人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 紫陽花 ーー

2017-06-14 16:32:24 | 日記

この季節の鎌倉は紫陽花見物の観光客でごった返しています。10年位前は紫陽花の名所と言えば、北鎌倉の明月院くらいでしたが、今は江ノ電の長谷駅、極楽寺駅の近辺にある長谷寺、御霊神社、成就院、極楽寺を巡るコースが人気となっています。この季節、地元住民は江ノ電の混雑で迷惑するのですが、見物客が買い求める土産物などの消費額もばかにならず、紫陽花の経済効果も捨てたものではありません。

さて紫陽花の花の種類については多くの本や雑誌で紹介されていますので、そちらにゆずりますが、最近『アジサイはなぜ葉にアルミ毒をためるのか』(渡辺一夫著・築地書館)という本を読みましたので、「きれいなものには毒がある」という話をしたいと思います。

紫陽花と言えば「明月院ブルー」で知られているように、やはり鮮やかな青色が人気ですよね。雨によく似合う色で、梅雨の時期にピッタリ。私も好きな色です。ところが実はこのブルーは、紫陽花の細胞の液胞にあるアントシアニンという色素にアルミニウムが作用して青色になるとのことです。土壌にアルミニウムが含まれていると、根の生長を阻害するので、紫陽花はアルミニウムを吸収して液胞閉じ込めます。秋になれば葉を落とし、また土に戻すのですが、そんなことを繰り返し大きくなっていくようです。

ということで、人間がアルミニウムが閉じ込められた葉を食べれば中毒を起こし、死に至ることもあります。くれぐれも紫陽花の和菓子に添えられている葉っぱは食べないでください。またアマチャ(甘茶)はヤマアジサイの変種で、これを飲んだ子供が中毒を起こした例もあるようです。ちょっと恐い話をしましたが、これで紫陽花の価値がさがるわけでもなく、健気に生きる姿をみますと、一層、青色が美しくみえます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー 鎌倉大仏造立の目的 ーー

2017-06-08 14:42:58 | 日記

この季節は小中学生をガイドすることが多く、毎日のように高徳院の鎌倉大仏を訪れています。ところがこの国宝の大仏、その造立の経緯がよく分かっておらず、誰が何のために造ったのかも確信をもって説明できません。この近くにある長谷寺と同様に案内人泣かせの場所の一つです。

吾妻鏡には、1238年に木造の大仏が造られ、1252年から金銅製の大仏の鋳造が始まるという記録はありますが、それ以上のことは書かれていませんし、歴史家の諸説も推測の域をでません。しかし毎日のように大仏さまを拝み、端正なお顔がもつ芸術性と高度な造立技術を目の当たりにしますと、素人ながら何のために造られたのかは知りたくなります。

最近、『鎌倉大仏の中世史』(馬淵和雄著・新人物往来社)という本を読みました。わたし自身、この本を読む前に、鎌倉大仏、極楽寺、長谷寺の関連性とそれに関わった人物として5代執権北条時頼の役割を紹介しました(本ブログ2016.11.1「西部エリア整備事業???」)。馬淵先生のお考えは、わたしのものとほぼ同じでちょっと自信を持ちました。さらに馬淵先生の研究は、叡尊・忍性の真言律宗との結びつきに及んでいます。このことについても、昨年に生誕800年になる忍性菩薩のことを勉強しましたので、納得感があります。

1221年の承久の乱以降、権力の集中を図りつつあった北条得宗家。それは5代執権時頼の時代により強固なものとして確立されました。政治には華やかな表の部分と人間の生活をささえる裏の部分(所謂公共事業)がありますが、現在の社会では役所が担っている公共事業を、北条時頼は叡尊・忍性の真言律宗の寺院とそれらに属する職業集団に担わせました。

そして銭洗弁財天の金銭浄化の話(今でいうマネーロンダリングでしょうか?)、宋銭で鋳造されたとされる鎌倉大仏。時頼の廻国伝説、青砥藤綱の銭拾い伝説など、これらはすべて北条時頼の強かな施策が記録として残らず、伝承として残ったのではないかと思います。因みに私の計算では、鎌倉大仏を造るのに必要な宋銭は2000万枚です。本当かな???

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー 東慶寺と夏目漱石 ーー

2017-06-07 19:12:55 | 日記

夏目漱石。誰でも知っている作家。漱石は1894年(明治27年)に円覚寺の塔頭である帰源院に滞在し、釈宗演老師のとこで参禅しています。その時のことは以前紹介しました。東慶寺との関係はその20年後になります。帰源院で参禅したときの漱石は30歳前で、小説を書いて有名になるのはその後のことです。

最初に参禅した時から20年後、漱石はこの東慶寺を訪ねています。写真は「夏目漱石参禅百年記念碑」。釈宗演老師と20年ぶりに再開した様子が『初秋の一日』に書かれています。このとき漱石は満鉄の総裁である中村是公と一緒で、門に入る前に連れしょんをしたことを楽しげに語っています。そしてS老師は「私ももう直五十二になります」と話します。この参禅したときの様子は『門』にありますが、その時、S老師が出した公案は「本来の面目」というもの。漱石の出した答えは老師から一蹴され、漱石は逃げるように山を下りました。

漱石が参禅したときのS老師は三十歳を過ぎたばかりでしょうか。漱石は30歳前でS老師との歳の差はそんなにありませんでした。負け惜しみでしょうか、「知識であったから、自分の目には比較的老けて見えたのだろう」と書いています。20年前、参禅したときの悔しかった思いが伝わってくるユーモアのある漱石らしい文章です。思わずニコリ・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする