哲学チャンネル より 本当の自由とは?【自由からの逃走#8】を紹介します。
ここから https://www.youtube.com/watch?v=m1Q65Gb56XU
エーリッヒ・フロム【自由からの逃走】を解説します。 #1 https://youtu.be/CpYhLjKpsb0 人間は合理的な生き物か?【自由からの逃走#2】 https://youtu.be/NjjfXBmo-5E 人類はいつ【個人】を手に入れたのか?【自由からの逃走#3】 https://youtu.be/X-9s6wJ0w9g 中世の人々と最後の絆【自由からの逃走#4】 https://youtu.be/WKtBCCdKRAc 宗教改革の功罪 【自由からの逃走#5】 https://youtu.be/6HfMk8vZfj4 資本主義によって人々が失ったもの【自由からの逃走#6】 https://youtu.be/T1HFy9T9i_U 自由からの逃避のパターン【自由からの逃走#7】 https://youtu.be/dbZ4VYAfXb0 【自由からの逃走】まとめ 書評 https://youtu.be/IRLJjZsqnlY 愛に対する勘違い【愛するということ(前)】 https://youtu.be/o8hvClzzXzg 本当の愛を手に入れるために【愛するということ(後)】 https://youtu.be/lcCSbOuFb5c ※書籍 自由からの逃走 https://amzn.to/3vbD6te 愛するということ https://amzn.to/3qy2Qwi
動画の書き起こし版です。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー こんにちは。哲学チャンネルです。 人類の発展、特に近代デモクラシーは あらゆる外的な束縛から個人を解放しました。 これは一見、真の自由主義に見えます。 しかし、個人の無意味さや無力感は増大するばかりだとフロムはいいます。 その苦痛から人々は逃走しなければならないと。 その根本の原因は真の自己と社会的な自己にギャップがあることです。 現在の世の中では、社会的な自己を健康に保てば保とうとするほど 真の自己との溝が深くなり、より苦しくなります。 自己を否定し、大きな権威に服従すれば いっときの安心感を得られるかもしれません。 しかしそれは一時的なものであり、権威の動向次第であり ときにはファシズムのような危険な集団を生み出す可能性もあります。 自己を保つために社会的な対象を破壊する方法もあります。 対象を壊してしまえば、自己と社会のズレはなくなります。 しかし当然これは人間的ではない。 また、自己を完全に消し去って、社会の一部として あたかも自動機械のように生きる方法もあります。 名目上はそれで自己と社会の軋轢を見えなくすることができます。 しかしそれが本当に正解でしょうか? フロムは孤独な大人の状態を以下のようにあらわしています。 「自由の名の下に生活はあらゆる構成を失った」 「個人はちょうど積み木を持った子供のように、これらの断片を持って一人ぼっちにされている」 「大人はその断片を手にしながら、全体の意味がわからないのである」 自由という大海原に生み落とされた我々は ときにその世界で途方に暮れてしまいます。 自由を求めれば、孤独感が増し 孤独を解消しようとすれば、自由がなくなる。 このような、自由と孤独の相反した要素をうまく満たす方法は 他にないのでしょうか? フロムはこの解決方法を 「全統一的なパーソナリティの自発的な行為」に求めました。 それは自分の本当の思想と欲求を認識し、自由に付随する孤独を受け入れ、 自発的な行動をすることです。 彼はこの理想型を子供だとしました。 子供は自身の欲求にどこまでも素直です。 人格形成がはっきりとなされるまでの間、 その欲求に『社会的自我』の介入する余地はほとんどなく 『真の自我』の欲求に素直に従って行動します。 かれらは自分本来のものを感じ、 自分で考える力を持っていますよね。 一方で大人はどうでしょうか? 大人も考える力を持っているのではないでしょうか? そもそも考えるとは何でしょう? 我々は日常的に考えていると感じています。 また、自分には自分なりの欲求があると思っています。 フロムはこれについて独創性という言葉を挙げます。 独創性とは「いままでだれも考えなかったことを考えていること」ではなく 「それが個人の中ではじまっている」ことを意味するものだと。 我々の思考の中で真に独創性があるものは存在するでしょうか? 多くの場合自分で考えていると思っていることも 考えさせられていることではないでしょうか? また欲求はどうでしょうか? 自分がほしいと思っているものは本当に自分の中から出てきたものでしょうか? 世に溢れる広告や、社会的にこのような人生が最良であるという洗脳によって 『社会的自我が』欲しがっているものではないでしょうか? 社会的自我の思考、欲求に従って生きると 個人的自我とのギャップが大きくなります。 その距離に比例して人生に閉塞感を感じるようになるわけです。 もちろん、だからといって 「社会に惑わされない真の思考、欲求を手に入れる」 のは困難です。 なぜなら我々は社会に生きているから。 フロムはそれでも、といいます。 それでも、 自分の本当の思考とはなんなのか? 自分が本当に欲しいものは何なのか? これを徹底的に突き詰めて その衝動に従って自発的に行為を起こすことが必要だと考えるのです。 例えば現代日本の「良い人生」の価値観は ここ7.80年ぐらいで現れた比較的新しいモデルです。 はたしてそれが本当に人間的に優れた人生なのだろうか? 絶対に正しいとは言い切れないはずです。 絶対に間違っているとも言い切れませんが。 そしてその正誤の判断はあくまでも 『あなたにとって』なのです。 現代社会の多くの人々は匿名の権威に服従し ある意味機械人間として生きているとフロムは指摘します。 そのような人間は他人の期待に従って行動するときのみ 自我を確信できるようになります。 これに反すれば社会的には狂気と見做されます。 フロムはこの蟻地獄から一歩抜け出すことを提案しました。 もちろん、社会的な匿名の権威からの自由には 強烈な孤独感と無力感がセットになるでしょう。 この孤独感や無力感を簡単に解決するならば 大きな何かに服従するか、対象を破壊するか、 自身の幻想の世界に迷い込んでしまえば良いです。 しかし、もう一つの方法は孤独を受け入れ、 その上で自由を自発的に獲得することなのです。 その世界においては結果ではなく過程が重要になります。 結果にまみれた世界から抜け出し 『全統一的なパーソナリティの自発的な行為』 その過程自体を目的とする。 これにより、真の自我と、社会的自我の軋轢はなくなり 外界と自分は構成された全体の一部となります。 それはすなわち生きる行為そのものです。 何かから自由になるのではなく 新しい自由へと一歩踏み出す。 これが真の自由における勝利であり 真の個人主義の達成だと彼は考えました。 また、フロムはそれを社会的にも後押しするべきだろうと 『民主主義的社会主義』というシステムの提唱もしました。 しかし、個人が真の自己を実現する以上に、この理想は難しいものでしょう。 自分が何を考え、何を欲するのかを社会的なノイズを排して考える。 そして真の自我が求めるような生を自発的に実現する。 そこには孤独が付き纏うが、その孤独を受け入れて強く生きる。 フロムの提案した【覚悟ある自由】は 出版から80年経った今の時代にこそ 求められるものなのかもしれません。