漢検1級198点!! 満点取るまで生涯学習!! ➪ “俳句”

我孫子・手賀沼と愛猫レオンの徒然日記。漢検1級チャレンジャーの方の参考となるブログ。2018年7月から“俳句”も開始。

漢検1級 27-③に向けて その59 畭(畬) 疳 瘧

2015年12月07日 | 熟語の読み(音・訓) -個別記事- 
日本漢字能力検定(漢検) ブログランキングへ
<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>

<漢検1級 27-③に向けて その59 >
●漢検漢字辞典第2版から・・・
<畭(畬):ヨ、シャ、あらた、やきはた>
・第2版で、音による読み分けあり・・・。
 「ヨ」音の場合、開墾して2~3年の田・・・すなわち、「あらた(新田)」を意味する・・・「畭田(ヨデン)」のみ、熟語掲載あり。
 「シャ」音の場合、「やきはた、やきた」を意味する。
・紛らわしいけど、「畭田(ヨデン)」なら「新田に開墾した田、新田」のこと、「畭田(シャデン)」なら「雑草を焼き払った田」のこと。
・漢字源に分かりやすい説明があった・・・
 もともと、「中国の少数民族の名。主に福建や浙江に居住する焼き畑をする民なので、「畲(ヨ) 」といい、字体を少し変えて「畬(シャ)」とした」ということでした・・・。もともとは、この人たちやこの人たちのやっていた田を「畭・畬(シャ)」「畭田・畬田(シャデン)」と云ったんでしょうね・・・。
<疳:カン>
・掲載熟語は「脾疳(ヒカン)=小児の慢性胃腸病」、「下疳=性病の一種」「疳性」・「疳積」=・・・小児のひきつけ・貧血症・神経過敏症
・読みは「ヒカン」しか振ってなかった・・・けど、順に「ゲカン」「カンショウ」「カンシャク・カンセキ」でしょう・・・。
・問題は「類:癇」となっていること・・・
 *「疳癖(カンペキ)」なら「かんしゃく、癇癪」のことで「類」ということでOKだと思うが、
 *「疳積(カンシャク・カンセキ)」は(幼児の貧血症のことで)「癇癪(カンシャク)」とは異なるので注意が必要・・・。
 →「貧血のせいで幼児にカンシャクが生じた(発生した)」という問題だったら「疳積」と書かないと×でしょう
 →「幼児がカンシャクを起して怒っている」という問題だったら「癇癪」でしょうね・・・
 (大字源では、わざわざ「疳積」のところの説明で「「癇癪」とは別。」との記載があった)
<瘧(ギャク、おこり)>
・掲載熟語は「瘧疾(ギャクシツ)」(=瘧(おこり)に同じ)
・当て字で<瘧草(えやみぐさ)>・・・①リンドウの古名(リンドウの葉を瘧(おこり)の薬としたことから) ②オケラの別称
・①の説明などは良いですね・・こういうところは褒めてあげないと(^^;)
・ついでに、「疫病草」も当て字で「えやみぐさ」と読む。当て字で、「疫病(えやみ)」と読むから、これは簡単か・・・。

👍👍👍 🐑 👍👍👍
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漢検1級 27-③に向けて その58   文章題訓練㉖

2015年12月07日 | 文章題
日本漢字能力検定(漢検) ブログランキングへ
<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>

<漢検1級 27-③に向けて その58>
●永井荷風「梅雨晴」から・・・それほど難解な文章ではありません。
●80%(24点)以上は取りたいところ・・・・。

●文章題㉖:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
「梅雨晴」(永井荷風)

「・・・森先生の渋江抽斎の伝を読んで、抽斎の一子優善(やすよし)なるものがその友と相謀って父の蔵書を持ち出し、酒色の資となす記事に及んだ時、わたしは自らわが過去を顧みて(ア)慚悔の念に堪えなかった。
 天保の世に抽斎の子のなした所は、明治の末にわたしの為したところとよく似ていた。抽斎の子は飛蝶と名乗り寄席の高座に上って身振(イ)声色をつかい、また大川に舟を浮べて影絵芝居を演じた。わたしは朝寝坊夢楽という落語家の弟子となり夢之助と名乗って前座をつとめ、毎月師匠の持席の変るごとに、引幕を(ウ)萌黄の大風呂敷に包んで背負って歩いた。明治三十一、二年の頃のことなので、まだ電車はなかった。
 当時のわたしを知っているものは井上唖々子ばかりである。唖々子は今年六月のはじめ突然病に伏して、七月十一日の朝四十六歳を以て世を謝した。
 二十年前わたしの唖々子における関係は、あたかも抽斎の子のその友某におけると同じであった。
 六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、風も凉しく吹き通っていたのを幸い、わたしは唖々子の病を東大久保西向天神の傍なるその僦居(注)に問うた。枕元に有朋堂文庫本の『先哲叢談』が投げ出されてあった。唖々子は英語の外に独逸語にも通じていたが、晩年には専ら漢文の書にのみ親しみ、現時文壇の新作等には見向きだもせず、常にその言文一致の陋なることを憤っていた。
 わたしは抽斎伝の興味を説き、伝中に現れ来る(1)トウシのわれらがむかしに似ていることを語った。唖々子は既に形容(2)ココウして一カ月前に見た時とは別人のようになっていたが、しかし談話はなお平生と変りがなかったので、夏の夕陽の枕元にさし込んで来る頃まで倶に旧事を談じ合った。(3)ナイシはわれわれの談話の奇怪に渉るのを知ってか後堂にかくれて姿を見せない。庭に飼ってある鶏が一羽縁先から病室へ上って来て菓子鉢の中の菓子を啄みかけたが、二人はそんな事にはかまわず話をつづけた。
(注)僦居(しゅうきょ):借家住まいをすること
・・・路傍にしゃがんで休みながらこんな話をした。その頃われわれが漢籍の種別とその価格とについて少しく知る所のあったのは、わたしと倶に支那語を学んでいた島田のおかげである。ここに少しく彼について言わなければならない。島田、名は翰(かん)、自ら元章と字していた。世に知られた4)シュクジュ篁村先生の次男で、われわれとは小学校からの友である。翰は一時神童といわれていた。われわれが漢文の教科書として『文章軌範』を読んでいた頃、翰は(エ)夙に唐宋諸家の中でも殊に王荊公の文を(オ)諳んじていたが、性質(5)キョウカンにして校則を守らず、漢文の外他の学課は悉く棄てて顧みないので、試業の度に落第をした結果、遂に学校でも持てあまして卒業証書を授与した。強面に中学校を出たのは翰とわたしだけであろう。わたしの事はここに言わない。翰は平生手紙をかくにも、むずかしい漢文を用いて、同輩を困らせては喜んでいたが、それは他日大いにわたしを(6)ヒエキする所となった。わたしは西洋文学の研究に(カ)倦んだ折々、目を支那文学に移し、殊に清初詩家の随筆(7)ショトクなぞを読もうとした時、さほどに苦しまずしてその意を解することを得たのは今は既に世になき翰の (キ)賚であると言わねばならない。
・・・事は直ちに成った。二人は意気揚々として九段坂を下り車を北廓に飛した。
・・・腕車(注)と(8)ケンヨ(注)と物は既に異っているが、昔も今も、(9)ホウトウの子のなすところに変りはない。トウシのその(10)シュウコウを蔽うに詩文の美を借来らん事を欲するのも古今また相同じである。揚州十年の痴夢より一覚する時、(ク)贏ち得るものは青楼薄倖の名より他には何物もない。病床の談話はたまたま樊川(はんせん)の詩を言うに及んでここに尽きた。
 縁側から上って来た鶏は人の追わざるに再び庭に下りて頻りに友を呼んでいる。日暮の餌をあさる鶏には、菓子鉢の菓子は甘すぎたのであろう。
 唖々子は既にこの世にいない。その俳句文章には誦すべきものが(ケ)尠なくない。子は別に不願醒客と号した。白氏の自ら酔吟先生といったのに倣ったのであろうか。子の著『猿論語』、『酒行脚』、『裏店列伝』、『烏牙庵漫筆』、皆酔中に筆を(コ)駆ったものである。
 わたしは子の遺稿を再読して世にこれを紹介する機会のあらんことを望んでいる・・・」
(注)腕車:人力車の別称 (注)ケンヨ:駕籠、乗物のこと。
👍👍👍 🐑 👍👍👍

(1)蕩子 (2)枯槁 (3)内子 (4)宿儒 (5)驕悍 (6)裨益 (7)書牘 (8)肩輿 (9)放蕩 (10)醜行 
(ア)ざんかい (イ)こわいろ (ウ)もえぎ (エ)つと (オ)そら (カ)う (キ)たまもの (ク)か (ケ)すく (コ)か 
*内子:「・・・②自分の妻の称。」(広辞苑)
👍👍👍 🐑 👍👍👍
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする