恵林寺は放光寺に隣接しており歩いて行けます。黒門、四脚門(赤門)、三門に至る参道は長く続き、武田信玄の菩提寺となる臨済宗妙心寺派の古刹です。もとは夢窓国師によって1330年に開かれ、当時の領主二階堂道蘊が創建しました。そして時代は下り、1582年の織田徳川連合軍の甲州攻めの武田氏滅亡時には、寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)等を匿い、引き渡しを拒否したことで、織田信長の怒りを買い、快川和尚ら約百人の僧侶が三門に閉じ込められ焼打ちにあうという事件がありました。この時、快川和尚が燃える三門の上で『碧巌録』の偈を発しましたが、その偈が三門の扁額に掲示されています。
安禅不必須山水 滅却心頭火自涼 (安禅必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し)
この「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉はなんとなく記憶にありますが、いわれについては知りませんでした。現在の三門は百人を閉じ込めるには小さすぎます。再建前は京都妙心寺の三門位の大きさはあったと思います。イメージしたい方は本ブログ2016年6月6日の記事をご覧ください。
そして明王殿の「武田不動尊」を拝観。武田信玄が京都より仏師を招き対面で模刻させた像で、信玄生前の制作であることから信玄生不動と呼ばれているようです。眼光鋭く、拝観してみると信玄公はこんな顔・姿だったかもしれないと納得した次第です。
明王院の裏には信玄の墓と家臣の供養塔と柳沢吉保公の墓所があります。柳沢吉保は5代将軍徳川綱吉の時の側近政治であまり良いイメージはありませんが、ここ甲斐の国では信玄公の遺徳を守った後継者として尊敬されているようです。また吉良上野介も地元では善政を行った領主のようですし、どうも忠臣蔵の世界は良くわかりません。口は災いのもと。地元での言動は注意しないといけません。甲州市のガイドさんから学んだ教訓です。