人生悠遊

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「幸い」の人 藤原道長 に迫る

2024-03-14 19:38:48 | 日記

ーー 此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば --

この和歌の作者は表題の藤原道長です。学生時代からこの和歌があったおかげで藤原道長の印象はあまりよくありません。平安時代、時の天皇を超える権勢をふるった人物としてその傲慢さが嫌いで長い間避けてきました。そして今年の大河ドラマ「光る君へ」は『源氏物語』の作者である紫式部の物語。なんで大河ドラマに取り上げるのか?正直、納得しませんでした。ともかく最初は吉高由里子の魅力で興味本位に見始めましたが、どうしてそこに藤原道長が絡むのか?無知とは恐ろしいものです。鎌倉時代のことは多少勉強しても、平安時代のことを全く知らない我が身によく鎌倉のガイドが務まるものだと思います。

そんな時、読売新聞に『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか--』(山本淳子著 朝日新聞出版)の書評が目にとまりました。著者の山本淳子氏は『源氏物語』研究の第一人者であり、その著者が、藤原道長と紫式部の関係や「我が世の望月」を詠んだ道長の真意を分かりやすく解説していると紹介されています。早速読んでみましたが、図解や系図も豊富。かつ平易な文章なのでスラスラと読め、栄華を極めた藤原道長の人生、紫式部が『源氏物語』を書いた背景がよく理解できました。お薦めの一冊です。

本に書かれた内容についてはここでは詳しく書きませんが、私なりに印象に残ったことは、山本氏がおしゃっているように道長は「幸い」な人であるということです。「幸い」な人というのは、平安時代の言葉で「強運」な人というのだそうです。道長は彼の生涯で富、権力、結婚、家族、長寿のすべてを得られた強運の持ち主だったと書いています。本人の努力もあったと思いますが、何かわからない力によって導かれている。これを天命といったり、神の導きといったりしますが、歴史に名を残し、日本の歴史を作り上げた人物は皆、道長のような一生を送っているようです。私なりに考えますと、藤原不比等、藤原道長、平清盛、源頼朝、北条泰時、豊臣秀吉、徳川家康らでしょうか。残念ながら明治時代以降はこういった傑出した人物は出ていません。これは私の思いからかもしれませんが・・・。

そしてもう一言。平安時代というのは鎌倉時代にくらべ時代の記録が日記という形で多く残されいます。道長の書いた『御堂関白記』、藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記』、紫式部の『紫式部日記』など。そして清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』、『栄華物語』、『大鏡』などの随筆や小説などもあります。こうしてみますと、光源氏のモデルは藤原道長だったといわれていますが、まんざら嘘ではない気がしてきました。

最後に巻頭写真は鎌倉の十二所にある明王院(五大堂)です。開基は鎌倉幕府四代将軍の藤原(九条)頼経です。藤原氏は道長のあと頼通、師実、師通、忠実、忠通とつながり、忠通のあと五摂家の一つ九条家は兼実、良経、道家となり、九条道家の子が頼経。頼経は鎌倉に五大堂(現在の明王院)を創建し、五大明王を祀り、国家の安寧を祈願しました。藤原道長も自分の女である彰子のお産の時に「五檀の御修法」により安産を祈願しました。これは不動明王を中心に金剛夜叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王の五明王に祈願する大変格式の高い修法です。頼経が五大堂の創建にこだわった理由がわかる気がしました。

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