読売新聞の2月6日の「鉄フォト」に明知鉄道の「日本一」の農村風景の記事がありました。飯羽間(いいばま)駅から歩いて40分くらいの所にある展望台か写したとありました。その展望台まで行ってみたかったのですが、今日は大事な墓参り。飯羽間駅にある案内板だけ写真におさめ、先を急ぎました。
今回は親の墓参りのためにJR名古屋駅6:43発の中央線快速に乗り恵那駅まで行きました。恵那駅は明智鉄道の始発駅です。鉄道マニアにとっては結構有名なローカル線らしく、当日も朝早くからそれらしい人が数人乗っていました。私は墓参りが目的なので、それらしい人とは一線を画していましたが、ディーゼル機関車のなんとも言えないエンジン音を聞きますと、やはり血が騒ぎ興奮してしまいました。
帰りも恵那駅で降りましたが、お昼でもあり、駅から見渡しますと五平餅と書かれた看板が目に入りました。ここでも動物的感が働くもので、誘われるようにお店の中に。この店は「あまから」恵那本店で五平餅では結構有名な店らしいです。実際、車で来て何十本も買い求める人が数人いました。この店の五平餅は団子が三つ串に刺されているもので、私が馴染んでいた御幣の形をしたものとは違っていました。明知鉄道沿線の遠山では御幣型なのに恵那では串団子とは、不思議なものです。数年前にNHKの朝ドラ「半分青い」で見た五平餅も串団子型でしたが、同じ岩村の岩村山荘で食べたのは御幣型。その違いがどこからきたのかはよく分かりません。まあどうでもいい講釈はこれくらいにして、一串120円、遠慮して5本いただき、あまからをあとにしました。美味しかったです。
「東海道中膝車」シリーズは2020年12月27日に岡崎から知立まで歩いたところで中断していました。全行程を歩いた中で、残りは知立から鳴海までを残すだけ。今回、名鉄中京競馬場前駅の近くの桶狭間古戦場跡に訪れましたので、ついでに鳴海まで歩きました。距離にして3kmくらい。ガイドブックによれば、知立から鳴海までは12.7kmなので残距離数は9kmとなります。生まれ故郷なのでいつでも行けると思うのですが、年を重ねるたびに足は遠のくばかり。果たして次は何時になるでしょうか?元気なうちにチャレンジしたいものです。
この区間の観光名所は有松。有松絞で有名ですね。絞りといえば鳴海絞ですが、近年は有松絞にとってかわられました。街並みも良く保存され、多くの観光客で賑わっています。私が小学生のころにはこれほど街並みが整備されるとは思ってもみませんでしたが、住民の方の意識の違いでしょうか?鳴海の町の寂れかたをみると残念でなりません。オーバーツーリズムを懸念する声もありますが、多くの観光客で賑わい、若いひとが住みやすい街であることにこしたことはありません。
手許に郷土史家太田輝夫氏の書いた冊子『奇計』を置いてこのブログを書いています。4月2日(日)に豊明市の名鉄中京競馬場駅の近くにある桶狭間合戦の地を訪ねました。運よく当日は地元の観光ボランティアの方がパネルを展示してガイドをされていましたので、これ幸いに説明を聞かせていただきました。このガイドさんの解説がなければ、この地を訪ねてもただ写真だけ撮って帰るところでした。
ご存じ桶狭間合戦は永禄三年(1560)5月19日に今川義元が尾張の国に侵攻した際に織田信長に討ち取られるという日本史上での一大イベントです。この合戦の様子は、これまで長い間、旧陸軍参謀本部が明治三一年(1898)に発表し通説になっていた『日本戦史桶狭間役』によっています。書かれた時期は日清戦争(1984)から日露戦争(1904)の間の時期。いわゆる織田信長による一か八かの「迂回奇襲説」です。桶狭間で油断して休息をとる今川義元本陣を風雨のなか奇襲し、見事義元の首を討取るというものです。このシーンはテレビで何回も見ましたので当然の如く信じていました。
実は最近この説にかわり、真実は別のところにあるという新説が登場しています。この太田氏の『奇計』もその一つです。豊明市のガイドの方もこの『奇計』をテキストにしていましたので、かなり信憑性が高いと思われます。この説は「時間差二段階攻撃説」というもので、桶狭間への侵入経路もことなります。先鋒で戦ったのは、佐々隼人正と千秋四郎の隊。佐々隼人は織田信長の旗印(木瓜紋)を持って戦い、これを討取った今川方の先陣をつとめた松井宗信(遠江二俣城主)は佐々らの首を義元のもとに持ちかえり、信長の首を討取ったと報告したとしています。まさに奇計、おとり・替え玉作戦ですね。これに気をよくした義元が戦中にもかかわらず祝宴をしたのではないかというものです。そのあと信長の本体が攻め入り、義元の首が討ち取られ、今川軍は全滅しました。この説の根拠は佐々らの首を持ち帰った松井宗信も義元と同じ場所で討たれ、その墓は桶狭間合戦地の向いにある高徳院にあるというものです。以前から「東海道一の弓とり」といわれた今川義元が戦の最中に休息時に酒を振舞うなんてあるはずがないと思っていました。信長を討取ったと思った義元に心のゆるみが生じ、最悪の事態を招いたとすれば理解できます。信長自身も考え抜いた末の奇計だったのでしょう。この手は一度きりで二度と使えないことは承知していたはずです。
これはなかなかの収穫の一日でした。やはり現地に行ってみないとダメですね。
善照寺砦址から西へ向い鳴海小学校を右に見て坂を下れば鳴海城址の着きます。歩いても10分くらいの距離ですが、一方の善照寺砦が織田信長の家臣佐久間信盛が守る砦。この鳴海城は織田信長の父信秀が亡くなったあとに城主であった山口左馬助が今川に寝返った城で、信長は桶狭間の合戦前に丹下砦、善照寺砦、中島砦で囲み兵糧攻めにし、合戦時には岡部元信が死守していました。城の西側には天白川の河口に鳴海潟が広がっています。その先然程遠くない場所には熱田神宮がありますので、織田信長にとっては喉元に刃を突き刺さられたようなもので、気が気ではなかったと思われます。さらにこの鳴海城は落すのに難儀したようで、今川義元が討たれたあとも最後まで抵抗し、最後は今川義元の首と引き換えに城を明け渡したと、手元の資料に書いてありました。
いまは「鳴海城跡公園」になっていますが、名鉄鳴海駅から北に200mほど。手前に鳴子方面に向かう道路が通り、城跡の面影は殆どありません。実際私の記憶も曖昧でした。60年近くたてば記憶が失われるのも仕方ないですね。