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愛知の街道を行く シリーズ1「鳴海宿」-4-

2024-02-28 07:20:46 | 取材・旅行

2024年2月24日(土)、栄中日文化センター主催、「愛知の街道を行く シリーズ1」(2024年1~5月)「鳴海宿」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、数回にわたって紹介します。

街道シリーズは宮宿に続いての2回目です。宮宿については 「宮宿」-1- をご覧ください。

今回のルートです。前回のゴール「桜」駅から右下の有松駅までオレンジ色の線を歩きました。

この画像の出典は前回同様 Network2010https://network2010.org/article/451 

今回は、笠寺観音(笠覆寺)-1- です。

前回の画像です。右下が笠覆寺です。

地理院地図で見てみましょう。

笠覆寺 は台地の上にあることがわかります。

西側から入ります。西門は木造、一間薬医門のようです。

何十年ぶりかな・・・多宝塔です。

六地蔵堂です。六角形の石柱がの六つの面にお地蔵さんが彫られています。一石六地蔵とよばれているそうです。

六地蔵とは地蔵菩薩の六分身のことで、生前の行為のによって,死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道を輪廻・転生するといわれています。

それぞれに,衆生救済のための檀陀,宝印,宝珠,持地,除蓋障,日光の六地蔵のことをいいます。

そして、家康で話題になったのが・・・・

家康は幼少時代に今川家の人質になっていました。わたしは、この時代のことが、家康の生活に大きな影響を与えていたと思っています。

引用します。https://tabi-mag.jp/ieyasukasadera/


家康の生い立ちをさらりと学んでおきましょう。
天文11年12月26日(1543年1月31日)、岡崎城に生誕(幼名、竹千代)。
天文16年(1547年)、松平広忠(家康の父)は、岡崎を攻略しようとする織田信秀(織田信長の父)に対抗するため、当時は大きな勢力を有した今川義元と同盟を結びます。そして数えで6歳の竹千代(家康)は、人質として今川方に差し出されることに。
こうして家康の波瀾万丈の生涯が始まります。

今川家の居館である駿府(静岡市)への護衛は田原城主・戸田康光が担当。岡崎城から徒歩で渥美半島へと出て、老津の浜(豊橋鉄道渥美線老津駅近く)から舟で駿河を目ざすという計画だったわけですが、船はなぜか織田信秀の居城・那古野城(のちの名古屋城)を目ざします。
竹千代は、義理の祖父の裏切りに合い、敵方の織田信秀に銭百貫で売り飛ばされたのです。

竹千代は当初、熱田神宮近くの豪商・加藤図書助順盛(かとうずしょのすけのぶもり)の邸宅に幽閉されていました。 ←前回のシリーズで取りあげました
その跡地には現在「家康幼児幽居地」(下の地図参照/愛知県名古屋市熱田区伝馬2-13-3)という看板が立つのみで、とくに往時を偲ぶものは何も残っていません。
家康は江戸に幕府を開いた後、加藤家に家康は140余石の土地を与えて、感謝の意を表していますが、そんなところにも家康の気配りを感じます。


愛知の街道を行く シリーズ1「宮宿」-4-  をご覧ください。

こうしてつながると、より理解が進みます。

引用を続けます。


その後、竹千代は織田家の菩提寺・萬松寺(万松寺)に移されます。
萬松寺は、織田信秀が織田家の菩提寺として開基した寺。
現在は名古屋の繁華街・大須に建っていますが、当時は織田家の居城、那古野城の南側、現在の名古屋市中区錦と丸の内2、3丁目にまたがる一帯に広大な寺域(5万5000坪)を所有していました。
ここで暮らす間に若き織田信長(信長は家康より9歳年上です)と対面したと推測できます。

天文18年(1549年)、家康の父、松平広忠が没すると、今川家はすぐに動きます。
太原雪斎率いる2万の大軍が、織田方の安祥(あんじょう=安城)城を陥落させ、城将・織田信広(織田信長の庶兄)をついに生け捕りにします。

天文18年11月9日(1549年11月27日)、織田家に幽閉された松平竹千代(家康)と今川家の囚われの身となった織田信広の人質交換交渉が成功。
東海道沿いの笠寺観音(笠覆寺/名古屋市南区)で人質交換が行なわれ、竹千代は駿府、今川義元の元に送られることになります。


ドラマですね。

これが成立していなければ、歴史はどうなったのか?

わかりません・・・・・・

動画を紹介します。

 

延命地蔵です。「行者堂」、「延命地蔵堂」、「白山社」の三つ並んでいる真ん中にあります。

延命地蔵は、お釈迦様亡きあとの衆生を救うのがお地蔵様と言われているそうです。出典 http://kasadera.jp/annai/keidai.html

 

本堂です。

寺紋です。なぜ笠?

説明板です。

文字起こししてみましょう。


笠寺観音の歴史

○ 開基
呼続の浜辺に流れ着いた霊木が夜な夜な不思議な光を放ち、見る人は恐れをなした。
近くに住んでいた禅光(善光)上人は夢のお告げを受け、その霊木を彫らせて十一面観世音菩薩の像を造り、堂を建て、そこに観音様をおさめ、寺号を「天林山 小松寺」とした。
天平五年(733)の事であった。

○ 観音様と玉照姫
その後、約200年の歳月が流れ、 小松寺は荒れ、 お堂は崩壊し、観音様は雨風にさらされたままになってしまった。ここに一人の娘がいた。彼女は鳴海長者 太郎成高の家に仕えており、その器量を妬まれてか雨の日も風の日も、ひどくこき使われる日々を送っていた。
ある雨の日 雨露に濡れる観音様の姿を見て気の毒に感じ、自分がかぶっていたをとり、観音様にかぶせたのであった。
その縁か後日、関白藤原基経公の息子、中将・藤原兼平公が下向のおり、長者の家に泊まった際にその娘をみそめ、自分の妻として迎えようと決心した。
苦境を救われ兼平公の妻となった彼女は「玉照姫」 と呼ばれることとなった。
玉照姫 (左) と兼平公(右)この観音様によって結ばれた玉照姫・ 兼平公ご夫妻は、延長八年(930)、この地に大いなる寺を建て、観音様を奉安し、寺号を小松寺から「笠覆寺」に改めた。 この寺号が「笠寺」の名の由来である。
以来、現在に至るまで笠覆寺は「笠寺観音」 の通称で親しまれ、厄除けや縁結びの観音様として、多くの人々の信仰を集めることとなる。

○ 興廃の波
さらに年月は経ち、 嘉禎四年(1238) に阿上人が寺を再興したのを始め、鎌倉~室町頃には塔頭寺院として「十二坊」が派生した (現存は4坊)。 現在の堂塔の多くは江戸期 (正保~宝暦年間) の再建になるものである。
江戸~明治時代にかけ諸堂は傷み、 また境内に建っていた玉照姫木像が安置されていた堂も失われ、木像も門外に流出してしまった。
しかし、玉照姫・兼平公ご夫妻のご位牌と最初にかけられた笠は幸いにも散逸の難をのがれ、寺に残されて堂の再建を待つことになる。

○ 復興と現代
後に住職となる政識和尚は、荒れた寺を憂い、大正時代からあちこちに勧請して多くの信者の帰依を受けるなか、戦後には本堂・ 山門などの大修理をすすめて笠覆寺を復興、かつての壮観を取り戻した。
平成時代には、失われて百年あまりが経った玉照姫の堂の再建も果たされた。
令和時代に入り、本堂建立 (1763) 以来で最大の規模の根本的修理や諸堂・境内の整備を行う。
観音様はじめ幾多の諸尊、玉照姫 ・ 兼平公ご夫妻は、いまもこの寺で、 参拝する善男善女を見守っている。


明日に続きます。「鳴海宿」-5- へ


「鳴海宿」ラインナップ

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