人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --源頼政、自刃の地 平等院--

2022-09-18 07:39:18 | 日記

源頼政(1104-1180)は、源頼朝が旗上げする直前に以仁王とともに平家討伐の狼煙を上げた人物です。『平家物語』巻第四 鵺(ぬえ)の章に、その人となりが紹介されています。

抑 この源三位入道頼政は、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なりけり。保元の合戦の時も、御方にて先を懸けたりしかども、させる賞にも預からず、また平治の逆乱にも、既に親類を捨てて参じたりしかど、恩賞これ疎かなり。大内(たいだい)守護にて、年久しうありしかど、昇殿をば赦されず。年たけて齢傾いて後、述懐の和歌一首詠みてこそ、勝殿をばしたりけり。 --人知れぬ大内山の山守は木がくれてのみ月を見るかな-- これに依って昇殿を許され、正下の四位(しみ)にて暫くありしが、猶三位を心にかけつつ、  --上るべき便りなき身は木の下にしゐを拾ひて世を渡るかな-- さてこそ三位はしたりけり。やがて出家して、源三位入道頼政とて、今年は七十五にぞなられける。

なんとも歌二首で四位、三位と昇進したのですが、これも平清盛の推薦があったからこそ。その恩ある平氏に歯向かい、以仁王をたて挙兵の決断をした頼政の心境の変化は如何に・・。結局、治承四年(1180)5月26日に宇治川の戦いで敗れ、平等院で自刃して果てます。その時の様子が『平家物語』 宮御最後の章に書かれています。

三位入道、渡辺長七唱を召して、「わが首打て」と宣へば、主の生首(いけくび)打たんずる事の悲しさに、「仕つとも存じ候はず。御自害候はば、その後こそ賜はり候はめ」と申しければ、げにもとや思はれけん。西に向ひ手を併せ、高聲(こうじょう)に十念唱へ給ひて、最後の詞ぞ哀れなる。 --埋もれ木の花さく事もなかりしに身のなる果ぞ悲しかりけるー- これを最後の詞にて、太刀の先を腹に突立て、俯様に貫かつてぞ失せられける。その時に歌詠むべうは無かりしかども、若うより強ちに好いたる道なれば、最後の時も忘れ給はず。その首をば長七唱が取って、石に括り合せ、宇治川の深き所に沈めてげり。

写真は、平等院の観音堂そばの「扇之芝」を写したもの。この場所で源頼政は自刃しました。75歳までなにもなければ、そのまま人生は終わっていたと思われますが、頼政は最後にひと花咲かせました。『平家物語』が作り話と言われればそれまでですが、歌ひと筋で800年以上も語り継がれれば、頼政みごとに死に花を咲かせたということでしょう。80歳近くになって収賄容疑で逮捕される人生とは真逆ですね。やはり身を律して潔く生きたいものです。

 

 

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鎌倉を知る --承久の乱 宇治川の戦い--

2022-09-11 18:35:05 | 日記

8月29日から31日まで三泊四日で京都・奈良・高野山を旅しました。こういった旅行は思い立ったら吉日、あれこれ考えないで出かけるのが正解です。幸い台風11号の影響もなく、ほぼ計画通りの取材旅行ができました。初日は宇治と奈良を目指します。新幹線で京都まで行き、そこから奈良線に乗換え、みやこ路快速で宇治まで行きます。小田原発8:07発のひかりに乗り、JR西日本宇治駅に着いたのは11時頃。今回の旅の一番の目的地、宇治橋まで急ぎます。今月末に北条泰時の講座が控えていますので、まず宇治川の戦いの地を確認しなくてはなりません。

先日、NHKで泰時の宇治川の戦いを、ジュリアス・シーザーのルビコン川越えの話と重ねて解説していました。シーザーがヨーロッパ遠征から戻り、武装してルビコン川を渡る決断をしたのと、承久の戦いで泰時は後鳥羽上皇引きいる朝廷軍に戦いを挑んだのを重ねたようです。タブーを破る。まさに決死の気持ちで増水した宇治川を渡ったと思います。『吾妻鏡』や『承久記』に詳しくその様子が書かれていますが、その場にいた泰時の気持ちは言葉では言い尽くせないものがあったはずです。

承久三年(1221)6月14日(太陽暦7月5日)。前日の宇治橋の戦いでは敵の守りが固く、抜け駆けした足利義氏や三浦義村らは散々の目にあい、平等院に逃げ込み、後から来た泰時の本軍と合流しました。結局、宇治橋を渡るのを諦め、濁流の河を渡ることになりますが、この渡河で多くの犠牲者を出してしまいました。大将の泰時もパニック状態。まず息子の時氏に命じますが、いよいよ命運つきたか、泰時自ら河を渡ると言い出す始末。そこは一計を案じた家臣に止められますが、それほどにこの渡河作戦は苦労したようです。結局、筏に乗り宇治川を渡ることができました。

写真は宇治橋の下流の渡河地点と推定される場所から京都方面を写したものです。ちょうど正面の京阪宇治駅あたりと何かに書いてありました。実際にみると川幅は結構あり、まして増水した時ならどれほど困難な作戦だったか想像できます。やはり百聞は一見に如かず。現地でみてはじめて泰時の動揺が理解出来ました。

 

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