源頼政(1104-1180)は、源頼朝が旗上げする直前に以仁王とともに平家討伐の狼煙を上げた人物です。『平家物語』巻第四 鵺(ぬえ)の章に、その人となりが紹介されています。
抑 この源三位入道頼政は、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なりけり。保元の合戦の時も、御方にて先を懸けたりしかども、させる賞にも預からず、また平治の逆乱にも、既に親類を捨てて参じたりしかど、恩賞これ疎かなり。大内(たいだい)守護にて、年久しうありしかど、昇殿をば赦されず。年たけて齢傾いて後、述懐の和歌一首詠みてこそ、勝殿をばしたりけり。 --人知れぬ大内山の山守は木がくれてのみ月を見るかな-- これに依って昇殿を許され、正下の四位(しみ)にて暫くありしが、猶三位を心にかけつつ、 --上るべき便りなき身は木の下にしゐを拾ひて世を渡るかな-- さてこそ三位はしたりけり。やがて出家して、源三位入道頼政とて、今年は七十五にぞなられける。
なんとも歌二首で四位、三位と昇進したのですが、これも平清盛の推薦があったからこそ。その恩ある平氏に歯向かい、以仁王をたて挙兵の決断をした頼政の心境の変化は如何に・・。結局、治承四年(1180)5月26日に宇治川の戦いで敗れ、平等院で自刃して果てます。その時の様子が『平家物語』 宮御最後の章に書かれています。
三位入道、渡辺長七唱を召して、「わが首打て」と宣へば、主の生首(いけくび)打たんずる事の悲しさに、「仕つとも存じ候はず。御自害候はば、その後こそ賜はり候はめ」と申しければ、げにもとや思はれけん。西に向ひ手を併せ、高聲(こうじょう)に十念唱へ給ひて、最後の詞ぞ哀れなる。 --埋もれ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりけるー- これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突立て、俯様に貫かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうは無かりしかども、若うより強ちに好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七唱が取って、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてげり。
写真は、平等院の観音堂そばの「扇之芝」を写したもの。この場所で源頼政は自刃しました。75歳までなにもなければ、そのまま人生は終わっていたと思われますが、頼政は最後にひと花咲かせました。『平家物語』が作り話と言われればそれまでですが、歌ひと筋で800年以上も語り継がれれば、頼政みごとに死に花を咲かせたということでしょう。80歳近くになって収賄容疑で逮捕される人生とは真逆ですね。やはり身を律して潔く生きたいものです。