加納城・加納宿-1-
2025年3月1日(土)、愛知ウォーキング城巡りクラブ(AWC) 「美濃 加納城址と中山道加納宿巡り」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、今日から6回にわたって紹介します。
今回訪問したところです。
集合前に、中山道加納宿西番所趾 へ行ってきました。
場所は次。岐阜駅より西に在ります。
加納天満宮の前の有料駐車場に車を止めて、西番所を目指しました。
秋葉神社がありました。
御存じ、火の神様です。
中山道です。
上が東側。
次が西側。
また秋葉神社。
さらに西へ向かいます。
左側に何か見えてきました。
これが、またまた秋葉神社。
この秋葉神社こそが、中山道加納宿西番所趾 なのです。
番所(ばんしょ)とは、警備や見張りのために設置された、番人が詰めるために設けられた施設のことです。
中山道加納宿東番所趾 も後ほど紹介します。
水準点がありました。
集合場所へ向かいます。
仲間の皆さんです。
よろしくお願いしま~す。
東へ向かいます。
西広江神社 です。小祠も大切にされています。
さりげなく碑があります。
岐阜街道(鮎鮨街道・御鮨街道)を南に進みます。
信長が岐阜城を攻略したことで、清州と岐阜を結ぶ主要街道になりました。
さらに、慶長8年(1603)に美濃国奉行だった大久保長安が徳川家康、秀忠に岐阜の鵜飼で捕れた鮎を加工した鮎鮨を献上、元和元年(1615)以降は毎年10~20回この道を通って献上したことから「鮎鮨街道」「御鮨街道」とも呼ばれるようになりました。
詳しくはこの本をお読みください。
何だ?!これは?
「亀姫侍女 十二相 祠堂 址」
そう、亀姫の侍女 12人が、何らかのお咎めを受け、処刑されて祀られたのです。
中に入れないので読めませんが、説明されています。
あるサイトに次のようにありました。
引用します。
大社長の我がまま娘
大社長は徳川家康、娘は家康の長女亀姫。
徳川家康は誰もが聞いたことあると思います、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・戦国大名・天下人戦国時代に終止符を打ち、江戸幕府を開府した征夷大将軍です。

岐阜城が関ヶ原の戦いの後廃城となり、岐阜の南に加納藩が出来加納城主に奥平信昌が就いた、その正室が亀姫であります。
亀姫侍女十二相祠堂阯(かめひめじじょじゅうにそうしどうあと)はその姫のエピソードの一つです。
十二相祠堂跡(十二相神)、神と書かれた物もあり異説もあります。
侍女とは、身の回りをする女、腰元と言った方が分かりやすいですね。
我がまま娘で、自分の身の回りをしてくれる侍女を咎めて処刑してしまい、その後に祀ったのが十二相祠堂跡です。

ここで何に咎められた?のかと言う疑問が出ますが、全く不明だそうです。
加納藩田辺見聞録には、慶長十二丁未年(1607)加納様( 亀姫)の侍女、十二人一時に咎めに逢い、元和四戌午年(1618)この地に設社とだけ記載されているそうです。
亀姫は生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲けました。
その後宇都宮に移り、宇都宮城釣天井事件の後再び加納に戻り、寛永2年(1625)加納において66歳でなくなりました。
出典 レッツぎふマガジン https://www.lets-gifu.com/maga/%E5%A4%A7%E7%A4%BE%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%88%91%E3%81%8C%E3%81%BE%E3%81%BE%E5%A8%98/
亀姫は徳川家康の長女。
そして、彼女の夫が奥平信昌。
武田信玄に仕えていましたが、信玄が死ぬことで徳川家康につきます。
これに怒った武田勝頼。
奥平信昌が城主の長篠城めがけて襲い掛かりました。
必死で長篠城を守りきった奥平信昌に対して、家康は長女・亀姫を嫁がせたのです。
関ヶ原後は、美濃加納10万石を与え、亀姫は加納御前とよばれます。
だとしても、12人の侍女を処分とは、尋常ではありません。
最愛の母(瀬名姫)や兄を、父・家康の命令で失なった(自害)心境はうかがい知ることはできません。
屈折したものがあってもおかしくありません。
夫である奥平信昌には側室を置かせず、5人も子供を産んでいます。
続きます。
動画です。
徳川家康の長女・亀姫の波乱の生涯と影響 #亀姫 #徳川家康 #奥平信昌
母譲りの美貌と嫉妬深さ…!?大河とは異なる亀姫の人物像とは
家康の長女、亀姫の後半生 #どうする家康
光国寺
場所を確認しましょう。
ここにあるのが亀姫の墓です。
扉が閉まっており、中には入れません。
扉にあるのが葵のご紋。
中の様子です。
説明板を紹介します。
文字起こししてみましょう。
亀姫は徳川家康の長女で、初代加納藩主奥平信昌の正室です。
母は築山殿で、江戸幕府二代将軍秀忠、尾張藩祖徳川義直の姉にあたります。元和元年(一六一五)に夫信昌が没すると仏門に帰依し、盛徳院(せいとしいん)と号しました。
この肖像画は、晩年の亀姫を描いたものと考えられ、小袖の上に墨染の衣を身に着け、右手に数珠を持ち、頭巾を被る僧の姿をしています。
また、上畳の上に片膝を立てて座る姿勢は、当時の正式な座り方であると考えられています。 荘厳な御簾や惟からは、家康の娘である亀姫の高い地位と、加納大夫人と崇められて大名以上であったといわれる様子がうかがえます。
光国寺は、亀姫が自身 菩提寺とする。慶長十九年(一六一四)に創建した寺院ですが、父家康の没後には寺内に堂を建てて父の菩提を弔うなど、深い関わりがありました。
この肖像画と極めてよく似た肖像画が加納の盛徳寺や京都妙心寺の大法院などにありますが、光国寺にはこの肖像画をはじめ、亀姫の遺品が多く伝わっています。
亀姫の4人の子のうち、次男、四男は家康の養子になっています。
家康は、亀姫を大切にしていることがわかります。
また、亀姫も父の菩提を弔っています。
この画像は、動画「徳川家康の長女・亀姫の波乱の生涯と影響」 https://www.youtube.com/watch?v=qk_Tefys3Fc&t=939s からお借りしました。
この辺りの事情がよく分かります。
明日第2回に続きます。
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