木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

愛知県の博物館リスト

2014年06月18日 | 忘備録
偶然、「愛知県の博物館」というHPを発見した。
個人の方が作っておられるHPで、実際に足を運んで実地調査を行ったうえでの、愛知県にある博物館の調査報告だ。
これは力作HPだ。
博物館というのは、どういう訳か、あまり宣伝されていない例が多く、車で走っていて偶然に「こんなところに、こんな施設があるのか」と驚く事も多い。
立派な設備の割りに見学者の数はまばらか、あるいはゼロという例も少なくない。
見学者が少ないほうが、仕事が楽だなどと思っているわけではないだろうが、PR不足は不思議であるし、不便でもあった。
「あいちの博物館」は公立、私立を問わず、愛知県にある全てといってもいい博物館、資料館を網羅したHPだ。
愛知県に住む人はこんなHPがあって、幸せだ。

愛知県の博物館

↓ よろしかったら、クリックお願いします!

人気ブログランキングへ


徳川家達と慶喜

2014年06月11日 | 江戸の人物
徳川慶喜は最後の将軍と言われる。
もちろんその通りなのだが、世間の耳目を集めた最後の徳川家宗主は徳川家達である。
大政奉還の四年前の文久三年に御三卿のひとつ、田安家に生まれ、昭和十五年に鬼籍に入った。

慶喜は良きにつけ、悪きにつけ、幕末の一瞬に華々しく閃光を放った。
慶喜の自意識の強さは何かにつけ喧伝されるが、自意識では家達も負けてはいない。
慶喜と家達の年齢差は二十六歳。
年齢差を考えると、年長の慶喜は、家達のよきアドバイザーだったかのようにも思われるがさにあらず。

慶喜は宗家当主である家達の管理下に置かれていた。
こんなエピソードもある。
さる大名家に招かれた際、慶喜が先に到着し、上座に座っていたところ、あとから着いた家達が「わたしの座るところがない」と告げ、慶喜は慌てて席を譲ったと言う。
家達は「慶喜は徳川家を滅ぼした人。わたしは徳川家を立てた人」と常々口にしていたという。
また家達は「明治以後の新しい徳川家の初代だという意識が強くて、将軍家の十六代ではない」と言っていた。

明治三十六年、家達は貴族院の議長に選出された。
このポストを家達は五期、三一年もの長期に亘って勤めた。
評価をみてみると、政治家としての能力は特筆すべき点はないが、職務遂行と言う点では何ら問題ない、といったものだった。
その家達に大きなチャンスが訪れたときもある。

大正三年、山本権兵衛内閣がシーメンス事件で退陣すると、国民の反発を避ける意味合いで門閥色の強い家達に組閣の白羽の矢が立ったのである。
家達は同族会議を開いて首相の座を辞退するという結論を出したため、大隈重信内閣が誕生する。
生々しい政治の第一線から距離を置いたのは、よきアドバイザーだった勝海舟の影響が大きかった。

昭和四年になると家達は、日本赤十字社社長に就任。
ゲーリー・クーパーと一緒に写真に収まっていたりする。
このポストは家達にはぴったりだったのではないかと思う。
家達は社交家で、政治には一家言を持たず、協調精神にあふれていた。
それに英語にも堪能。
虚栄心も満足させてくれる日本赤十字社社長ははまり役だった。
幕末に将軍に即位していたらどうだったかと思うが、歴史でイフを考えても仕方がない。
家達は、幸せな時代に生まれ育ったのではないか、と思う。
一瞬の輝きと、永い日陰の暮らしを過ごした慶喜とは余りにも対照的である。

参考資料:第十六代 徳川家達(祥伝社新書)樋口雄彦



↓ よろしかったら、クリックお願いします!
人気ブログランキングへ

<iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?t=tadious-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4396112963&ref=qf_sp_asin_til&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>


吉良上野介と東条城と葛飾北斎

2014年06月04日 | 江戸の人物
愛知県の吉良は、県外の人にはあまり知られていないだろうが、リゾート地である。
ワイキキビーチなる海水浴場もある。
どこかの国とは違って、きちんとハワイから名前使用の許可を取っているところが日本らしい。

この地名を名字として名乗るようになったのは、足利義氏の長男・長氏で、時代は承久三年(1221年)にまで遡る。
この流れが、忠臣蔵で有名になったあの吉良氏に繋がる。
居城は東条城。

忠臣蔵はいかにも日本人好みの話で、赤穂は義士、吉良は悪い殿さま、という図式が出来上がっているが、田沼意次のように必ずしも吉良上野介だけが悪かったのではないというのが近年の通説に変わってきているようである。
考えてみれば殿中で斬りかかった浅野内匠頭{たくみのかみ}のほうが一方的に悪い訳で、切腹のうえ御家断絶の処置は厳し過ぎたとは言えない。
トップの無分別な行動で職を失った赤穂藩士のその後の身の処し方は立派とも捉えられるし、切腹といった罰が科せられた時点で伝説となった。

一方で哀れなのは、吉良藩士である。
もし討ち入りの際、返り討ちにしていたら「忠臣蔵」はどのように変わっていたのだろう。
実際は、返り討ちどころか四十七士が怪我人二人だけだったのに対し、十七名もの死者を出している。
そのうえ、吉良上野介義央{よしひさ}の息子・吉良義周{よしちか}は、討ち入りの際、背中を斬られていたところから逃げたのではないか、との嫌疑を掛けられ、諏訪に流された。
そのうえ、赤穂浪士に味方する世論にも影響を受け、吉良家は所領を没収され、東条城も廃城となる。
義周は、この事件の四年後に、配流地の諏訪で二十二歳の短い人生を終えている。
このとき、義周の死を看取った旧臣は、二人だけだったと言われている。
赤穂浪士が英雄視されるなか、武士の身分も失い、周囲から冷たい目で見られた吉良藩士こそ、悲劇的だ。

ところで、討ち入りの日の死者の中のひとり、小林平三郎央道が葛飾北斎の祖父だったとう説がある。
この説はどうも眉唾ものだが、話のネタとしては面白い。

もうひとつ、内匠頭と上野介の確執が、塩を巡るものとする説がある。
赤穂の塩の製造方法を教えて欲しいといった上野介の申し出を内匠頭が断ったことから確執が生まれたとする説だ。
吉良の塩は、饗庭塩{あいばじお}と呼ばれ良質の塩であった。
その証拠に、下って大正三年に塩業整理が行われたときも、東日本では宮城県、千葉県と並んで三大産地として存続された。
赤穂の塩はにがりが多く、吉良の塩はにがりが少ない特徴があるが、必ずしもにがりの多い塩がいい塩とは限らない。
どうもこの説も疑わしい。


東条城の城址は「古城公園」として物見やぐらが再建されている。しかしどうにも中途半端という印象を拭えない。場所も分かりにくい。


かつては饗庭塩として名声を博した吉良塩も今では単発で作られるのみ。高校生が授業の一環として作っているというが、地域活性化のためにもぜひレギュラー商品化してほしい。

↓ よろしかったら、クリックお願いします!

人気ブログランキングへ
人気ブログランキングへ