前作に続き元八幡(由比郷鶴岡)に関する話題です。ご存じの通り、この元八幡の祭神は鶴岡八幡宮と同じです。そして若宮大路はこの元八幡の神様を今の場所(小林郷北山)に遷座した時に、神様が通れる道を整備したとも言われています。前作で紹介したように、今の下馬辺りは低地で雨が降れば泥沼になったようです。
さて前置きはともかく、今回のテーマは「鎌倉と芥川龍之介」です。実は芥川龍之介は横須賀にある海軍機関学校の英語教師として大正5年(1916)12月に赴任して鎌倉に下宿し、東京ー鎌倉ー横須賀を往復する生活を送っていました。そして大正7年(1918)2月2日に塚本文と結婚しました。芥川25歳、文さんは17歳。その新婚生活を送った場所がこの元八幡の隣、小山別邸内の家屋でした。その場所は今はアパートになっていて壁にある案内にそのことが書かれています。ここまでは今まで調べたことで分かっていましたが、最近訪れた鎌倉文学館で買い求めた『特別展 来鎌105年 芥川龍之介と鎌倉』には、さらに芥川龍之介にまつわるエピソードが載っていて、楽しく読ませていただきました。
まず塚本文との出会いです。芥川は明治40年(1907)、15歳のころ、同級生の姪で当時7歳の塚本文を知りました。その後、大正4年(1915)夏から文を意識するようになり、就職が決まって結婚したようです。大正6年(1917)に文あての封書(現存せず)がありますが、その文面を見ますと、『羅生門』や『鼻』などを書いた作家とは思えず、読むほうが赤面してしまう内容になっています。一度原文を読んでみてください。芥川龍之介はこんな人柄だったのかと、また小説を読み直してみたくなりました。
芥川龍之介は昭和2年(1927)7月24日、35歳の時に自殺しました。先ほど紹介した鎌倉文学館の図録にこんな文章がありました。死の前年、妻に言った言葉です。
「鎌倉を引きあげたのは一生の誤りであった」 芥川文/中野妙子『追想 芥川龍之介(昭和50年、筑摩書房)』より
この言葉の意味するところの解説はありません。芥川の晩年は神経衰弱に悩まされていたようです。芥川は最初から小説家になる心算はなく、専業でいくか、兼業とするか迷っていました。鎌倉にいた期間は短いはずなのに、こんな言葉を残すとは・・・。妻である文への想いや詫びか?小説家の道を選んだことを悔いたのか?鎌倉での生活が余程幸福だったのか?今となっては分かりませんが、実に深い言葉です。
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