政府が国民を裏切った飯倉公館事件(怒ろう!ニッポン人③R4.2.22)
令和4年2月22日火曜日のショートメッセージ(Vol.689)。私が政府に対し本当の不信感を抱くようになったのは平成14年(2002)9月17日、第1次小泉訪朝の夕方、外務省飯倉公館で起きた事件がきっかけでした。
今まで荒木さんのブログでは「飯倉公館事件」について何度か述べていますが、
2014年7月2日のブログに詳細が書かれています。⇩
飯倉公館事件: 荒木和博BLOG (way-nifty.com)
(前略)9月17日の朝、平壌で日本側には「死亡」の日付が伝えられていました。しかし政府はそれを家族に隠しました。理由はただ一つ、その日付自体が不自然であり、見れば直ぐに嘘だと分かるからです。それを伝えず、家族に「死亡」を納得させる。そして意思表示ができないように飯倉公館に軟禁状態にして、一方でマスコミにリークする。あのとき国民は小泉訪朝を固唾を呑んで見守っていました。情報に飢えていたのですから、最初に出た情報が固定化されてしまいます。もし、あのとき家族がマスコミの前にいるときに同じ情報がもたらされ、「北朝鮮はこう言っています。しかし確認はしていません」と伝えていれば報道も全く異なったものになり、国民の認識も変わっていたでしょう。(後略)
蓮池透著の「奪還」には当時の事が書かれています。
やがて、一家族ずつ順番に別室に呼び出されました。そして、そこで福田官房長官と植竹繁雄外務副大臣(当時)から家族の生死についての「宣告」を受けたのです。
最初に呼ばれた横田めぐみさんの父・滋さんは、二十分ほど後に戻って来た時には、泣き崩れて声もかけられないような状態でした。
「残念ながら、お亡くなりになりました」
そう告げられたのです。
その時の雰囲気を父は「死刑宣告を受ける罪人のようだ」と言っていましたが、私は死刑執行を待つ受刑者の気分でした。
ほぼ時を同じくして、NHKが「四人生存、八人死亡」のニュースを流します。蓮池、奥土、地村、浜本。その生存者の四家族は、最後に福田官房長官に呼ばれました。
福田氏は断定的な口調で生存者の現状を説明しました。でも、他に亡くなった方がいると聞いて、手放しで喜べるはずがありません。
私は、「なぜNHKが先に情報を流しているのか」と抗議しましたが、福田氏の答えは「マスコミには何も言っていない」。
さらに、私の母が「家族会は一つの家族のようなものです。こんなふうに別々に発表しないで、みんな一緒の場でやってほしい」と訴えると、
「黙って聞きなさい。あなた方の家族は生きているのだから」
福田官房長官はそう言って、両腕でわれわれを押さえつけるような仕草をしました。
まるで、なぜ自分たちに感謝しないのか、とでも言いたげな口ぶりでした。
今でも、この飯倉会館での数時間を思い出すと、苦い思いがこみ上げてきます。何のためにわれわれをあの場所に呼んだのか、どうしても釈然としないのです。テレビでNHKのニュースを見るだけなら、議員会館でもよかったのですから。
われわれが飯倉公館で「宣告」を受けていた頃、小泉総理は国交正常化に向かう日朝平壌宣言にサインしていました。おそらく、サインが終わるまで、われわれに生死の情報を伝えるのを遅らせたのだと思います。
「八人死亡」という情報と「平壌宣言に署名」のニュースとが同時に伝えられたら、家族たちはなぜサインするのだと騒ぎ出すに違いない。その場面をマスコミに見せたくないと考えて、われわれを“軟禁状態”にした。そんな意図が透けてみえるのです。
さらに許しがたいのは、植竹副大臣と福田官房長官がその時、生死の情報を断定的に語ったことです。実際にはその時点では日本政府は安否に関して何の確認も裏付けもとれてはいなかったのです。
岸田首相は昨年11月13日の全拉致被害者の即時一括帰国を求める国民大集会で次のように述べています。
令和3年11月13日 全拉致被害者の即時一括帰国を求める国民大集会 | 令和3年 | 総理の一日 | ニュース | 首相官邸ホームページ (kantei.go.jp)
条件を付けずに金正恩(キム・ジョンウン)委員長と直接向き合う決意です。日朝平壌(ピョンヤン)宣言に基づき、拉致問題の諸懸案をしっかりと解決し、その上で、不幸な過去を清算して、北朝鮮との国交正常化を目指していく、
やはり最後には北朝鮮との国交正常化を目指すと言っています。
北朝鮮との国交正常化を誰が望んでいるのでしょう。
望んでいるのは拉致被害者を取り戻す事ではありませんか。
いつも政府は国交正常化ありきで拉致問題を考えるから
いつまで経っても被害者を取り戻せないのではないか、と思ってしまいます。
※当ブログの欄外左で「飯倉公館」を検索して頂くと、過去の記事が出るので宜しければご覧ください。