本覚寺の近く小町通り沿いに蛭子(ひるこ)神社があります。『鎌倉の神社 小辞典』によれば、小町の鎮守。その昔、現在の夷堂橋付近にあった夷三郎社が永享年間の本覚寺創建の際に境内に移され夷堂となり、明治の神仏分離で現在地に移った。もともとその地に祀られていた七面大明神、宝戒寺境内の山王大権現とともに合祀され蛭子神社になったとあります。
この蛭子(ひるこ)の名前が気になり、いろいろ調べてみましたが、関西では蛭子(えびす)と読む神社のほうが多いようです。『古事記』にヒルコの名が出てきますが、そのヒルコとは直接には繋がりませんし、神社の名の由来がよくわかりません。
『古事記』では、このヒルコの名はイザナキとイザナミの国造り・神つくりの最初に登場します。文春文庫の『口語訳 古事記(三浦佑之訳)』から引用して、その行を紹介しましょう。イザナキとイザナミは兄妹の間柄、最初の一人の神から生まれたのであれば当然でしょうか?
「それならば、われとお前と、この天の御柱を行きめぐり、逢ったところで、ミトノマグワイをなそうぞ」と。イザナミは右から、イザナキは左から行きますが、左が上位の時代だったようです。さらにイザナミが先に「ああ、なんてすてきな殿がたよ」と言いました。あとでこのイザナミが先にしゃべったことが問題になります。イザナキは「おなごが先に求めるのはよくないことよ」と申します。ただそのままマグワッテしまい、その結果生まれた子が骨なしのヒルコ。この子は葦船に入れて流されてしまいます。
私が注目したのが以上の行です。『古事記』の冒頭でわざわざ「男性上位」の立場を確認する必要があったと思われます。妄想を膨らませれば、過去の歴史の中に「女性上位」の時代があったのか?そのことを葬り去る必要があった。強大な権力をもった女帝の存在?それは邪馬台国の卑弥呼しか考えられません。纏向遺跡、箸墓古墳のあった場所。三輪山の望める奈良盆地の東南部・・・でしょうか?