人は何故生きるのか・・・? 生きている間には一度は誰でもこの疑問に直面する時期があるだろう。 それは思春期の場合も多く、そうした悩みを持つことで、人としての人格を確立する重要な問いでもある。
この時期に書物などを読む機会が多くなったり、人との関係性を意識したりして、大人になって行くのだろう。 この、大人になって行く・・・こと。 これは、この人はどうして生まれてきて、どこに向かって生き、何故生きるのか、生きる意味はなんなのか?????
こうした、まだ経験の浅い人生の途上で行きつく純粋な心でもある。
この時期を何とかやり過ごすと、そこには大人の事情と言う、社会的、生産的、効率的、経済的な意思が人間を動かしている社会性を垣間見ることになるのである。
まだ、未知なる未来に対して、純粋な生き方を追求する心の叫びは、人間が素直に、純粋に生きていける世界ではない事を知るまでは、とても清らかな物である。
それは、無上の優しさや、愛らしさや、物事に対する無心の心であり、そこには悪は存在しない無垢な精神性が生きている。
その精神性と、現実社会の落差に打ちのめされて、時には死を選んでしまう人も少なくない。 その時期にいじめなどに遭遇すると、そうした死へのある意味では憧れともいえる精神が生まれる。 純粋な心はとてもデリケートで傷つき易い。
それは、赤ちゃんと同じで、本当なら誰もが憧れるほどに無垢な清らかさデモあるのだ。 しかし、そうした精神を社会は傷つけ、鍛え上げ、自由で無垢な精神を消し去り、大人の事情を埋め込むのである。
こうした社会性は当然だけど、人に対する愛や優しさを消去する方向へ進ませる。
勿論、優しい人や思いやりの精神が無くなっている訳ではない。
無心に誰かを助ける事が出来る人も少なくない。 しかし、逆に利己主義と生産性や経済優先の思考に陥り、人間としての正義を溝に捨てる事も辞さない人間も多々居るのである。
特に、これは政治家や企業のトップに多く見受けられるのも、概ね外れてはいないだろう。 当然だけど、企業は競争原理に従って、企業としての生き残りを余儀無くされる。 そこには、人間性よりも、企業の存続を優先することになるし、社会性以上に個々の利益の為に奔走するのだ。
私達は一体、本当に、どこに向かって生きて行こうとしているのだろう。
何を求め、何を大切にして、何をしたいのか??
果たして、人間はどのようにして、未来を築いていくだろうか?
自然災害や原発やウイルスなどの脅威に立ち向かい、さらには国家間の競争や戦争を繰り返すことも未だに無くならない世界情勢は、人間がまだまだ経験値が足りないのだろう。
子供の無垢な正義感を取り戻したら、人間が競争原理から離脱して、国と言う枠が無くなり、地球と言う1個の世界を作る事が出来たら、恐らく、人生とは、人間はなぜ生きるのだろうと言う疑問符は無くなるのだろうと思うのである。
なぜなら、人間が生まれてから、生きる疑問符が付く要因は、世界が一つではなく、個々の人間や国がそれぞれにバラバラな世界であることだろう。
あまりにも、多くの選択し、多くの真実(本来なら真実は一つだろう)が存在するからだろう。 宗教や教育についても、世界は一つの目的に向かって進んでいる訳ではないからだろう。 各自がバラバラな方向を向き、それぞれがぶつかり合い、競争することが求められる世界であるからだろう。
何故生きるのか? 宗教的な答えは要らない。 そうではなく、この現実社会で、この問に正面から答えを出すことが出来れば、我々はもっと幸せになる事が可能だろう。
もっと、豊かで、清らかな人生を全うすることはそれほど無理な夢でもない。