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<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>
<漢検1級 27-③に向けて その55>
●饗庭篁村の「良夜」から2題・・・。たまにはこういう古くさい文章も新鮮です(^^)
●難度は並みレベルでしょうか・・・80%(24点)以上が目標・・・。
●文章題㉔:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「良夜」(饗庭篁村) その1
「予は越後三条の生れなり。父は農と商を兼ねたり。伯父は春庵とて医師なり。余は父よりは伯父に愛せられて、幼きより手習い学問のこと、皆、伯父の世話なりし。自ら言うは異な事なれど、予は物覚えよく、一を聞て二三は知るほどなりしゆえ、伯父はなお身を入れてこの子こそ穂垂という家の苗字を世に知らせ、またその生国としてこの地の名をも挙るものなれとて、いよいよ珍重して教えられ、人に逢えばその事を吹聴さるるに予も嬉しき事に思い、ますます学問に身を入れしゆえ、九歳の時に神童と言われ、十三の年に小学校の助教となれり。父の名誉、伯父の面目、予のためには三条の町の町幅も狭きようにて、この所ばかりか近郷の褒め草。ある時、県令学校を巡廻あり。予が講義を聴かれて「
(ア)天晴、
(イ)慧しき子かな、これまで巡廻せし学校生徒のうちに比べる者なし」と校長に語られたりと。予この事を洩れ聞きてさては我はこの郷に冠たるのみならず、新潟県下第一の
(1)シュンケツなりしか、この県下に第一ならば全国の英雄が集まる東京に出るとも第二流には落つまじと俄かに気強くなりて、密かに我腕を我と握りて打笑みたり。この頃の考えには学者政治家などという区別の考えはなく、豪傑英雄という字のみ予が胸にはありしなり。さりければなおさらに学問を励み、新たに来る教師には難問をかけて閉口させ、後には父にも伯父にも口を開かせぬ程になり、十五の歳新潟へ出て英学をせしが教師の教うるところ低くして予が心に満足せず。八大家文を読み論語をさえ講義し天下を
(2)ケイリンせんとする者が、オメオメと猿が手を持つ蟻が臑を持つの風船に乗って旅しつつ廻るのと、
(3)ジギに類する事を学ばんや。東京に出でばかかる事はあるまじ。龍は深淵にあらねば潜れず、東京へ出て我が才識を研ぎ世を驚かすほどの大功業を建てるか、天下第一の大学者とならんと一詩をのこして新潟の学校を去り在所にかえりて伯父に出京の事を語りしに、伯父は眉を
(ウ)顰め、「東京にて勉学の事は我も汝に望むところなり、しかしまだ早し、卑近なり」とて「字を知り語を覚ゆるだけの方便なり。今二三年は新潟にて英学をなしその上にて東京へ出でよ、学問は所にはよらじ、上磨きだけを東京にてせよ」と止められ、志を屈して一年程は独学したれど、はしる馬の如き出京の志、弱き手綱に繋ぐべきにあらず。十七の春なりし。・・・
穂垂の息子が東京へエライ者になりに行くぞ目出とう送りてやれよとて、親族よりの
(4)センベツ見送り、父はそれらに勇みを付けて笑いを作りて居られたれど、母はおろおろとして、「宜いかエ周吉、気をお付けなさいよ、早く帰ってお出でよ」と同じ言を繰り返されたり。予は
(5)ガイセンの将の如く得々として伯父より譲られたる銀側の時計をかけ革提を持ち、「皆様御健勝で」と言うまでは勇気ありしが、この暇乞いの語を出し終りたる後は胸一杯、言うべからざる
(6)アンシュウを醸し生じたり。自ら呼吸を強くし力足を踏み、町はずれまで送りし人々の影を見かえり勝ちに明神の森まで来りしが、この曲りの三股原に至り、またつとめて勇気を振い起し大願成就なさしめたまえと明神の
(エ)祠を
(7)ヨウハイして、おぼつかなき旅に上りぬ。
(8)ロヨウとして六円余、また東京へ着して三四ヶ月の分とて三十円、母が縫いて与えられし腹帯と見ゆる
(オ)鬱金木綿の胴巻に入れて膚にしっかと着けたり。
・・・翌朝騒がしくまた慌ただしく
(カ)催されて馬車に乗る。乗ればなかなか馬車は出ず。やがて九時にもならんとする頃一鞭あてて走り出せしが、そのガタガタさその危なさ腰を馬車台に打ちて宙に跳ね上りあたかも人間を
(キ)鞠にして弄ぶが如し。目は眩み腹は揉める。死なざりし事を幸いとして、東京神田万世橋の傍らへ下ろされたり。この時の予はもとの新潟県下第一の豪傑穂垂周吉にあらずして、唖然たる痴呆の一書生なり。馬車の動揺に精神を
(9)コウランし、単純なる空気を呼吸したる肺臓は砂煙りに混じたる汚濁
(ク)臭穢の空気を吸い込み、馬車人力車の
(10)トドロきさながらに地獄の如く、各種商店の飾りあだかも極楽の荘厳の如く恍然として東西を弁ぜず、乱雑して人語を明らめがたし。我自ら我身を顧りみれば
(ケ)孑然として小虫の如く、車夫に罵られ
(コ)馬丁に叱られ右に避け左にかがまりて、ようやくに志す浅草三間町へたどり着きたり。・・・」
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(1)俊傑 (2)経綸 (3)児戯 (4)餞別 (5)凱旋 (6)暗愁 (7)遙拝 (8)路用 (9)撹乱 (10)轟
(ア)あっぱれ (イ)さと (ウ)ひそ (エ)ほこら (オ)うこん (カ)うなが (キ)まり (ク)しゅうわい・しゅうあい (ケ)げつぜん・けつぜん (コ)ばてい
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●文章題㉕:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「良夜」(饗庭篁村) その2
「・・・月日の経つは活字を拾うより速かに、器械の廻るより早し。その年の夏となりしが四五月頃の気候のよき頃はさてありしも、六七月となりては西洋擬(なぞら)いの外見
(1)レンガ蒸暑きこと言わん方なく、蚤の多きことさながらに足へ植えたるごとし。呉牛の喘ぎ苦しく胡馬の
(ア)嘶きを願えども甲斐なし。夜はなおさら昼のホテリの残りて堪えがたければ迚も寝られぬ事ならば、今宵は月も明らかなり、夜もすがら涼み歩かんと十時ごろより立ち出で、観音へ参詣して吾妻橋の上へ来り。四方を眺むれば橋の袂に焼くもろこしの匂い、煎豆の音、氷屋の呼声かえッて熱さを加え、立売の西瓜日を視るの想あり。半ば渡りて立ち止り、欄干に倚りて眺むれば、両岸の家々の火、水に映じて涼しさを加え、いずこともなく聞く絃声流るるに似て清し。月あれども地上の光天をかすめて無きが如く、来往の船は自ら点す燈におのが形を示し、棹に砕けてちらめく火影櫓行く跡に白く引く波、見る者として皆な暑さを忘るる物なるに、まして川風の肌に心地よき、汗に濡れたる単衣をここに始めて乾かしたり。紅蓮の魚の仏手に掏い出されて無熱池に放されたるように我身ながら快よく思われて、造化広大の恩人も木も石も金もともに
(イ)燬くるかと疑わるる炎暑の候にまたかくの如く無尽の涼味を貯えて人の取るに任すとは有難き事なりと、古人の作中、得意の詩や歌を誦するともなく謡うともなくうめきながら欄干を撫でつつ歩むともなくたたずむともなく立ち戻り居るに、往来の人はいぶかしみ、しばしば見かえりて何か詞をかけんとして思いかえして行く老人あり、振りかえりながら「死して再び花は咲かず」と
(2)リカを低声に唄うて暗に死をとどむる如く
(ウ)誡め行く職人もあり。老婆などはわざわざ立ちかえりて、「お前さんそこにそうよっかかって居ては危のうございますよ、危ないことをするものではありませんよ」と
(3)ジュンジュンと諭さるる深切。さては我をこの橋上より身を投ずる者と思いてかくねんごろには言わるるよと心付きて恥かしく、人の来るを見れば歩きてその疑いを避くるこの心遣い出来てより、涼しさ元のごとくならず。されどこの清風明月の間にしばらくなりと居た者が活版所へ戻りて半夜なりとて明かさるべきにあらねば、次第に更けて人の通りの少なくなるを心待にして西へ東へと行きかえるうち、巡行の巡査の見咎むるところとなり、「御身は何の所用ありてこの橋上を徘徊さるるぞ」と問われたり。予もこの頃は巡査に訊問さるるは何にかかわらず不快に感ずる頃なれば、「イヤ所用なければこそこの橋上を徘徊致すなれ」と、天晴よき返答と思いて答えたり。
・・・巡査はまた一かえりして予が未だ涼み居るを
(4)ベッシして過ぎたり。金龍山の鐘の響くを欄干に背を
(エ)倚せてかぞうれば十二時なり。これより
(5)コウジン稀となりて両岸の火も消え漕ぎ去る船の波も平らに月の光り水にも空にも満ちて川風に音ある時となりて清涼の気味滴る計りなり。人に怪しめられ巡査に咎められ懊悩としたる気分も洗い去りて清くなりぬ。ただ看れば橋の中央の欄干に倚りて川面を覗き居る者あり。我と同感の人と頼もしく近寄れば、かの人は渡り過ぎぬ。しばしありて見ればまたその人は欄干に倚り仰いで明月は看ずして水のみ見入れるは、もしくは我が疑われたる投身の人か、我未ださる者を救いたる事なし、面白き事こそ起りたれと折しもかかる
(オ)叢雲に月の光のうすれたるを幸い、足音を忍びて近づきて見れば男ならで女なり。ますます思いせまる事ありて覚悟を極めしならんと身を潜まして窺うに、幾度か欄干へ手をかけて幾度か
(6)チュウチョし、やがて下駄を脱ぎすつる様子に走り倚りて抱き留めたり。振り放さんともがくを力をきわめて欄干より引き放し、「まずまず待たれよ死ぬ事はいつでもなる」詞せわしくなだむるところへ早足に巡査の来りてともに詞を添え、ともかくもと橋際の警察署へ連れ行く。
(7)シサイを問えど女は袖を顔にあてて忍び音に泣くばかりなり。予に一通りシサイを問われしゆえ、得意になりてその様子を語りたり。警官は詞を和らげて種々に諭されしに、女もようやく心を翻し涙を収めて予に一礼したるこの時始めて顔を見しが、思いの外に年若く十四五なれば、浮きたる筋の事にはあるまじと憐れさを催しぬ。「死なんと決心せし次第は」と問われて口籠り、「ただ母が違うより親子の間よからず、私のために父母のいさかいの絶えぬを悲しく思いて」とばかりにて跡は言わず。
・・・巡査の証言にかの人も車夫も手持不沙汰なれば予は厚くその注意を謝し、今は我輩も帰るべしと巡査にも
(カ)一揖して月と水とに別れたり。この夜の清風明月、予の感情を強く動かして、終に文学を以て世に立たんという考えを固くさせたり。
・・・懐しき父母の許より手紙届きたり。それは西風
(キ)槭樹を揺がすの候にして、予はまずその郵書を手にするより父の手にて記されたる我が姓名の上に涙を落したり。書中には無事を問い、無事を知らせたるほかに袷、襦袢などを便りにつけて送るとの事、そのほか在所の細事を委しく記されたり。予よりは隠すべきにあらねば当時の境界を申し送り、人世を以て学校とすれば書冊の学校へ入らずも御心配あるなと、例の空想に
(ク)聊か実歴したる着実らしき事を交えて書送りたり。折返して今度は伯父よりの手紙に、学資を失いて活版職工となりしよし驚き気遣うところなり、さらに学資も送るべし、また幸いに我が西京に留学せし頃の旧知今はよき人となりて下谷西町に住まうよし、久しぶりにて便りを得たり、別紙を持参して諸事の指揮をその人にうけよと懇ろに予が空想に走する事を誡められたり。
・・・先に茶を運びし小女は、予が先夜吾妻橋にて死をとどめたる女なりし。主公は予をまた車夫に命じて抱き止めさせし人なりし。小女は浅草清島町という所の
(8)サイミンの娘なり。形は小さなれど年は十五にて
(9)レイリなり。かの事ありしのち、この家へ小間使いというものに来りしとなり。貧苦心配の間に成長したれど悪びれたる所なく、内気なれど情心あり。主公は朋友の懇親会に幹事となりてかの夜、木母寺の植半にて夜を更して帰途なりしとなり。その事を言い出て大いに笑われたり。予は面目なく覚えたり。小女を見知りし事は主公も知らねば、人口を
(ケ)憚りてともに知らぬ顔にて居たり。
予はこれまでにて筆を措くべし。これよりして悦び悲しみ大
(10)ユウシュウ大歓喜の事は老後を待ちて記すべし。これよりは予一人の関係にあらず。お梅(かの女の名にして今は予が敬愛の妻なり)の苦心、折々
(コ)撓まんとする予が心を勤め励まして今日あるにいたらせたる功績をも叙せざるべからず。愛情のこまやかなるを記さんとしては、思わず人の嘲笑を招くこともあるべければ、それらの情冷かになりそれらの譏り遠くなりての後にまた筆を執ることを楽しむべし。・・・」
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(1)煉瓦 (2)俚歌 (3)諄々 (4)瞥視 (5)行人 (6)躊躇 (7)仔細 (8)細民 (9)怜悧 (10) 憂愁
(ア)いなな (イ)や (ウ)いまし (エ)よ (オ)むらくも (カ)いちゆう (キ)せきじゅ (ク)いささ (ケ)はばか (コ)たわ
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