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【日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち】斉明女帝編

2018-09-28 05:55:28 | 歴史関連情報
YouTubuより【日本国創成のとき〜飛鳥を翔た女性たち】斉明女帝編を紹介します。


 ここから https://www.youtube.com/watch?v=fe1GrfMEbG8

3部作の第2作です。
20分ほどの作品で、丁寧につられています。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説を引用します。

[生]推古2(594).大和
[没]斉明7(661).7.24. 筑紫
第 37代の天皇,女帝 (在位 655~661) 。第 35代皇極天皇の重祚。第 34代舒明天皇の皇后。
名は天豊財重日足姫尊 (あめのとよたからいかしひたらしひめのみこと) ,諱は宝,敏達天皇の曾孫にあたる。
茅渟 (ちぬ) 王の娘,母は吉備姫王。初め高向王にとついで漢皇子を生んだが,のち舒明天皇の皇后となり,中大兄 (のち天智天皇) ,大海人 (のち天武天皇) 両皇子を生んだ。

舒明天皇の没後,蘇我氏が古人皇子の即位を企てたが,反蘇我派が台頭して皇極1 (642) 年1月皇極天皇の即位が実現した。
最初大和小墾田 (おはりだ) 宮を皇居としたが,翌2年4月大和飛鳥板蓋 (あすかいたぶき) 宮に移った。当時,蘇我入鹿の権力が強く,山背大兄王を斑鳩宮に攻めて自殺させるなど横暴が続いたが,同4年6月中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼすと,天皇は皇位を弟軽皇子 (孝徳天皇) に譲った。
孝徳天皇の没後,重祚して斉明天皇となる。
女帝は都を飛鳥に復したが,その冬,板蓋宮が炎上したため飛鳥川原宮に遷御し,翌年飛鳥後岡本宮に移った。
また,対外問題が困難となったため,斉明4 (658) 年,阿倍比羅夫をつかわして蝦夷を2回,粛慎 (みしはせ) を2回討伐したといわれる。
一方,唐,新羅連合軍に攻められた百済の求めに応じ,同7年,百済救援軍を送り,天皇みずから筑紫朝倉に向ったが,救援軍進発の直前,朝倉橘広庭宮で崩御。
陵墓は奈良県高市郡高取町の越智崗上陵。

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