61頁 原 画
途中病気之節ハ手後ニ可相成と存小者多助
と弥助と申者両人召連俄ニ京地ニ御用向有之候
与申成同夜及深更大坂出立いたし於途中
実ハ御当地江罷下候段咄聞走参候内今切渡
海之砌前書平八郎宅より出火ニおよひ大坂表
及騒動候取沙汰有之不得止事右小者ともへ
同人存立之趣荒増申聞右体之事故猶路之程
さし急候得とも大井川出水ニ而川留有之漸
(此間写行不分よし也)致し着府候由申聞候全御為を心懸苦心
致し候無相違相聞へ既ニ助次郎内通ニより山
城守伊賀守巡検を致儀延引候故平八郎之不
落入計趣ニ而者助次郎於心底掛念之心配者
無之候得とも右之通一大事わ致内通候ものも
萬一遺恨を含誰瞞候者有之間敷も難斗此
上身分気遣敷尤揚り屋江差遣ハ相糺不容易
吟味手懸を失ひ候様成行候而者助次郎ハ勿論
山城守心配も水之泡ニ相成殊ニ助次郎並小者共
右体大切之義を弁へ候者之義旁揚り屋にハ難申
付右三人とも大名乃内江御預ケ有之方宜敷可在
御座哉ニ付早々右預之内御差図有之候様仕度奉存
62頁 原 画
候以上
三月朔日
江戸御老中水野越前守殿より東御奉行
跡部山城守殿江御感状之写
其方組与力格之助父大塩平八郎義不容易不
届之企をいたし放火乱妨ニ及候節早速出馬
消除並捕方夫々及差図悪徒共速々ニ散乱相
鎮候次第彼是心配之骨折候故之義与一段之事ニ
候不取敢此段可申聞との
御沙汰ニ候
水野越前守
惣 評
抑大塩氏ハ其元阿州蜂須賀家の家中ニ
大塩平助と名乗三百石ニ而馬廻り勤る士あり
其祖流大坂東組与力ニなると謂り平八郎ハ元
63頁 原 画
尾州之産ニ而今川義定末葉之由幼少より大塩
氏之養子となると言夫故実子弓太郎ニ今川
を名乗せ乱妨之砌着用せし兜も今川義元之
所持之由其聞へ也此人生得大胆剛腸ニて釼術
鎗術鍛錬し且陽明学に眼をさらし軍学にも
通じ才智衆に秀て出勤中裁評早く賄賂ヺ貪
らず曽て弓削新右衛門之私曲を見て切腹させ四ケ所
之之者責て刑ニ行ひ或ハ僧徒不如法を誡め
或は切支丹之悪徒を罰し不幸の之良民を恵ミなと
し其名四方ニ聞へ当時之明士と称せられたり然共
天性短慮殺伐にて人を刑殺する事甚多且自分
文学武芸を自負高慢し人を見る事土芥之如く
又能を嫉の癖もあり一年退役を願ひて隠居之
身と成剃髪して中斎と号養子格之助を出勤
させて其身文武之門人を教導するのミ日を送り
けるに天魔外道所為にや不容易企を存附表ハ無
欲仁義を唱へ
公儀之政事を誹判して荷担之者をあさむき剰
へ倅格之助に娶すへき養子娘を自分之妾とし終ニ
男子出産するに深く寵愛惑溺し先祖の名なり
64頁 原 画
とて今川を名乗て弥逆謀之臍を堅メ蟷螂か斧を
もつて立車を打にひとし何の事なく市中を
乱妨して億蔵の人に憂苦をミせ其身ハ火中ニ
死て生前に地獄に堕そも是何之行ひそや夫物
ニ始在さる事なく克終有る事鮮との金言まこと成哉
始メハさしも賢士と称せられ終ハ乱妨奸賊の臭苦を
残す後世の人是を前車の誡として忠孝の道を知
るべし
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