あなたも社楽人!

社楽の会の運営者によるブログです。社会科に関する情報などを発信します。

5月6日は新聞休刊日

2016-05-06 05:22:44 | 社説を読む
今日は新聞休刊日なので、昨日のコラムを見てみましょう。

朝日新聞
・こどもの日のきょう、家や書店、図書館でこの作家の本を手にする方は少なくないだろう。「からすのパンやさん」「だるまちゃんとてんぐちゃん」。作者かこさとしさんが卒寿を迎えた

▼「だるまちゃん」シリーズは来年で50周年。もともとはてんぐちゃんが主役のはずだった。「鼻からの連想でピノキオの二番煎じと言われるログイン前の続き」と脇役に替えた。天狗(てんぐ)、天神、大黒、仁王らのほか、構想中の役が200もあるそうだ

▼科学絵本でも新境地をひらいた。取りあげたのは海、川、光、脳、骨、原子、呼吸、物質、地震、地球、太陽、宇宙、時間。児童向けとなれば一級の科学者でもしり込みしそうな主題に挑んだ。細部まで描きこまれた鳥瞰図(ちょうかんず)が大人の読者も魅了した

▼福井県生まれ。中2から軍人を志した。19歳で終戦を迎え、自分の世界観の狭さを悔やむ。「自身を含めて大人の言うこと考えることは信用できないと悟った」

▼未来を見すえて懸念するのは、豊かな土壌が各大陸で失われつつあることだ。「100億人に達する世界人口はやがて賄えなくなる。食物の争奪が起きて戦争を招く」。何千年もの失敗を重ねながら私たちはなお戦争を止める知恵をもたない

▼作品を貫くのは子どもの感性に対する敬意だろう。演劇や紙芝居で子どもたちと長く接した。大人には好評でも小中学生がそっぽを向くのはなぜか。絵と文だけで若い世代に何を伝えられるのか。90歳のいまも毎朝4時に起きて20代と変わらぬ難題と格闘している。


毎日新聞
・  「アイスクリームにチョコレート、日本のみんなに下さった、ララのみなさんありがとう」。戦争直後の子ども時代、こう歌った方はおられようか。ララは食料不足にあえぐ日本を支援した国際NGOで、援助品は「ララ物資」と呼ばれた

▲食料、医薬、衣料、日用品などの援助品の中にはヤギ約2000頭もあった。当時、多くの戦災孤児を保護していた佐賀県の寺の住職は横浜から数日かけて貨車で運んだと回想している。物資は欠(けっ)食(しょく)児童の多かった学校にも配給され、給食のさきがけとなったという

▲同じくNGOによる「ケア物資」、国連児童基金(ユニセフ)の援助品が子ども時代の思い出の一コマとなっている方も多いに違いない。こうした民間主体の国際援助が始まった当時の調査によれば、戦災孤児は12万人、うち7000人もが「浮浪(ふろう)」を経験していた

▲悲しいことに戦乱で親を失い、故郷を追われ、学校へも行けない子どもたちは今も絶えることがない。ユニセフによれば、内戦開始から5年たったシリアでは、その間に生まれた370万人の子が戦乱しか知らないで育ち、うち31万人近くが難民として生まれている

▲保護者なしに国境を越えた子どもが1万5000人、学校に通えぬ子ども280万人……挙げるほど現実味を薄れさせる数字の非情が憎らしい。だがその一人一人の幸せな「子ども時代」を奪った戦乱の罪深さは、過去の国際援助を経験した世代はよく知っていよう

▲受けた恩を返すのでなく、必要とする人に送ることで世を良くしていくことを「恩送り」という。今できることに思いをめぐらしたいこどもの日である。


日本経済新聞
・東京通信工業(現ソニー)が日本初のテープレコーダーを発売した1950年、共同創業者の盛田昭夫氏はある冊子を自ら書いた。なじみのないこの機械の解説書だ。写真が「目で見る記録」なら、録音は「耳で聞く記録」。写真と同様、当たり前になる――と訴えた。

▼ソニーが7日で設立から70年を迎える。その歩みを振り返れば新しい市場をいくつもつくってきた歴史だ。トランジスタで小型にしたラジオは、「一家に一台」から「一人に一台」の家電市場を開いた。「ウォークマン」は音楽を持ち歩いて聴くスタイルを生んだ。「溝を掘って水を流せ」と経営トップはハッパをかけた。

▼そうした開拓者魂がいま、弱まっていないか心配になる。ソニーに限らない。驚きがあったりライフスタイルを変えたりする製品が、日本の電機業界からはあまり出てこないと思う人は多かろう。盛田氏は「我々はエレクトロニクスという、最もイノベーションの可能性のある産業で働いている」と熱く語っていたのだが。

▼設立後、資金難の東京通信工業は現金収入を得ようと、ニクロム線を使った電気ざぶとんを売り出す。ところが本当の社名は入れず、販売元を「銀座ネッスル(熱する)商会」とした。温度の調節機能がない商品を出すことに気がとがめたからという。もっと斬新なものを世に問いたい。そんな技術者のプライドがみえる。 


産経新聞
・ 旧日本海軍の誇る3隻の空母は、米軍爆撃機の空襲により、炎上沈没した。唯一難を逃れた「飛龍」も、まもなく大爆発を起こす。直前に飛び立った零戦に搭乗していたのが、原田要(かなめ)さんである。大敗北に終わるミッドウェー海戦で、連合艦隊機動部隊を最後まで護衛した。その後海面に不時着し、4時間の漂流の末に救助される。

 ▼戦闘機パイロットとして日中戦争で初陣を飾り、真珠湾攻撃やガダルカナル島の戦いにも参加した。撃墜した敵機は19機に及ぶ。半生記の『最後の零戦乗り』にある通り、「海軍航空の誕生から終わりまでを見届けた」人物である。

 ▼もっとも戦後長く、「零戦乗り」の過去について口を閉ざしてきた。空戦で敵機にとどめを刺す寸前、目の当たりにした相手の苦しそうな顔が忘れられない。「人殺し」としての罪悪感にとらわれていたからだ。

 ▼郷里の長野市内で、幼稚園の園長として穏やかな日々を送っていた。その気持ちに変化が起こる。きっかけは、1991年に起きた湾岸戦争だった。「テレビゲームみたいだ」。ニュース映像を見た若者が漏らした感想に衝撃を受ける。

 ▼原田さんは、何度も生死の境をさまよった自らの悲惨な体験を伝える決心をする。今月3日、99歳の天寿を全うした原田さんは講演で、戦争の恐ろしさと平和の大切さを訴え続けた。ただ、納得できないことが一つある。

 ▼昭和12年に日本軍が中国・南京を攻略した際、原田さんは海軍航空隊の一員として現地にいた。記憶にあるのは、露店が立ち、日本兵相手に商売を始めた住民の姿である。「南京大虐殺は信用できない。もしあれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」。小紙連載「歴史戦」の取材に語っている。   


中日新聞
・脚本家の山田太一さんが一九七四年の多摩川堤防の決壊を描いた『岸辺のアルバム』。執筆に当たって家を流されてしまった方を取材した。こんな話を教えてもらったそうだ

▼家が流されてしまう。もう逃げなければならない。その直前、冷蔵庫からビールを出したそうだ。自分で飲むわけではない

▼「栓をあけて、とにかく台所から居間、和室と、ビールをトットットッとまき散らしたんです。お前も終わりか、終わりだな、さよならって」(『昭和を生きて来た』河出文庫)

▼苦労して手に入れ、長年、家族と暮らした家なのだろう。「ぬくもり」「思い出」が流されていく。お子さんがあった方なら、柱にはおそらくあの傷もあったのではないか。子の背の高さを毎年刻むちょっとした印。<柱の傷はおととしの五月五日の背くらべ>(「背くらべ」作詞海野厚、作曲中山晋平)

▼<風吹けば来るや隣の鯉幟(こいのぼり)>高浜虚子。住宅事情の変化、少子化などのせいか、隣に迷惑をかけるほど、大きなこいのぼりも最近はあまり見掛けぬが、こっちの「儀式」はまだ元気か。身長に加えて柱に刻んでいるのは、家族の笑い声や穏やかな日々だろう

▼判明分だけで、全壊、半壊、一部損壊の合計約二万四千。熊本地震の住宅被害である。懐かしき傷の残る柱に触れるどころか、家の中にも入れぬ。深刻な別の傷を思う今年の重五(ちょうご)である。


※ いかがでしょう。

コラムの難しさは、実際に自分で書いてみればわかります。

かこさとし、ララ、SONY、原田要、『岸辺のアルバム』と、テーマは様々ですが、それぞれに意味があります。主張があります。
個人的に最も引き込まれたのは中日でした。そこへ行くのか・・・・という感想です。

短時間で味わえる知的な空間。

それがコラムです。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。