木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

尼崎城と赤十字社

2019年05月12日 | 城趾
尼崎城はもっとも新しく建造された城である。
エディオン(旧社名ミドリ電化)の創業者である安保詮(あぼあきら)氏の10億円という巨額の資金協力を得て、平成30年に建造された。

江戸時代の城主を見ると、後に大垣藩主となる戸田氏、後に郡上八幡藩主となる青山氏に続き、十四(あるいは十八とも)松平と呼ばれる三河国、徳川ゆかりの桜井松平氏が幕末まで城主を勤めた。

興味深いのは最後の城主となった松平忠興である。
忠興は、佐野常民や大給恒(松平乗謨)らが提案した博愛者(のちの赤十字社)の設立に賛同し、松平乗承(三州西尾)、松平信平(丹波亀山)らともに協力している。
ときは、明治十年(1877年)、西南の役が勃発した年である。

博愛社の設立は最初からすんなりといったわけではない。
「敵味方の差別なく救済する」という理念には、政府内部でも抵抗のある者が多かったからである。
そこで、佐賀出身の佐野は、山形有朋に面談し、賛同を得た。
話は山県から有栖川宮に伝わり、明治天皇からも千円の下賜を得て、承諾された。

赤十字運動は、この明治十年が日本での嚆矢となるのだが、明治十年以前にも赤十字精神を発揮した人物がいた。
ウイリアム・ウイリスというアイルランドの医者である。
ウイリアムは、文久二年(1862年)に来日。
鳥羽・伏見の戦いの際は、幕軍、西軍の区別なく怪我人の治療を行っている。
その後、東京医学校の創業者となるが、政府の方針がドイツ医学一辺倒になったのに際し、職を追われている。
驚いた西郷隆盛らウイリアムを尊敬する旧鹿児島藩士の要請で、鹿児島に赴任。鹿児島では、日本人の妻を娶っている。
だが、西南戦争が勃発すると、政府によって東京に呼び戻され、その後アイルランドに帰り、一生を終えている。

少し話が逸れたが、佐野や大給は、ウイリアムの活動を頭に置いていたには違いなく、そのプランに忠興らが賛同した。
佐野は博愛社の設立が認可されたとき、号泣したという。
立身出世主義がはびこっていた明治にあって、いい話だ。


↓よろしかったら、クリックお願いいたします!
人気ブログランキングへ




忠義の碑・岩崎城

2009年03月11日 | 城趾
長久手城が出たついでではないが、岩崎城についても書きたい。
岩崎城の悲劇は有名である。
城主丹羽氏次が小牧に出征していて、留守を守っていたのは。氏次の甥であり、若干17歳の丹羽氏重である。
氏重は、全身の疱瘡が膿んでいて、兜を被るにも苦労する状況であった。
小牧・長久手の戦い時、膠着状態に陥った秀吉軍は、局面打開のため、家康の岡崎城を奇襲することを決意する(世に言う「中入り」という作戦である)。
小牧城から岡崎城に向かう途中の池田恒興軍が岩崎城に差し掛かったのは、払暁。
当初、道中を急ぐ池田軍は、岩崎城を素通りする予定でいた。
池田軍の進軍に気づいた氏次らは、いかに小城と言え、無視するとは馬鹿にしていると、攻撃を仕掛けた。思わぬ攻撃を受けた池田軍は、岩崎城を数にまかせて陥落させた。
城は何重にも包囲され、城の兵士はほぼ全員が殺戮された。
しかし、岩崎城で時間を取られた池田軍は、中入りに失敗してしまう。

この辺りの事情は、岩崎城HPに分かりやすく掲載されているので、そちらを参考にして頂きたい。
ここで、私が興味を持ったのは、「表忠義の碑」という存在である。
この碑は、岩崎城の一角に位置し、明治43年の建立。碑の文字は徳川慶喜が書いた。
この碑の存在は、大東亜戦争時にも利用された。
一億玉砕のスローガンの下、岩崎城の戦いは、いい事例になったのである。
軍服姿の兵士が、忠義の碑を見学に行っている写真が残されている。
岩崎城は、特に、この頃から名が知られるようになっていったようだ。
岩崎城は第二次世界対戦により、有名になったとも言えるのかも知れない。

岩崎城HP


岩崎城は、昭和62年に再築された。

併設する博物館にあるジオラマ。

↓ よろしかったら、クリックしてください。


長久手城趾

2009年03月10日 | 城趾
小牧・長久手の戦いは有名である。
再築された小牧城は、小牧に向かう高速道路からも見え、それなりに知名度がある。
しかし、長久手城は存在すら知られていないような城になってしまっていた。
城主は、加藤太郎右衛門景常。
長久手の戦いの際、池田恒興の軍に攻められ全滅した岩崎城主丹羽氏次の姉婿に当たる。
岩崎城が攻められた時、氏次は留守にしていて、城を守っていたのは氏次の弟である氏重と景常であった。
この戦いで丹羽氏一族とともに、景常も滅ぼされたため、長久手城も廃城となる。
はるかに200年以上も経ってから、文化六年(1809年)に、尾張藩士がこの地に観音堂を建てて、供養した。
今では、住宅地の中にぽつんとした広場に観音堂があるだけで、城趾を偲ばせるものは何も残っていない。
ただ、この城趾が位置する場所は、長久手町城屋敷というから、地名に僅かに痕跡を留めていた。


奥に見えるのが観音堂。手前は整地してあるものの、何もない。

↓よろしかったら、クリックお願いします。


蟹江合戦

2009年03月02日 | 城趾
さるかに合戦は有名だが、蟹江合戦はどうだろうか。蟹江敬三(古い!)の戦いではない。
ほとんど知らない人が多いに違いない。私も知らなかった。
蟹江合戦は、小牧・長久手の戦いの続編という位置づけになるのだが、小牧・長久手の戦いすらについてもあまり知られていない現在、その続編などは、知名度が更に低くなるのは当然ともいえる。
名古屋において、合戦のあった長久手は鬼門とされていて、比較的開発が遅れた地域である。
住んでいる人にとっては、合戦があったという史実は、あまり気持ちのいいものではないに違いなく、ましてや、観光地などにもならない。
関ヶ原にしろ、桶狭間にしろ、同じことが言える。ただ、住宅化が進んでいない地区においては、多少観光地めいた場所になる傾向があるようだ。
長篠のように珍しくイベントを組んで祭りにしている例などである。だが、大概は、そっとしておいて欲しい話なのだろう。
長久手の戦いは地元の住人であれば、当然あった事実くらいは知っているが、蟹江合戦は、もはや存在すら忘れかけられつつある。
戦いの規模の違いが原因なのだろうか。
蟹江合戦の発端は、小牧・長久手の戦いで敗れた秀吉が雪辱を晴らそうと起こしたとする説がある。また、尾張における制海権を確保するためとも言われている。
家康と織田信雄の仲を裂くために行われたという説もあったが、なぜ、この戦いで、二人の仲が裂かれるのか、よく分からない。
蟹江城の城主は、信雄側につく佐久間正勝であったが、当時は伊勢に戦いに行っていた。留守を守っていた前田与十郎が秀吉側と内応していたので、その手引きにより滝川一益を主将とする秀吉軍は入城した。ここまではよかったが、協力を見込んでいた大野城主山口重政の援軍を得られずに、敗退した。
天正十二年(1584年)六月のことである。
この敗戦の因となったのは、馬鹿らしいような失敗である。
海から来る九鬼大隈守に合図を送ろうとした与十郎側の狼煙が、周囲の民家に移り火し、その火を信雄の軍に発見されてしまったからだと言う。信雄軍は、急遽清州城から軍を送り、一益の船を奪う。九鬼は、素早く逃走しようとするが、信雄軍に捕まってしまった。こんな状況では、山口重政も協力はできる訳もなかった。
何だか、大した戦いではないような気がするが、秀吉はこの戦い以降、家康を力で抑えようとするのを止めたという。
そういった意味では、歴史的な戦いであり、小牧・長久手の最終戦と言ってもよい。ただ、主役の登場しない代理戦争的であり、家康VS秀吉の最後の戦いとはいえ、後世に伝わりにくかったのでは、と思われる。

蟹江城の名残を伝えるものとしては、この碑の隣に井戸が残っている。後は何も残っていないが、住宅地の真ん中に立派な石碑だけがポツンと建っている。車では行けない細い道沿いである。


ごく簡単な立て看板だけが、立てられているが、必ずしも書かれている内容は正確ではない。


すぐ近くには蟹江川が流れる。今では、蟹江川はどうということのない川である。
よろしかったら、クリックお願いします。



小幡城と家康

2008年09月24日 | 城趾
天正10年6月2日(1852年)本能寺の変。織田信長が明智光秀に倒された。光秀は秀吉に倒され、その後、本格的に秀吉が天下取りに邁進していく訳だが、秀吉政権前夜に起きたのが小牧・長久手の戦いである。
時に、天正一二年(1584年)。
実質的に秀吉と家康の間で起きた小牧・長久手の戦いは、羽黒の戦い、白山林の戦い、桧ケ根の戦い、仏ケ根の戦いといった局地戦の総称である。
開戦に当たり、家康が小牧山、秀吉が犬山城に布陣を敷いた。
岡崎から戦いに出向いた家康と、大坂から出陣した秀吉であったが、家康が第二の拠点としたのが小幡城である。
家康の動きを見てみる。

4/ 8 22時 先発隊 小幡城に入城
4/ 8  0時 本隊   小幡城に入城
4/ 9  2時 小幡城を出発
4~5時 白山林の戦い
7時過ぎ 桧ケ根の戦い
12時   仏ケ根の戦い
16時   小幡城に退却
20時  小牧山へ帰陣


4月9日の17時には、秀吉軍も小幡城から2.5km先に位置する竜泉寺城に移動しており、小幡城を急襲する計算だった。しかし、秀吉が偵察隊を派遣した時点で、家康は早くも小牧に陣地を戻していた。
小幡城においては、家康の行動の迅速さ、鮮やかさが光り、競り合いは起こらなかった。

小牧・長久手の戦いは、家康が秀吉に勝った戦とされ、少数隊が多数隊に勝利したとも言われている。しかし、関ケ原の戦いのように二つの軍ががっぷり四つに組んで戦った訳ではない。局地戦で家康が多く勝利を得たに過ぎず、総合的にどちらが勝者であるかは、はっきりしない。
長久手教育委員会が出版した「長久手の戦い」の中で、柴田義雄氏は次のように述べている。

秀吉は、長久手の戦では、開戦前に自己の傘下に誘引した池田一族が、壊滅的打撃を受けただけで、自己の武将は無傷に近い。
しかし、家康は、自己の率いる主力部隊が大きな損害を受けている。その点、長久手の戦は、家康の全面的な勝利を意味しない。


また、名古屋大学教授の三鬼清一郎氏は対談の中で、次のように述べている。

確かに局地戦で秀吉は敗北したわけで、これははっきりしていますが、そのあと美濃・尾張あたりでの戦いで、結果的に家康を追い詰めていって、天正十二年十一月十五日の信雄(織田)との講和では明らかに秀吉が勝者として臨んでいます。

印旛、猪小石、森孝新田、矢田川、香流川などは、すっかり住宅地になっている。このような地で合戦が行われたというのは、今では信じられないようなことである。

「劇画 小牧・長久手の戦い」 長久手教育委員会
「長久手の戦」 長久手教育委員会
「小牧・長久手の戦い」 小学館ウィークリーブック


今も、城に関係した町名は多く残るが、城趾跡の場所を知る人は地元民でもほとんどいない。

一昔前は畑だったと言うが、今は駐車場になっている。場所は岡の頂上のような場所になっており平地は少ない。

例によって、簡単な立看板が残るのみ。名古屋市はもう少し考えたほうがいいのでは。

今はケアホームが建つが、斜面にへばりつくような感じは、城を想像させる。

彼方に小牧山を望む。


↓ よろしかったら、クリックお願い致します
人気ブログランキングへ