めぐみふかく奉存候と申候得ハ如仰十五日之事故御登城之御衆と
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見へ御乗物或ハ御馬ニ而御通被成候御衆誰様とハ不存候得とも
二三人ニも御目ニ懸り少御不審そうに御覧被成候得共火事場など
に出候物かなどと思召辻番なども右同前ニ存候かな何之つかゑもなく
泉岳寺へ参候事ハいか様仕合成る儀と存候由被申候事
一.右之咄之内ニ高田軍兵衛と申候小知遣候もの御座候此モノハ赤穂籠城と
承由承由申候而大形一番ニ罷越候然共不実ものニ而今度之一巻ニハ中々
加り申様なるものニ而無御座候然ル處ニ今度仕廻候而泉岳寺へ立退申刻
三田八幡之近所ニ而逢申候故何も扨も不申通り候処ニ堀部弥兵衛申候ハ何も
如此志をとげ上野介殿しるし唯今泉岳寺へ致持参候見申され候得と
申候得ハ其儘返答ニ扨々何も御安堵か被成候私も唯今も三田八幡宮江
社参仕各々様御本意被届候様ニとの志ニ而候ニ扨々目出度存候と申候
其後軍兵衛泉岳寺ニ酒など致持参門番を頼内蔵助其外何衆へ
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いわい心ニ酒持参仕候御いれ被下候得懸御目度由候故何もワかきもの共
承候而扨々にくきやつめニ而御座候幸之事ニ而是へよびいれ候而ふミころし
可申候刀をよごし申事ニ而無御座候と悦申候を内蔵助承候而扨々各ニあの
様成るものをふミころしても何のえきなき事ニ候軍兵衛事ハよびいれ
何も逢申ものニ而無御座候間酒も御返し被下候得と門番ニ申付候由咄シ
被申候拙者申候ハ扨其仁ハ定而平生ハ何ニ被召仕候而も能埒明能キ奉公人と
ほめ申程之仁ニ而可有御座と申候得ハいかにも其通ニ而内匠頭家中ニ而も大
形すくれたるもの何を勤させ候而も能勤候と申たるものニ而御座候と被申候
拙者申候ハ□々左様ニ萬事ニ宜ク見へ申ものの本心之実儀なく世渡り之
上手昔よりも類い多く御座候由古今承伝申候けいはくの上手ニて出頭人ハ
不及申□々主人をだまし候ハ本心之不実故ニ而御座候と申候つる是ニ而其儘
其座ニ而おもひ出し申候故書加へ申候同名古文左衛門節々咄被申候
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真源院様御代ニお江戸いりわりの御座候むつかしき御用ニ而去ル人御
えらひ被成被仰付候處ニ然所なく御心ニ叶候様ニ埒明申候其後之御意ニ
彼物ハ何ニ被召仕候而も御気味よく思召候されとも一所ニ被召仕にくく
御座候との御意承候其時分文左衛門ハ御児小姓ニ而も御意ニ入たる内
ニ而御座候能覚申由ニ而名まて被申聞我等共能承い申候いかにも其仁後
々迄も息災ニ居申候而右之咄ハ其外老人衆も被申覚申候御大名之内ニハ
色々様々之侍多ク有之候能く上大工之材木を用申ニゆがミたるもすぐ
なるも大小共にそれぞれニ用申様ニ名将も其通ニ而正成なとの事申伝候
然レ共我が身になりてハ何事も不調法ニ而常ニ不被召仕候とも一所ニ
可被召仕被思召常々御用埒明かね不被召仕候共一所ニ御用ニ立可申と思召
候様ニ心実ニ存候ハハ武士之冥加天道之めぐミも可有之候誠以不及是非
冥加ニつきはてたる生レ付と存候右之仁唯今ハ名跡も絶無之候名ハ書キ
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