中原中也は、帽子を被った写真が有名である。中也というと大抵の人が頭の中に思い浮かべる例の写真である。
この写真は非常に写りがいい。いかにも「汚れちまった悲しみに」を書きそうな純真な青年に見える。
もし、この写真がなかったら、中也の人気はこれほどのものにならなかったかも知れない。
梁川星厳。妻、紅蘭。
まるで中国歌劇俳優の名前のようであるが、れっきとした日本人である。名前の持つ語感から、美男美女を想像する人もいるかも知れない。
しかし、今に残る二人の肖像画は、もう少しどうにかならなかったのか、と思ってしまう代物である。
中国への憧れがあり、多分に唐化された絵であるとしても、あまりにも、という絵だ。
当時と今では美的感覚に大きすぎるずれがあるのだろうか。
妻の紅蘭の絵もひど過ぎる。
せっかくの肖像画なのだから、もう少し何とかならなかったのだろうか、などと思ってしまう。
梁川星厳。
寛政元年(1789年)に大垣に生まれ、安政の大獄がまさに吹き荒れようとする安政五年(1859年)に70歳で亡くなっている。記念館は、星厳生誕の地に建てられている。
幕末当時、星厳は詩の世界において、非常に有名であった。
吉田松陰や頼山陽とも親交が深く、尊皇思想のPR塔のような役割も果たした。
その知名度が今では低いのは、当時星厳が名を成した七言絶句などの詩が現代では全くマイナーな分野になってしまったからでもある。
星厳が著名であったのは、津の『有造館』督学(校長)も経験した土井贅牙と弟子との会話でも分かる。
あるとき、九州の広瀬淡窓が津藩にやってきた。
その際に、門人が贅牙に向かって「先生は淡窓に会いに行くのですか」と質問したが、贅牙は次のように答えた。
「余は、昨年に梁川星巌が来た際も会わなかった。星巌にすら会わなかったのだらから、淡窓などに会う訳がない」
非常にプライドの高さを感じさせる発言であるが、別の捉え方をすると、梁川星巌の評判はそれほど高かったのだという裏付けにもなる。
星巌は、奇人であることがことさらに強調されがちであるが、作風や思想を見ると、奇をてらわず、むしろ正統派といってもいいものであることが分かる。
彼が考えていた代表的な考えとしては『三教由来同一源』というものがある。
これは「その教えの源を遡っていけば、儒・仏・道の三教相違ならず」というもので、合理的な考え方である。
しかし、行動をみると、やはり奇人としての行いも多い。
新婚後まもなく、さしたる理由もなく家を出てしまい、二年間もの間、留守にしたこともあった。
妻の紅蘭もよくその奇行に耐えた。というよりも、むしろ奇行に自ら参加している、といったほうがいいのかも知れない。
星厳は、美食家であった。
大坂に旅した折り、時季はハモの頃。
当時、大坂ではコロリ(コレラ)が流行っており、ハモを食べるとコロリに感染すると言われていた。要するに生ものに菌が付着していたのであろう。
ハモが食べたくなった星厳は、友人からコロリへの感染が心配なので食べないように言われるが、星厳はどうしてもハモが食べたくなって、食したところコロリに罹ってしまったというのである。
なんとも人間臭い話である。
梁川星厳記念館 大垣市曽根町1-772 華渓寺境内 0584-81-7535
(入館無料。会館時間などは問い合わせたほうがよい)
記念館裏手にある曽根城公園内にある星厳と紅蘭の像。ふたりとも「普通の」顔をしている。
星厳肖像画。まるで伝説の仙人といった趣。
なんか意地悪そうな顔の紅蘭。紅蘭は旧名を景と言い、星厳の又従兄弟であり、生徒でもあった。一回りも年の違う紅蘭は夫をよく理解した。夫唱婦随と言われ、5年の間、西国を中心に諸国を漫遊した。二人の肖像が美男美女に描かれていたら、JTBあたりの旅行会社のCFに出ていたかも知れない。
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この写真は非常に写りがいい。いかにも「汚れちまった悲しみに」を書きそうな純真な青年に見える。
もし、この写真がなかったら、中也の人気はこれほどのものにならなかったかも知れない。
梁川星厳。妻、紅蘭。
まるで中国歌劇俳優の名前のようであるが、れっきとした日本人である。名前の持つ語感から、美男美女を想像する人もいるかも知れない。
しかし、今に残る二人の肖像画は、もう少しどうにかならなかったのか、と思ってしまう代物である。
中国への憧れがあり、多分に唐化された絵であるとしても、あまりにも、という絵だ。
当時と今では美的感覚に大きすぎるずれがあるのだろうか。
妻の紅蘭の絵もひど過ぎる。
せっかくの肖像画なのだから、もう少し何とかならなかったのだろうか、などと思ってしまう。
梁川星厳。
寛政元年(1789年)に大垣に生まれ、安政の大獄がまさに吹き荒れようとする安政五年(1859年)に70歳で亡くなっている。記念館は、星厳生誕の地に建てられている。
幕末当時、星厳は詩の世界において、非常に有名であった。
吉田松陰や頼山陽とも親交が深く、尊皇思想のPR塔のような役割も果たした。
その知名度が今では低いのは、当時星厳が名を成した七言絶句などの詩が現代では全くマイナーな分野になってしまったからでもある。
星厳が著名であったのは、津の『有造館』督学(校長)も経験した土井贅牙と弟子との会話でも分かる。
あるとき、九州の広瀬淡窓が津藩にやってきた。
その際に、門人が贅牙に向かって「先生は淡窓に会いに行くのですか」と質問したが、贅牙は次のように答えた。
「余は、昨年に梁川星巌が来た際も会わなかった。星巌にすら会わなかったのだらから、淡窓などに会う訳がない」
非常にプライドの高さを感じさせる発言であるが、別の捉え方をすると、梁川星巌の評判はそれほど高かったのだという裏付けにもなる。
星巌は、奇人であることがことさらに強調されがちであるが、作風や思想を見ると、奇をてらわず、むしろ正統派といってもいいものであることが分かる。
彼が考えていた代表的な考えとしては『三教由来同一源』というものがある。
これは「その教えの源を遡っていけば、儒・仏・道の三教相違ならず」というもので、合理的な考え方である。
しかし、行動をみると、やはり奇人としての行いも多い。
新婚後まもなく、さしたる理由もなく家を出てしまい、二年間もの間、留守にしたこともあった。
妻の紅蘭もよくその奇行に耐えた。というよりも、むしろ奇行に自ら参加している、といったほうがいいのかも知れない。
星厳は、美食家であった。
大坂に旅した折り、時季はハモの頃。
当時、大坂ではコロリ(コレラ)が流行っており、ハモを食べるとコロリに感染すると言われていた。要するに生ものに菌が付着していたのであろう。
ハモが食べたくなった星厳は、友人からコロリへの感染が心配なので食べないように言われるが、星厳はどうしてもハモが食べたくなって、食したところコロリに罹ってしまったというのである。
なんとも人間臭い話である。
梁川星厳記念館 大垣市曽根町1-772 華渓寺境内 0584-81-7535
(入館無料。会館時間などは問い合わせたほうがよい)
記念館裏手にある曽根城公園内にある星厳と紅蘭の像。ふたりとも「普通の」顔をしている。
星厳肖像画。まるで伝説の仙人といった趣。
なんか意地悪そうな顔の紅蘭。紅蘭は旧名を景と言い、星厳の又従兄弟であり、生徒でもあった。一回りも年の違う紅蘭は夫をよく理解した。夫唱婦随と言われ、5年の間、西国を中心に諸国を漫遊した。二人の肖像が美男美女に描かれていたら、JTBあたりの旅行会社のCFに出ていたかも知れない。
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