木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

蟹江合戦

2009年03月02日 | 城趾
さるかに合戦は有名だが、蟹江合戦はどうだろうか。蟹江敬三(古い!)の戦いではない。
ほとんど知らない人が多いに違いない。私も知らなかった。
蟹江合戦は、小牧・長久手の戦いの続編という位置づけになるのだが、小牧・長久手の戦いすらについてもあまり知られていない現在、その続編などは、知名度が更に低くなるのは当然ともいえる。
名古屋において、合戦のあった長久手は鬼門とされていて、比較的開発が遅れた地域である。
住んでいる人にとっては、合戦があったという史実は、あまり気持ちのいいものではないに違いなく、ましてや、観光地などにもならない。
関ヶ原にしろ、桶狭間にしろ、同じことが言える。ただ、住宅化が進んでいない地区においては、多少観光地めいた場所になる傾向があるようだ。
長篠のように珍しくイベントを組んで祭りにしている例などである。だが、大概は、そっとしておいて欲しい話なのだろう。
長久手の戦いは地元の住人であれば、当然あった事実くらいは知っているが、蟹江合戦は、もはや存在すら忘れかけられつつある。
戦いの規模の違いが原因なのだろうか。
蟹江合戦の発端は、小牧・長久手の戦いで敗れた秀吉が雪辱を晴らそうと起こしたとする説がある。また、尾張における制海権を確保するためとも言われている。
家康と織田信雄の仲を裂くために行われたという説もあったが、なぜ、この戦いで、二人の仲が裂かれるのか、よく分からない。
蟹江城の城主は、信雄側につく佐久間正勝であったが、当時は伊勢に戦いに行っていた。留守を守っていた前田与十郎が秀吉側と内応していたので、その手引きにより滝川一益を主将とする秀吉軍は入城した。ここまではよかったが、協力を見込んでいた大野城主山口重政の援軍を得られずに、敗退した。
天正十二年(1584年)六月のことである。
この敗戦の因となったのは、馬鹿らしいような失敗である。
海から来る九鬼大隈守に合図を送ろうとした与十郎側の狼煙が、周囲の民家に移り火し、その火を信雄の軍に発見されてしまったからだと言う。信雄軍は、急遽清州城から軍を送り、一益の船を奪う。九鬼は、素早く逃走しようとするが、信雄軍に捕まってしまった。こんな状況では、山口重政も協力はできる訳もなかった。
何だか、大した戦いではないような気がするが、秀吉はこの戦い以降、家康を力で抑えようとするのを止めたという。
そういった意味では、歴史的な戦いであり、小牧・長久手の最終戦と言ってもよい。ただ、主役の登場しない代理戦争的であり、家康VS秀吉の最後の戦いとはいえ、後世に伝わりにくかったのでは、と思われる。

蟹江城の名残を伝えるものとしては、この碑の隣に井戸が残っている。後は何も残っていないが、住宅地の真ん中に立派な石碑だけがポツンと建っている。車では行けない細い道沿いである。


ごく簡単な立て看板だけが、立てられているが、必ずしも書かれている内容は正確ではない。


すぐ近くには蟹江川が流れる。今では、蟹江川はどうということのない川である。
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