明智鉄道の岩村駅の近くに武並神社があります。武並神社縁起を写してきましたので紹介しましょう。鎌倉と関係の深い神社のようです。
武並神社は大己貴神(おほなむちのかみ)を始め諸神を祭神とし遠山景朝を配神として祀ってある。建立は岩村藩主神社調べに延久元年(1069年)鎮座とするが、父景廉(かげかど)を祀る岩村城内の八幡神社建立の少し後、鎌倉末或いは室町初期の建立と考えられる。・・・。以下省略
さてここに遠山景朝とその父景廉の二人の人物が登場します。まず父景廉について調べてみました。『吾妻鏡』の治承四年(1180)八月六日(山木襲撃の日時を卜定す)の条に「卜筮あり。また来十七日寅卯の尅をもって、兼隆を誅せらるべき日時を點じをはんぬ。その後、工藤介茂光・土肥二郎実平・岡崎四郎義実・宇佐美三郎助成・佐々木三郎盛綱・加藤次郎景廉以下、当時経廻の士の内、殊にもって御旨を重んじ、身命を軽んずるの勇士等おのおの一人づづ、次第に閑所に召し抜きんで、合戦の間の事を議しせしめたまふ。・・以下省略」。ここに名前のある加藤景廉がその人です。まさに頼朝旗上げ時のオリジナルメンバーでした。この景廉は鎌倉幕府成立後に御家人となり、各地に荘園を与えられました。その荘園の中で美濃国恵那郡の遠山荘(現在の恵那市・中津川市・瑞浪市の陶地区)を長男の景朝が相続して地頭になり、加藤氏あらため遠山氏を称し岩村城を本拠地として統治しました。この遠山景朝は承久の乱後に北条泰時の命により、朝廷側の公家一条信能を遠山荘に連行し斬首したという話は、以前、このブログでも「岩村神社」のところで書きました。
この遠山氏のその後ですが、戦国時代の末には、特に岩村遠山氏・明知遠山氏・苗木遠山氏が三人衆として活躍したようですが、中山道の要衝であるこの地方は、織田信長や武田信玄らの勢力争いに巻き込まれ、最後には岩村遠山氏は織田信長に滅ぼされてしまいます。だだ苗木遠山氏と旗本になった明知遠山氏は江戸時代まで生き残ったようで、あの「遠山の金さん」こと遠山左衛門尉景元は、明知遠山氏の末になります。また鎌倉の英勝寺ゆかりの英勝院は父親が太田康資・母親は明智遠山氏の娘と言われていますので、源頼朝旗上げげ時に頼朝を支えた加藤景廉のDNAは代々繋がっていることになります。
両親の墓参りの帰り、明知鉄道岩村駅に行く途中、たまたま立ち寄った武並神社にこれほどの物語が隠されていたとは・・・。調べた甲斐がありました。