俳人横井迦南は戦後の一時期を球磨郡多良木町に仮寓していまし
た。ホトトギス同人と言えば県内に数えるほどしかいなかった時代に、
迦南はその数少ない同人の一人でした。俳誌「阿蘇」の選者を務める
傍ら多良木町に句会を作って後進の育成に当たっていました。宗像夕
野火氏などはそこから巣立った俳人です。
私は平成2年から3年間ばかり仕事の都合で湯前町に単身赴任して
いました。その時に夕野火先生の句会へ通うようになり、写生の何たる
かを教えていただきました。毎年迦南の忌日の二月九日には迦南忌句
会が行われていました。
迦南忌や春寒の川遡り 礁 舎
掲句はその頃詠んだ私の句で先生に褒められて嬉しかったことを覚
えています。ここに云う川は勿論球磨川で、沿岸道路(国道219)を自
家用車を運転して遡ったのです。
さて、これから何回かに分けて迦南句を紹介しながら鑑賞文を書き
綴って行きますが、その際句の製作年次などにはとらわれず、こちらの
心の有り様次第で、謂わば気まぐれ的に採り上げて行くつもりです。
福寿草や主人満蒙の旅にあり 迦 南
これは朝鮮時代の句です。迦南は朝鮮龍山鉄道に奉職していたの
で、知人の家を年始回りなどで訪ねたときの属目と思われます。
「満蒙の旅」とは豪放な言葉ですね。いかにも大陸的で植民地時代の
雰囲気を纏っていて、この旅は四、五日程度の小旅行ではなく何か重
大な使命をおびた長期間におよぶ旅行のように思われます。「満蒙」と
いう措辞がそういう連想を引き出すのです。
一方、留守宅は夫人がしっかりと守っていて、年末の煩わしい年用意
なども一人で切り盛りして片づけてしまって、主のいない外地での正月
を一人で迎えたわけです。そこに一抹の寂しさがあり、作者の同情もあ
るのです。床の間に活けてある福寿草がその感じを強めています。
私をしてこんなふうに解釈せしめるのも季題「福寿草」の働きですね。
また調子の上で「福寿草や」と六音にしたことが、この句に厚みと奥行
きを与えています。
こんな事もけして偶然ではなく作者の計算から来ています。タダモノで
はないですね。
私はこの句を上記のように解釈したのですが、それは間違っているか
もしれません。俳句は短い言葉で事象を描写し表現します。ほとんど説
明はできないので、時としていくつもの解がなりたちます。
その場合、私は最も作者の意に添う解は・・という立場で解釈するよう
にしています。そんなふうに評価してくれてありがとう・・と作者に感謝さ
れるような解釈ですね。 つづく
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