人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --大雄山最乗寺②了庵慧明禅師と道了大薩埵--

2023-12-31 12:06:06 | 日記

鎌倉と曹洞宗の関係を前回述べました。今回は大雄山最乗寺について。大雄山最乗寺を東側から眺望しますと、左に明神ヶ岳(1169m)、右に矢倉岳(890m)、矢倉岳の横に富士山が望めますが、地図で探しても大雄山という名前の山はありません。大雄山(大雄峰)というのは中国江西省にある百丈山のこと。その山中に大雄山大智寿聖寺があり、中国の禅僧・百丈禅師が住持していました。『碧眼録』第二十六則に「独坐大雄峰」という禅語があります。大雄峰に座っていることが最もすばらしいという意味のようです。大雄山最乗寺の開山である了庵慧明は、住んでいた上曽我の竺土寺から西に広がる景色を見て、中国の大雄山の風景をイメージしたのではないでしょうか。

開山である了庵慧明禅師(1337-1411)は相模国糟谷(伊勢原市糟谷)の出身。建長寺の不聞禅師のもとで出家後、能登總持寺の峨山禅師に参し、通幻禅師のいた丹波国永沢寺などにいました。帰郷後、上曽我に竺土寺を創建しました。大雄山最乗寺に伝わる由緒では、竺土寺にいたころ、鷲が了庵慧明禅師の身につけていた袈裟をくわえ西方の明神岳の方に飛び去りました。その袈裟を捜し求め、了庵慧明禅師がこの地に来て坐禅をすると、袈裟がもとのように肩にかかったということです。今も坐禅をしたという坐禅石が大雄山最乗寺山内に残されています。

またこの地を提供した大旦那がいたと思われますが、『大雄山と御開山さま』の著者である松田文雄氏は大森氏ではないかと推測しています。時代は少し下りますが、扇谷上杉家の家臣であり、小田原城主、隠居後に岩原城主となった大森氏頼は曹洞宗を保護したようで、大雄山最乗寺の発展にも関わったと思われます。

この大雄山最乗寺は「道了さん」という名前で親しまれています。この道了さんこと道了大薩埵ですが、名は妙覚道了。了庵慧明とは總持寺時代からの弟子でした。一時了庵慧明のもとを離れ、三井寺で修業していましたが、1393年に了庵慧明のもとに戻り、最乗寺の開創を手伝いました。大そうな力持ちであったらしく、一人で山を切り開いたという話が残されています。了庵慧明禅師の示寂後に火焔につつまれ何れかに去ったという天狗伝説があり、現在も妙覚道了大薩埵をご本尊とする御真殿(妙覚宝殿)で「大般若経転読」によるご祈祷が行われています。天狗様にご縁のあるお寺なので江戸時代から明治時代にかけて、江戸の町の消火活動に従事した鳶職や建設業界の人たちが講を組んで参拝し、山内にはお金や杉の苗を寄進した記念碑が数多くありました。

今回大雄山最乗寺を訪れて鎌倉近郊の寺院にない風景に驚きました。仁王門から続く杉木立の参道。深閑とした山内に建てられた堂宇の数々。全て江戸時代以降のものですが本物です。鎌倉の建長寺、円覚寺も修行の場ですが、この大雄山最乗寺は、福井の永平寺に似た専門修行道場に相応しいお寺でした。

 

 

 

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鎌倉を知る --大雄山最乗寺 ①鎌倉と曹洞宗--

2023-12-31 09:25:30 | 日記

12月の史跡めぐりで南足柄市にある大雄山最乗寺に行く機会がありました。お恥ずかしい話、鎌倉に長く住みながら名前を聞くのもはじめて、参拝するのもはじめての曹洞宗のお寺です。鎌倉の禅宗と言えば臨済宗であり、京都に勤務していたときにご縁があった妙心寺も臨済宗大本山。かといって岐阜にある檀家寺の盛久寺は曹洞宗。生まれ育った名古屋の鳴海にある瑞泉寺も曹洞宗でしたが、どうもこれまで曹洞宗について詳しく知らないまま過ごしてきたようです。今回訪ねた大雄山最乗寺は、神奈川県では鶴見にある総持寺の直末の寺ですが、全国に4000もの末寺を有する修行専門道場。今回参拝する機会を得たことで少し曹洞宗のこと、大雄山最乗寺のことを勉強させていただきました。

曹洞宗を我が国に伝えたのは道元禅師(1200-1253)です。生まれは京都。父は久我通具?といわれています。13歳で比叡山で出家し、18歳で建仁寺にいた栄西に師事し、24歳のときに明全とともに渡宋(明全は宋で死亡)。中国の諸山を歴訪し、天童山景徳寺で如浄と出会い、その後帰国(1227)。34歳で京都深草に興聖寺を開創しますが、南都北嶺の諸寺と衝突し、京都での布教を一時断念せざるを得なくなりました。そんな道元の状況をみかねて救ったのが波多野義重(?-1258)です。

波多野義重は承久の乱で活躍した御家人。承久の乱後に六波羅評定衆として北条重時、長時、時茂らを補佐。妻は北条重時の娘です。道元との出会いは、六波羅探題の近くに道元がいた建仁寺があり、そこで道元と親交があったようです。道元が開創した興聖寺が比叡山衆徒の焼き討ちのあったのちに、義重は自領であった越前国志比庄に道元を招きました。

波多野義重の保護を受けた道元は志比庄に大仏寺を開創。この大仏寺が名前を変え永平寺となりました。波多野氏の保護がなければ曹洞宗の大本山永平寺ができたかどうか?道元は宝治元年(1247)8月から翌年3月まで鎌倉に滞在しています。鎌倉に禅寺を創りたかった北条時頼に招きともいわれていますが、道元は応ぜず、永平寺に帰ってしまいました。鶴岡八幡宮の駐車場の前に立派な道元禅師の石碑が立っていますが、これが唯一つながりを示すものとなっています。そして道元は1253年に弟子の懐奘に永平寺を譲り、京都に戻り、その8月に亡くなりました。

道元死後の永平寺は、二世懐奘、三世徹通と続きますが、徹通のときに保守派と進歩派に分裂し、徹通の弟子である瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師が能登に總持寺を開創。その總持寺は明治時代に全焼したのち神奈川県鶴見に移転し、現在の総持寺になりました。曹洞宗では道元を高租、瑩山を太祖とし、太祖總持寺が大衆化して発展し、全国に多くの末寺を持つに至っています。

大雄山最乗寺は、その総持寺の直末ですが、総持寺の管長は最乗寺の管長が務めるという大変深い関係であります。いまでも修行専門道場として栄え、修行僧が坐禅三昧の日々を送っています。坐禅をするお堂を選仏場ともいいますが、悟りを開き仏になれる者を選ぶという意味だそうです。

 

 

 

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