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江南市縁の七人の戦国武将-4-

2010-04-21 06:03:15 | 郷土の歴史
《 前野将右衛門長康 》

江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

大永8年(1528年)出井・丹羽郡前野村(現江南市前野町)
幼名・小太郎、小右衛門、勝右衛門、将右衛門、従五位下
『豊臣秀次後見役』『但馬守出石城主 10万5千石』賜う
文禄4年(1595年)68歳 逝去


前野長康も時代に翻弄された武将です。

1528年に、木曽川の川並衆、前野家に生まれました。
1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。後の秀吉の最古参の家来なのです。
1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。
その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。

この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。
これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。
聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。
その後、関白豊臣秀次付きとなります。
まさに、最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。

そして事件が起きます。
1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。
秀次事件です。高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。
このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。

秀次謀反の出所ははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。これに伴い、淀君、石田三成?が何らかの動きをしたのかもしれません。

いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦いの一因となったのです。

『武功夜話』は、前野家文書の一つです。
長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています。

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