古文書を読もう!「水前寺古文書の会」は熊本新老人の会のサークルとして開設、『東海道中膝栗毛』など版本を読んでいます。

これから古文書に挑戦したい方のための読み合わせ会です。また独学希望の方にはメール会員制度もあります。初心者向け教室です。

村々小前共江  肥後実学党の政治理念

2017-06-09 08:58:11 | 日記

 横井小楠率いる肥後実学党は反対派学校党に抑えられて、藩政の表舞

台に登場する機会はなかったのですが、明治になって小楠が参議として政

府に参与したことから藩政においても実学党が実権を握ることになります。

 下の文書はその実学党の政治理念を端的に示すものとして注目されま

す。この触書は領内各所に張り出されましたが、これを見た領民は狂喜し

たことでしょう。現に隣の岡藩などでは不公平感から藩内に暴動が起きたと

か、起きそうになったとか伝えられています。

 

               村々小前共江

今度我等知藩事の重任を蒙候ニ付而は

朝廷之御趣意を奉し

正四位様厚き思召を継て管内の四民うへこゞえの

うれへなく各其處を得さしめむ事を希

ふ中にも百姓ハ暑寒風雨もいとはず骨折

て貢を納め夫役をつとめ老人子供病者

にさへ暖に着せこゝろよく養ふことを得ざるは

全く年貢夫役のからき故なりと我ふかく恥おそ

る いかにもして此くるしみしミをとゞむとおもへとも今直に

本免をくつろぐることを得ず先左之通

一 上米  一 口米三稜  一 会所並村出米銭

右稜々を差ゆるしぬ はた又壱歩半米ハ凶年

損毛償の為に備をきしことにさむらへとも向

後をさむるに及ばず 是迄の請免を仮の定免

とこゝろへいよいよ農業に精をいれ老幼

を養育しあまりあるものハ親類組合等

の難渋をすくひ相互に人たるの道を

つくすへきもの也

  七 月          知 事

 

 さて、上記触書を立案したのは誰であるかですが、山田武甫ではないかとわたしは考えています。以下に鈴木喬著『熊本の人物』を引用しておきます。

 

 

実学党の熊本県参事               
    山田 武甫

 山田武甫(たけとし)は天保二年(一八三一)藩士牛島家に生れ、五次郎と称し、安政二年(一八五五) 山田家を嗣いだ。横井小楠の塾に学び、その才能を認められて明治元年 (一八六八)には藩政に参与するようになった。
 

 明治三年に細川護久が熊本藩知事になると小楠門下の実学党系の人々が藩の要職につき藩政の大改革が行われた。武甫は権少参事試補として民生局の事務を担当し、それまで農民の生活を圧迫していた雑税と津止法の廃止を藩庁に建言して採用されたので、領内皆これを徳としたという。また洋学校・医学校を創立して外人教師ジェーンスやマンスフェルトを招いて新教育を実施するなど、熊本藩の維新に大きく貢献した。
 

 四年の廃藩置県後も、熊本県(翌年白川県)参事として県政を掌握し、諸種の改革を行った。その行政があまりに進歩的すぎて保守的な留守内閣に嫌われ、六年参事を免職となったが、大久保利通にその手腕を認められて内務省に入り、同八年敦賀県権令となった。翌九年同県が廃されると官界生活に見切りをつけて帰熊した。西南の役の後、戦後の人心の荒廃をおそれて共立学舎を創設し、教育事業に手を染めたが、十三年には県の師範学校長に任命されている。また彼は殖産興業の国策に合せて十四年蚕業会社を創立し、実業界での活動も行っている。
 

 同年熊本にも政治結社として紫撰会が結成され、武甫ら実学派もこれに参加したが、その保守性に反撥してこれを脱退し、公議政党を組織した。さらに九州各地の穏健派の進歩党と会合を重ねた末、九州改進党の結成に成功した。武甫は明治二十三年、第一回の衆議院議議員に当選し、第三議会では議長の候補者に推されたが、第四議会に病を推して出席して危篤に陥り、二十六年二月なくなった。

 


 

 


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