木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

近藤勇・写真の値段

2009年10月26日 | 江戸の写真
古写真研究家の森重和雄さんから連絡を受けて、10月20日放映の「何でも鑑定団」という番組を観た。
個人的にはこの司会者が嫌いなので、ほとんど観たことがなく、先日もハードに落として司会者のコメントの部分を早送りして観た。
内容的には新選組の土方歳三近藤勇の写真2枚の価格は?というもの。
現在、二人の写真として残っているものはほとんどがコピー品でオリジナルは少ない。今回の写真はオリジナルから直接複写したものだそうだが、それでも貴重品である。価格は2枚で150万円がついた。かなりの高価格と思えるが、どうなのであろうか。
今回の近藤勇の写真は京都の堀与兵衛、土方歳三の写真は北海道の田本研三が撮影したものであるというのが定説になった。
近藤勇=堀与兵衛撮影説は、森重さんが主張した説である(土方歳三=田本研三撮影説は日本写真協会副会長の小沢健志さんらが主張したものであるが、森重さんも再考証している)。
古写真に興味がない人にとってはどうでもいい話なのであろうが、従来は上野彦馬か、下岡蓮杖のどちらかが撮ったのではないか、というのが通説であったと聞くと、古写真研究の遅れを感じる。幕末期、写真師は彦馬と蓮杖のふたりしかいなかったかというと、決してそんなことはない。
今では堀与兵衛も田本研三も知名度がないかも知れないが、当時、その地にあっては知らない人がないほどの名士であった。時代の流れは人の名声をも押しやってしまうが、作品は後世に残った。堀や田本の名前は知らなくても、近藤や土方の写真は多くの人が見ている。
仮にこれらの写真がヘンテコなものだったら、その写真師は後々まで恥ずかしい思いをしたであろうが、幸いなことにどちらも彦馬や蓮杖の撮ったものに比べても遜色ない。
当時はシャッターさえ押せば誰でも撮影できるという時代ではなかったが、逆に現代は、シャッターを押せば誰でも簡単に写真が撮れる。
だが、360度広がる空間の一部を切り取るのが写真であり、漠然と撮影していたのでは、いい写真は撮れない。何を捨てて、何を取るのか、視点の取捨選択が重要である。
シャッタースピードの速さという武器を手に入れた現代においては、連続する時間の一部を選択できるようになったが、それは同時に、写真が空間と時間という三次元世界へ移行した証でもあった。
幕末においては、まだ乾板方式がなく、長い露光時間が必要であったため、動いている被写体は撮影できなかった。「瞬間」は撮れなかったのである。雨天の日や、もちろん夜間には撮影できなかった。色々な制約が多かったはずなのだが、その頃に撮られた多くの写真が現代写真に勝るとも劣らないと感じさせるのは何故だろう。被写体となった者の人物的な魅力もあったのだろうが、写真師の意気込みという部分も大きかったと思われる。
坂本龍馬や高杉晋作の写真には、本人の性格が表れているという人がいるが、田本や堀が撮った近藤や土方の写真からはどのような性格が読み取れるのであろうか。


幕末写真の時代 小沢健志編 ちくま学芸文庫

森重和雄さんのブログは○こちら
人気ブログランキングへ

賜杯と頭蓋骨

2009年10月12日 | スポーツの周辺
大相撲の優勝者には内閣総理大臣杯が土俵の上で授与される。見慣れた光景である。また、サッカーやバレーボールなどには天皇杯が冠される大会がある。
この杯は、英語で言うと、勿論CUPである。
勝者がCUPを貰うのは、戦勝国の軍人が敗戦国民の頭蓋骨を割って、その中に酒を入れて飲み交わしたからだと言われている。

では、日本の杯の起源はどうであろう。
日本では、茶席や宴席の後で、客が茶器や杯を持って帰る習慣があった。この習慣が後には、箱詰めしてお土産に持たされるようになり、更には口をつけてもいない杯を贈答する行為にまで変化した。
もともと、酒は智水とも呼ばれ、賢くなる薬とされていた。お祭りの際に呑むものであり、神事に関わっていた。今でも初詣などの際にはお神酒を貰うが、これは神霊の分霊を貰って幸福を得るという思想に基づくものである。酒には神様の霊魂や霊力の延長が存在するという意識である。
酒を他人に贈る行為は、自分の魂の分霊を送る行為であった。

余談になるが、この酒にはつまみが添えられるのが普通であった。そのつまみは、のしアワビと決まっていた。
時代が下るとのしアワビは省略され、包み紙のみとなった。これが熨斗(のし)の語源である。
今は熨斗も印刷されたものが多くなったが、よく見ると、黄色いものが上にはみ出している。これが、のしアワビである。

酒が神聖なのと同様に杯も神聖なものである。
天皇が賜杯されるのも、もとは神聖な行為だったのである。
昨今、大相撲の外国化が言われて久しいが、朝昇龍をはじめ、諸外国の力士はこの日本的習慣について知っているだろうか。
彼らはCUP式に相手の頭蓋骨に酒を入れて呑みたいほうかも知れない。
ガッツポーズを禁止する前に、なぜガッツポーズがいけないかを納得の行く説明をして上げないと、横綱の品位以前の問題として水掛け論になってしまう可能性が極めて高いのではないだろうか。


日本人の歴史 樋口清之 講談社


人気ブログランキングへ

大名の通勤ラッシュ

2009年10月09日 | 江戸の交通
江戸時代、江戸は武家の町だった。
江戸の人口は二百万人を超え、世界最大の都市だったと言われるが、実態はよく分からない。
これは、各地から江戸屋敷に詰めに来ている勤番武士の総数がはっきりしないからである。
武士は戦士である。その総数を発表するというのは兵力を公表することになるから公表されなかった。
江戸時代も後期になってくると、多分に見栄なども働いて尚更、発表を控えたのであろう。

江戸の人口については → こちらをクリック

土地の占有率から見ると、これは具体的に分かる。大雑把だが、
武家地70%  寺社地15%  町人地15%である。

大名の屋敷というのは、大体において上屋敷中屋敷下屋敷の三つに分かれる。
大体において、と言ったのは、中には中屋敷を持たない大名もいたし、複数の下屋敷を所持している大名も多かったからである。
屋敷というと殿様の江戸邸宅のように思われるかも知れないが、邸宅というよりは会社、あるいは役所に近い
国許と東京にそれぞれ本社を置いているような格好である。
殿様を議員に喩えると、江戸城は国会であろう。殿様の仕事としては江戸城へ行くのが一番重要な任務であったが、毎日登城した訳ではない。
定例としては大体月3回、その他、正月や八朔(8月1日)のようにあらかじめ決められた日取りと、子息生誕のような慶事、あるいは弔事のために臨時に登城する場合があった。

殿様は江戸城にほど近い上屋敷に住んでおり、登城ももちろん駕籠によるものであるから、通勤もさぞ楽かと思うと、さにあらず。

三百諸侯のうち、江戸詰めのある二百もの大名が何十人もの従者を引き連れて、一斉に登城するのである。
行列の人数は家格によって異なったが、外様の雄藩である広島藩の場合は八十人であったという。
この時代、武士が公式行事に遅れるのは厳禁である。
御城から歩いて何分も掛からないとことに住む大名も二時間前には屋敷を出て、城に向かったのである。
それこそ御城前は大層な混雑振りだったのであろう。

江戸時代は格式の時代であるから、大名が駕籠で乗り入れられる場所や伴ってよい従者の数も決められていた。
どんな大大名も城の奥に進むに伴って、駕籠を降ろされ徒歩で進むしかなく、従者の数も段々と減らされ、最後は一人で玄関を潜る。
心理的な圧力をかけると言う点では、効果的だ。
城の内部に入っても様々なしきたりがある。刀はどこまで持っていっていいか、着るものは何か。
儀礼ともなれば尚更で、忠臣蔵の浅野内匠守などはそのストレスに参っていたという説もある。
大名の登城もなかなかストレスの溜まるもので、楽ではなかったようだ。

「大名屋敷の謎」 安藤優一郎 集英社新書
 

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。
人気ブログランキングへ



明るい絶望感

2009年10月04日 | 日常雑感
杉浦日向子が「江戸時代は明るい絶望感に包まれた時代だった」というニュアンスのことを言っていた。
その根底にあったのは平等感であったと思う。殿様と痩地の農民などと言うと、天地ほどの差があるような気もするが、不平等という点では、現代社会のほうが遥かに格差が大きい。
自分が貧しくても、みんな同じだと思うと諦めも付く。これは仏教的な諦観に依るものなのだろうが、今はアメリカン・ドリームだか、ポジティブ・シンキングだか知らないが、みんな諦めない。
諦めないのはいいことだ。
だが、物事に優先順位を付けないで、どれもこれも諦めない、ではできることもできなくなってしまう。
何が本当に自分が行いたいことなのか。何が自分にとって必要がないのか。
金なのか、愛なのか、権力なのか。
一度バスに乗ってしまうとバスは止まらず、スピードも速過ぎて飛び降りることもできないのが現代だ。
今、私はそろそろ決められたバスを降りたいと思っている。
けれど、バスを降りれるのはひとつの贅沢にさえなっているのが現実だ。

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。
人気ブログランキングへ